■悟りとボケの間で
「凡人の私でも悟れるか?」というのが、今の私のテーマである。仏像でも彫っていれば、その内に悟れるんじゃないかと安易に考えていた。 ところが、仏像彫刻を始めて6年以上も経つのに、いまだに悟りの境地とは程遠い。
では、「なぜ悟りたいのか?」というと、自分でもよく判らないから困る。
成願寺
私の子供の頃に、お爺さんというのはみんな悟ったような顔をしていて、それを見ていた私は、「いいなー」と思っていたからかもしれない。
自分がその年になってみたら、全然悟ってなんかいない。
でも油っ気は抜けているので、誓って言うが、痴漢や盗撮はしない。物欲も無くなって来たし、食欲も衰えた。
百済観音像(制作途中)
どんな欲が残っているかと考えたら、なにも無い。
出来ることなら、「死ぬ間際まで健康でいたい。そして、女房や娘の厄介者になりたくない」ということだけである。
そんなことを考えながら、百済観音像を彫っている。
この仏像のスタイルはあまり好みではないが、技術的には難しい。
成願寺のギンナン
これは9月初めに伊達市から戻って、最初の作品である。
途中でスランプもあり、なかなか進まない。
暑い頃に彫り始めたのに、涼しくなり、そして教室のある成願寺の銀杏の葉も落ちた。
やっと完成した時は、寒い冬となっていた。
こうやって「平穏に時が過ぎて行くことが、悟るということ」なのかもしれないと思うようになったのである。
百済観音(完成1)
(おまけの話)
欲が全く無くなったと書いたが、よく考えてみたら、「良い映画は見たい」という欲が残っていた。
また、良い本も読みたい。良い友人とも交流したいと思う。
最近、見た映画では「武士の家計簿」が良かった。
借金まみれの武家を立て直す話で、チャンバラは一切出て来ないという珍しい侍ものの映画だ。
百済観音像(完成2)
読んだ本では「永遠のゼロ」が良かった。
この本は伊達の建築家のSさんも読んだそうで、私にも推薦して来たが、その時には既に読み終っていた。
この本は久し振りに、涙無くしては読めなかった。
これらの欲も無くなれば、「悟る」のかと思ったが、よくよく考えてみたら、これらも無くなる時は、「悟り」ではなく、「ボケ」だと気が付いた。
だから、永遠に悟ることは無いのであろう。