■台湾紀行(4)・・・・鹿港
台湾生活も4日目となると、だいぶ慣れて来る。
そうなると、いつものように朝早く目が覚めてしまう。
この日は午前4時30分に起きた。
部屋のテレビでNHK国際放送の日本のニュースを確認すると、悲惨な殺人事件のことを放送していた。台湾に来ても日本から離れられない自分に可笑しくなる。
台湾のテレビでは左下に常に天気予報が表示されている。
午前6時30分になるとホテルの朝食が始まるので、その時間に合わせて3階に降りる。しかし毎度のことだが、5分ほど待たされ35分にならないと食堂のドアが開かない。
食事を終り部屋で台湾のテレビを見ていると、古さんの車が見えたので降りて行く。
古さんはこのホテルの食堂と違い、約束時間の10分前にはやって来る。
鹿港の商店街には、このような日本時代の建物が沢山ある。
今回は古さんの車で午前7時30分に頼家の4男の俊蒼さんと長男の子文さんが参加して、4人で出発する。
台中から西に50キロ地点にある、鹿港という町にある旧日本街を見に行く。
鹿港で最初に行ったのが地元の銘菓店「玉珍斎」であった。
この店の主人が俊蒼さんの後輩の友人(かなり遠い)だそうで、市内の観光案内を頼んであるらしい。だから頼さんはこの人には初めて会う関係なのである。
銘菓店「玉珍斎」本店。日本時代の建物の外装をリニューアルしてある。
店の主人の黄さんは気の良さそうなデップリ太った男で、自社のお菓子の説明を熱心にする。
1887年の創業の五代目だそうで、あまりに熱心に説明するので、私は欲しくもないお菓子を3種類も買ってしまった。
するとその後に、4人全員に手提げ袋一杯のお土産をくれた。
先に言ってくれたら、私は買わなかったのに―。
この店の創業時からの伝統菓子「美人の目菓子」
目のようになった形で、強く持つとすぐに壊れる。
130年前に、力仕事をしない良家の女性の為のお菓子として開発されたそうだ。
この町の商店街には日本時代の建物が至る所に残っている。
街を見て廻っていたら、地元民が道路に爆竹を並べ出した。
案内役の黄さんに聞いたら、この地域の氏神様のお祭の日だそうだ。
古い建物の写真を撮るより祭りの方が面白そうなので、行列が来るのを待つ。
中国人の祭りでは、関係者がTシャツで歩くところが伝統を感じられない。
「午前9時過ぎにここを通る」と聞いたのでしばらく待ったが、祭りの行列はやって来ない。仕方ないので商店街の裏にある、記念館になっている丁氏の古い邸宅を見学に行く。
見学が終り2時間遅れで祭りの行列がやって来た。
いい加減なのは台湾時間なのだろうか?
几帳面な日本人なら怒るが、誰も文句を言わない。
私はテレビ以外では、中国の祭りを始めて目の前で見た。
間近で見る爆竹は思った以上に凄い。爆竹の紙屑が撮影している私の体に降り掛かる。
日本の祭りは山車が来るが、ここでは自動車に飾りをしてやって来る。
祭りに品位が無い。車が近付くと、爆竹に火が点けられる。これが凄い。音も凄いが煙も凄い。
3メートルくらい離れた場所から写真を撮っていたら、爆竹が撥ねた時の紙屑が頭に降り掛かる。
目の前が煙だらけになり、何がなんだか分からない。
耳がボーとなった。爆竹の威力を身をもって体験した祭りだった。
昼食に食べたスープが美味しかった。肉まん(80円)、スープ(140円)
(おまけの話)
昼飯は鹿港名物の肉まんを買い、それを持ってまま別のスープの名店に入る。ここではこんなことが許される。どちらも美味しかった。
食後は少し離れた場所に鉄道施設を見に行く。
日本時代に作られた列車の車庫入れの施設である。
現在も現役で使われているが日曜日なので見学が出来たが、大勢の観光客が見に来ていた。
鉄道の車庫入れ施設。(鉄道も施設も戦前に日本が作ったものを現在でも使っている)
これで今日の予定は終りで台中に戻ることになったら、古さんが「チョット寄って行きたい場所があるがいいですか?」と聞く。
もちろん問題ない。
古さんの車が入って行ったのは、巨大な近代的なコンクリートのお寺のような場所だった。
古さんに聞くと、「ここは私の信じている宗教本部です」と言う。
何事も経験だと思い、古さんに連れられて中に入る。
古さんの信心している宗教本部。
この宗教は仏教系の新興宗教のようで、世界中に150万人の信者がいるという。社務所でお茶をご馳走になったが、特に入信を勧められることも無かった。
帰りに台湾名物のパイナップル・ケーキとガラスで出来た蓮の花のストラップを頂いた。宗教というのは信者が供物やお金を出すのが当たり前だが、私は宗教本部からお土産を頂いてしまった。
夜遅くに台中に戻り、屋台の「パパイヤ・ミルク」を飲む。
この店の2代目の息子は日本に留学していたことがあり、私の家にも来たことがある。
(天候・・・晴れ 気温・・・29度)