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[2011.06.22]
■オールディーズと私 
我々の世代はビートルズの世代である。 
1964年に私がニューヨークにいた時に、ビートルズが初めてアメリカ公演の為にNYにやって来て、その様子を現地のテレビニュースで見た覚えがある。 
 
その懐かしいビートルズであるが、中央区の区民カレッジで、「ビートルズと60年代からのポピュラー音楽」という講座があった。 
 
受講案内葉書 


講座は全3回だが、2回目はプラネタリウムの会場で、参加者が持ち寄ったその時代の古い写真を映したりしながら、ディスクジョッキーがビートルズのヒットナンバーを紹介するという、なんとも豪華な内容だった。 
 
その日の講師は亀渕昭信さんという元オールナイトニッポンのパーソナリティをしていた人で、私も彼の声には記憶がある。 
 
ビートルズの復刻CD(日本経済新聞から) 
 
私は思いも掛けず、若くて輝いていたあの頃に逆戻りした。 
内心では、「あの頃は良かった」と思っているが、それを口に出すと、「だから年寄りは嫌なんだよなー」と言われるので、我慢している。 
 
私はアメリカ映画とアメリカ音楽で育ったのだが、20年ほど前に作詞家の星野哲郎さんとゴルフ場で知り合い、親しくなると同時に演歌の良さに気が付いた。 
 
バスボーイとして働いていた頃の私(NYタイムスより) 
 
それまで演歌をバカにしていた私が、演歌の良さを判るようになるには、それなりの時間と年齢が必要だったのかもしれない。 
 
美空ひばりが歌って大ヒットした曲に、星野哲郎作詞の「みだれ髪」があるが、若い人にこの詩の意味が分かるかなー? 
 
「髪の乱れに手をやれば、赤い蹴出しが風に舞う」 
なんと美しい詩であろうか?  
 
ビートルズの話が、とんだことに演歌となってしまった。 
ごめん! 
 
今では懐かしいオールディーズのCD 
 
(ミニ情報) 
1963年に坂本九が歌った「上を向いて歩こう」がアメリカではSUKIYAKIという曲名でリリースされて、ビルボード誌で3週連続の1位を獲得するという快挙をなしとげた。 
 
(おまけの話) 
私は子供が生まれてオヤジなった時に考えた。 
「この子になにを残せるのか?」 
 
財産を残すのは難しいと思い、ラジオで聞いた話を思い出して、自作の音楽を残すことを思い付いた。 
そして若い女性の先生に自宅に来てもらい、エレクトーンを習い出した。 
 
その時に最初に習った曲がビートルズの「イエスタディ」であった。 
 
伊達のミュージシャンの手風琴も今ではオールディーズ 
 
なんとかその曲が弾けるようになり、次に映画音楽から「フライ・ミー・トゥ・ザムーン」を選び、それも弾けるようになった。 
 
そしていよいよ作曲にかかろうとした矢先に、娘はエレクトーンの真っ白な鍵盤をマジックインクで真黒に塗りたくってしまった。 
 
それですっかりエレクトーンが嫌になってしまい、作曲の夢も終ってしまった。35年も前の話である。 
だから娘への遺産は、今ではなにも無い。 
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▼コメント(1)
名前:shinji  2011.06.22 13:14:55
人は昔の話をするのが好きな人と、全くしない人の二つに分かれるそうですが、私は昔の話をするのが好きな部類に入ります。  特に1960年代のポップカルチャーに関してなら、夜を徹してでも語りたい、というような人間です。 音楽をきっかけにその頃の熱い思いがよみがえってきます。 音楽、美術、演劇、デザイン、建築、反戦、デモ、べ平連、アングラ、サイケ、反体制、情念、小劇場、ハプニング、もう一つの生き方、ヒッピー、フラワーチルドレン、フリーセックス、全てが熱狂的に燃えていた、1960年代を今、なつかしく思いだします。 

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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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