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[2008.12.11]
■ピストルをぶっ放したKさん
入院が近付いて来ているのに毎日のように出掛けていたら、全然風邪が治らない。仕方ないので、ある日のことだ。 
1日中、家から出なかった。 
しかし、2日目になったら、もう飽きて駄目である。 
そこで、用事を思い出したような振りをして、いつでもいいのに銀行と郵便局へ出掛けて行った。 


帰りにラーメンが食べたくなったので、ウォーキングを兼ねて少し先まで歩いた。 
学芸大学の前に来たら、『陳さんのタンメン亭』という赤い看板が目に入った。 
 
陳さんのタンメン亭 
 
ノレンからして美味しそうな感じを出している。 
そこでその日の昼食はラーメンから急きょタンメンに切り替えた。 
 
中に入るとカウンターだけの店で、不機嫌そうなオヤジがソバを作り、派手目な女性が店を仕切っている。 
私は店の売りであるタンメンを注文する。 
暫くして出て来たタンメンはなにか少し違うように感じた。 
 
麺の上に沢山の野菜が乗っているのだが、それは「白菜」と「もやし」である。 
私の記憶では白菜ではなく、昔はキャベツではなかったか?それにタマネギ、ニンジンも入っていたような気がする。 
 
タンメン 
 
それでも、文句を言うようなことでもないので、ラー油を少し掛けて食べた。懐かしい青春時代の味がした。 
今ではタンメンをやっている店は殆ど見掛けなくなった。 
 
こうやって私は青春時代の思い出を探して徘徊している。 
だんだんと認知症の徘徊老人と同じような行動をするようになった私は、認知症の入口に差し掛かったのではないかと心配になって来た。 
ただ救いは、私の場合は必ず家に帰って来る。 
認知症の老人は行った切りである。 
 
(おまけの話) 
私のオヤジがまだ元気だった頃に、韓国人のKさんが我が家に出入りしていた。 
ある時、釘師である彼は暴力団との抗争で、パチンコ屋でピストルをぶっ放して逮捕されて刑務所に入った。 
 
そのKさんが刑務所からオヤジに手紙を寄越し、『家族が生活に困っている。助けて欲しい』と書いて来た。 
そこで面倒見の良いオヤジは出所までの間、なにかとKさんの家族の面倒をみた。 
そして出所後は、Kさんはオヤジの会社の鉄屑を引き取る商売を始めた。 
 
その後、Kさんはトタン張り小屋のラーメン屋に転じて、タンメンを作っていた。 
今でも私は思い出す。 
Kさんの作るタンメンは美味しかったなー。 
オヤジが亡くなった後にも、Kさんはオヤジの命日になると欠かさず我が家にお線香を上げに来ていた。 
 
そんなKさんがオヤジがまだ元気だったある時、言った。 
『実は韓国に家庭がある。私は日本には密航で来た。少し金が出来たので、韓国の息子に工場をやらせたい。そこで、工場のやり方を教えて欲しい』 
そして、Kさんは韓国に留守宅の息子の為に工場を建てた。 
その後は私のオヤジが亡くなってしまったので、よく分からない。そして、Kさんも亡くなった。 
 
そんな混沌とした時代がすぐ目の前の日本にもあったのである。 
そこで、Kさんを偲んで、今日はタンメンの話でした。 
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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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