大光悦郎さんは1945年、伊達市生まれ、伊達育ち。18歳のときにギタリストとしての才能を開花させ、若くして世界へと名前を轟かせました。
その後の紆余曲折を経て、やがて2003年、スペイン王立芸術音楽祭「コンセルバトリオ国際ギターコンクール」の審査員、また「アンドレス・セゴビア国際ギターコンクール」の審査員をも務めました。世界最高峰と言われる両コンクールに、日本人で初めての審査員として任命されたのです。
現在、自ら発足した総合企画FMA(フォローメンバーズアーティスト)にて音楽家(アーティスト)をバックアップし、コンサートを開催したり、また「大光ギター教室」では初心者の小学生から上級者の大人まで、何人もの生徒を指導し、自身の「大光芸術」を伝える活動を続けています。
教室には、自宅のレッスン室(2階の3部屋を全て)を使いますが、
その他、一階のリビングもまるごと音楽室になっており、いつでもリハーサル稽古ができるようになっています。
吹き抜けの天井と造りのせいで音がよく響く、音楽家が喜ぶ空間です。
大光氏は、少し会っただけでも「タダモノではない」と感じさせる特別な雰囲気を持っています。
そのため何の関係もない人からでさえ「大光先生」と呼ばれていますが、確かに、会えば誰もが自然にそう呼んでいる、そんな方です。
さて、大光氏は、二十代後半〜三十代の頃、ギターの勉強のためスペインに招待され留学しています。
その間、「たぐいまれな才能」とか「独学の天才」と賞賛され、様々な賞を受賞しました。
しかし、そのことについてご本人は、
「まだ発展途上だと思っている自分の演奏なのに、その程度で天才と言われ、失望した。
本場のスペインだというのに・・・」
そのときの思いを「挫折感」「挫折した空しさ」とまで言います。志が高い、と一言で言ってしまうこともできますが、ギターの音をとことん聞き分けられる大光氏が、冷静に自分を判断した、その力も並のものではありません。
そのときの氏はまだ三十代そこそこだというのに、受賞し、世間的な地位を約束されても、喜び勇むことをしなかったのです。
その後、帰国しますが、中央からのメジャーへの誘いを全て断り、独学を続けます。
やがて四十歳のころ、自分の音を見つけた大光氏。
見つけたものを世界に聴いてもらおうと決めた矢先、指の故障に見舞われます。
奏でる指(親指と人差し指)が日に日に、見る見る動かなくなっていったのです。
人前で演奏すること、音を人に伝えることから一時身を引くことになります。
それは「ふたたびの、真に大きな挫折」でした。
ほぼ20年もの間「死に直面しているような絶え間ない焦燥感に襲われていた」と語ります。
しかし、その動かない指で、今でも何かに取り付かれたようにギターを弾きます。
ギターの音に対する情熱は少しも冷めていないというから尋常ではありません。
(体力も筋力も気力も行動力も尋常ではありません!)
ときどき見せる子供のような笑顔と、やわらかさ。それは、幾度もの挫折を越えて来た、真に強い者の表情なのではないかと感じます。
現在でも生まれた地に在住し続けている自分を「バッハと同じ」だと笑って語る大光氏は、今年の初夏に、大切なリサイタルを計画中。
ピアニストの友人が伊達に来ることをきっかけに、二十数年ぶりに自らが舞台に立って演奏することを考えている、といいます。不屈の挑戦はまだまだ続きます。
この記事の一部と、大光氏の半生を綴った物語(第1回目)は、
2月29日創刊・別冊むしゃなびブック<絵本の巻>に掲載!
大光悦郎ギター教室・総合企画FMA
北海道伊達市松ヶ枝町 / TEL 0142-23-3732
※記事の内容は取材時の情報に基づいています。(取材2012年)
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