■鬼門と裏鬼門
方位の禁忌としてよく知られている鬼門…。その由来には諸説ありますが、中国最古の地理書とされる「山海経」にある説話が元になっているという。中国の東北に度朔山という山があった…。山の上には三千里にも枝を伸ばした桃の木があって、東北の隅にあたる枝は門のような形をしていた。そこは様々な鬼が出入りするために鬼門と呼ばれたのだけど、神荼、鬱壘という名の兄弟の神が鬼の検閲にあたり、悪鬼が来た時は葦の索で縛り上げて、虎に食わせた!そのため度朔山は平穏を保てたという…その説話が、北東の方位を鬼門と呼ぶようになった由来らしい…。
一方、歴史に起源を求める説もあって、紀元前3世紀から紀元後5世紀にかけて、中国の北東に匈奴という騎馬民族がいて猛威を奮っていた…。匈奴は度々、中国を襲い、殺戮や略奪を繰り返した。そこで、鬼のような匈奴が襲って来る北東の方角を中国の民は忌み嫌ったというのさ…。匈奴を中国がいかに脅威に感じていたかを示すのが、秦の始皇帝が築いた万里の長城でして、延べ2800キロにも及ぶ、長大な城壁は匈奴の攻撃から国土を防衛するためのものだったそうで…。
北東が鬼門とされたのに対して、南西は裏鬼門として恐れられた。南西からは農耕にとって重要な時期である春から秋にかけて季節風や偏西風等が激しく吹き付け、農作物や家屋を荒らした。災害をもたらすそれらの自然の脅威を恐れ、忌み嫌ったところから、南西は裏鬼門とされたという説がある。
日本には奈良時代に陰陽道と共にこの考えも伝わったみたいなんですが、鬼門を尋常ならざるほどに恐れた人物がいて、桓武天皇という人物…。彼は即位する過程で、井上内親王、他戸皇子母子の”呪い疑惑”による幽閉、憤死事件が起き、その祟りからか疫病が流行り、自らも病魔に侵される等、身近で数々の異変を目のあたりにして来た桓武天皇だけに、災禍をもたらすものについては人一倍敏感だったらしい…。
平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都を繰り返したのは、政治的な意味合いだけでなく、怨霊の呪いから逃れるための意味合いが強いと思われる…。
平安京を置いた地も陰陽道の自然観によるもので、北に山、東に川、西に大きな道、南に開けた湖水がある池が、陰陽道では最も都にふさわしいとされた。北に船岡山、東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池がある平安京の位置はその条件を全て備えている…。
後には、四神相応の地という考え方がもたらされて、東西南北それぞれの方位には、そこを護る四神が棲むとされ、平安京では船岡山には玄武、鴨川には青龍、巨椋池には朱雀、山陰道には白虎が棲んでいると考えられた。
御所の東北(鬼門)には鬼門封じが行われ、周囲にめぐらされた塀の北東の角が欠けたようになっている”猿が辻”と呼ばれる場所がそれで、上には御幣を持った木彫りの猿が祀られている。さらに御所から北東にあたる方角にも神社が建てられ、同様に鬼門封じが行われている…。猿田彦神を主祭神とする幸神社、赤山大明神を祀る赤山禅院等がそれでして、前者にも御幣を持った猿の木像があるし、後者にも本殿の屋根に猿が置かれている。猿は魔除けの象徴とされていたようで…。