■大奥の女性達の墓に参る
最近だが「墓が語る江戸の真実」(★★★)という本を読んだ。
この本は古いお墓を調べて、「なぜそこにあるのか?」、「誰が建てたのか?」など将軍家とそこに関わる人達の関係を探るという今までに無い歴史書である。
内容は10話から成っていて、現存するお寺にある墓石から歴史を紐解いている。かなり面白かったので、その中から我が家に近い場所にあるお墓を見に行った話である。
「傳通院(でんつういん)」(文京区小石川)
(以前に来たことがあったが、大奥の女性達が葬られているとは知らなかった)
特に今回は「大奥」に関係がある2つのお寺の墓を見に行った。
かなり前の話だが、「大奥なんとか物語」というようなドラマや映画が流行った時があった。
女性達にはかなり人気があった物語だが、私はあまり興味が無かったので見なかった。そのせいで、今回の墓巡りでは女性を巡る人間関係がいまひとつ分かり難かった。
傳通院の境内図。
先ずは小石川の傳通院に行った。
ここへ行くには大江戸線を春日駅で降りて10分ほど歩く。
今回のお墓の説明は「墓が語る江戸の真実」からの受け売りであることを承知願いたい。
傳通院は1415年に開山し、1602年に徳川家康の生母である「於大の方」の菩提寺となった大奥ゆかりの寺である。
また徳川ゆかりの女性達の墓もあり、家光の正室の「孝子」の墓もある。
大奥の女性達の墓石群。(傳通院)
家光は男色で孝子とは遂に一緒に住むことも無く、また墓も自分は日光にしたのは「死んでも一緒の墓に入りたくなかった」のだろう。
孝子は大奥に入ることも叶わず、従って正室の名称である「御台所」とも呼ばれなかった。
そこに入り込んだのが「お万の方」で、家光が尼僧であったお万を還俗させて側室にした。家光の男色趣味から尼の姿が気に入ったのである。
千姫の墓(傳通院)、(徳川秀忠の娘で、7歳で豊臣秀頼に嫁す悲劇の女性)
この他にも千姫など色々な女性の墓があり、詳しくは吉屋信子の書いた「徳川の婦人たち」にある。
この本をキッカケに「大奥ブーム」が到来したのである。
次に行ったのが小石川・傳通院からもさほど遠くない場所にある湯島の麟祥院である。ここは春日局の菩提寺である。同じく大江戸線の本郷三丁目駅で下車する。
道路の名前が「春日通り」となっていることからも、春日局とのゆかりが分かる。
徳川家康の生母の「於大の方」の墓のみ、少し離れた場所にある。(傳通院)
春日局の父は明智光秀の家老の斎藤利三である。
彼女は徳川三代将軍の家光の乳母で、女傑として権勢を振るったとされている。
しかしながら最近の研究では「家光は正室のお江の子供ではなく、乳母と言われている春日局の子供である」という説が有力になっている。
当時は割合に男女関係が乱れていたようで、よく分からない。
「麟祥院(りんしょういん)」(文京区湯島)
これは春日局の遺言が「死して後も天下の政道を見守り、之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」というものであったことから、このような奇妙な墓石となったそうだ。
死んでもあの世から春日局はこの穴を通して、今でもずーとこの世を覗いているのである。
歴史上の人物のお墓を見て廻り感じたことは「凡人の私の墓は、築地本願寺のロッカー式の墓でも立派過ぎる」だったのである。
春日局の墓所案内図(麟祥院)
(おまけの話)
「死んだらどうなる?」というのは誰にも分からない。
臨死体験をした人が、「あの世はお花畑があり美しい。
川の向こうへ行こうと思ったら、親族に呼び戻されたので生き返った。」なんて話があるが、この話は実際にあの世を見て来たとは言えない。
また幽体離脱なんていうのもあり、「死んだ自分に取りすがって泣いている母を、天井の隅から見ていた」なんて本当の体験かなー?、面白そうなので、私も出来たらやってみたい。
春日局の墓(麟祥院)
多くの宗教は現世よりは死後の世界での幸せを語る。
私は「死は無」と考えているので、あの世での幸せより現世の幸せの方が欲しい。こういう人は宗教に向いていないのかもしれない。
そういう私でも築地本願寺の本堂の真下にロッカー式のお墓があり、死んだらいつも床下でお経を聞いていられる状態になる。
墓石と台座に穴が開いている、珍しい墓である(麟祥院)
よく「愛する妻のお骨を食べる」という美談のような話も聞く。
でもこれも良く考えたら、骨は消化しないので、翌日はウンコとなってトイレから下水に流れてしまう。
やはり愛する人のお骨は骨壺に入れた方が良いと思う。
日本は国土が狭いのだから、ロッカー式にするか、海に散骨するか、樹木葬で土に還すのが良いと思う。
テレビでチベットの鳥葬を見たが、あれは怖いから私は嫌だ。
無縁仏や石像が集められていた一画があった(麟祥院)
傳通院でも、麟祥院でも誰にも会わなかった。今や寂しい限りである。