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[2019.08.21]
■人生いろいろ(5)
 
大学生時代の友人にMさんがいた。彼は東京生まれ東京育ちで私と同じだが、多摩育ちの私とは違いかなり都会的だった。 
 
彼は都内に住んでいて、彼の家に遊びに行ったら隣の家は大平総理大臣の家だった。古い洋館建ての家で、彼のオヤジはプラスチック関係の会社を経営していた。 
 



私はそのオヤジに可愛がられ、柴又にある先祖の墓参りにも一緒に行った。その頃はまだ渥美清主演の「男はつらいよ」は作られていない時代で、柴又の帝釈天もただの東京の外れのお寺だった。 
墓参りが終って「川甚」という料亭で、生れて初めて「鯉のあらい」を食べた。 
 
 
Mさんはアバウト男で色々と気に入らないことが多かったが、東京のことを知りたくて我慢して付き合った。都心の人から見れば、小金井の男なんて田舎者なのである。 
 
私が生まれて初めてコカ・コーラを飲んだのも、Mさんと一緒だった。 
神田にあった「窓」という喫茶店に連れて行かれて、そこでコーラを飲んだのである。 
 
 
初めて飲んだコカ・コーラは薬臭い味がして、とても不味かった覚えがある。こんなものをなぜアメリカ人は飲むんだろうと、その時は思った。 
 
他には六本木に連れて行かれて、ニコラス・ピザハウスでピザも初めて食べた。東京タワー近くの「ヴォルガ」で、初めてロシアのスープであるボルシチも飲んだ。 
 
 
お互いの結婚後も付き合いが続いたが、Mさんに子供が生まれ、その子が3歳の時に母親が目を離した隙に2階のベランダから落ちて死んでしまった。 
 
それ以来、私は何も関係無く悪くもないのに、なんとなくギクシャクした関係になった。Mさんの奥さんも自責の念にかられてか、遊び人のMさんに辛く当たるようになった。 
 
 
それでも私達は完全に付き合いを止めたわけではないので、細々と関係は続いた。彼の息子が結婚することになり、私達夫婦は結婚式に呼ばれて出席した。 
 
次に私の子供が結婚することになり、Mさん夫婦に招待状を送ったら出席の通知が来た。 
ところが結婚式の当日に、Mさん夫婦は披露宴会場に現れなかった。 
 
 
しばらくしてから私はMさんに、「なぜ来なかったの?」と聞いてみた。そうしたら彼は大事な時に「いい加減さ」が出てしまい、「忘れていた」と言ったのである。 
 
そしてすぐに高額な高島屋の商品券を持って、夫婦で私の家に謝りに来た。でも、それがキッカケで、なんとなく付き合いは終ってしまったのである。「人生いろいろ」である。 
 
 
(おまけの話) 
在日韓国人の友人にKさんがいた。正確には日本に帰化した「元」韓国人である。彼とは仕事上の知り合いだったが、個人的にも同じゴルフクラブに所属して一緒に遊んだ。 
 
最初の頃は、私は彼が在日だとは知らなかった。 
ある日のことである。 
仕事の関係で、彼が社長をしている会社を訪問した。 
 
 
その時に彼のオヤジで創業者でもある、その会社の会長を紹介された。 
会長と話して、すぐに分かった。 
日本語が変で、しかも韓国人特有の濁音が話せない。 
 
でも大変に人柄が良い人で、それからも会社に行く度に会長と話をしたが、韓国に関する話は一度もしたことが無かった。 
 
 
Kさんも「自分は在日」であると私が分かっているはずと思うが、お互いにそのことには最後まで触れなかった。 
 
私が仕事を辞めたことを境に付き合いが終ったが、彼は色々な場面で必要以上に「日本人である」ことを演技していたように感じた。 
現在の日本と韓国の関係を考えると、私はKさんと韓国の反日の話をしたかった。 
 

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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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