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[2010.08.15]
■二枚の写真
日本では8月15日は終戦記念日である。 
ところが国際的には9月2日だと知った。 
それは日本がポツダム宣言の履行を定めた降伏文書に署名した日のことである。 
 
私は第2次世界大戦が終る3年と少し前に生まれた。 
その時はまだ3歳だったので、戦争のことは覚えていない。 
僅かな記憶としては、東京大空襲の時に家の庭に掘った防空壕に入れられたことくらいである。 
 
絵本「二枚の写真」 


少し前に友人のOさんから絵本が送られて来た。 
その題名は「二枚の写真」である。 
 
これは文と絵をオーストラリア人が書いた反戦の絵本で、内容は子供にも読めるように易しく書いてある。 
 
第2次世界大戦の時に、戦場となったパプアニューギニアでオーストラリア兵と日本兵がお互いに傷付いて、狭い空間で死の間際にお互いの家族の写真を見せ合うという涙を誘う話である。 
 
二枚の写真から 
 
この本の出版に際して、友人のO君は日本語版出版実行委員長をしている。本の冒頭で彼は、「日本がオーストラリアと戦争をしたことすら知らない若者もたくさんいます」と書いている。 
 
その時の長文のメールで、私は初めて彼のお父さんがニューギニアで戦死したことを知った。 
お父さんは戦地に向う時に、妻宛ての遺書を書き、それを寄港地から投かんしたという。 
そして、最後まで肌身離さず持っていた妻と子の写真を戦友に託して、ニューギニアで亡くなったのである。 
 
戦地で亡くなった兵士達の遺書の数々が、角川文庫から出版されている。その中にO君のお父さんの遺書もある。 
それを読んだ時は、涙が止まらなかった。 
 
彼が今でも遺骨収集運動に熱心に取り組み、今回の本の出版にも一生懸命になる理由が初めて分かったのである。 
 
O君のお父さんの遺書 
 
(おまけの話) 
私は戦争の記憶は殆ど無いが、成人に達してからなら色々ある。 
 
最初は1964年にニューヨークに行った時である。 
向こうで知り合ったアメリカ人の家庭に招かれた。 
その時である。 
彼は奥から汚い日本の国旗を持って出て来た。 
 
そして彼は言った。 
『これは硫黄島で拾った。遺族へ返したい』、と。 
その国旗はシミで汚れていたが、大勢の人の寄せ書きがあった。 
 
家族や友人達なのだろうか? 
それをありがたく受け取って、後で上司に渡した。 
 
二枚の写真から 
 
次は仕事で、1955年頃にソウルに行った時だった。 
仕事が終り取引先の社長と話していたら、戦争の話題になった。 
 
社長は、『日本には水に流すという言い方があるが、韓国には無い。我々は水には流さないが、日本を許す』と言われた。この言葉は私には重かった。 
 
妻よ、子供たちよ、最後の祈り (辺見じゅん編) 
 
その後も色々とあったが、一番記憶に残っているのは、『腹いっぱいご飯を食べたい!』ということである。 
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▼コメント(2)
名前:Chieko  2010.08.17 00:24:44
大瀧氏のお父上様の遺書を拝見、胸が張り裂けそうな衝撃を受けると共に、終戦の日を断片的ながら自分の記憶を辿ってみた。  
終戦の年の3月まで広島市の幼稚園に通っていた。小学2年だった姉が学童疎開する事になり、離ればなれになるのは忍びないと、母の実家である札幌へ疎開し原爆を免れた。運命的なものを感じる。父は外国航路の船長で留守がち、母は当時30代で姉、私、弟、妹(生後2ヶ月)を連れて3日かけて北海道へ渡った。当時の母の苦労はよく覚えている。  
そして幼稚園時代に習った歌はいまだにはっきりと記憶している。2曲紹介しよう。  
♪肩を並べて兄さんと~~今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのお陰です~~お国のために戦った兵隊さんよありがとう♪  
♪おうちのお庭の待避壕~~うち中揃って日曜日~~せっせと掘った待避壕~もんぺさん、もんぺさん仲良く入ろ~~防空頭巾で、いちにっと入ろ♪  
 
終戦65周年に因んで口ずさんでみた。 
名前:shinji  2010.08.15 09:05:53
戦争を世界地図で眺めて、ここで何万人死んだ、あそこで何万人死んだ、明日はここを爆撃しよう、この作戦を適用しよう、というレベルでは痛みはわからない。 映画”硫黄島からの手紙”でもそうだったけど、敵も味方もそれぞれに人生があり、家族があり、愛する人がいる。 そのレベルに降りてきて初めて、痛みが痛切になる。 戦争に敵も味方もない。 勝つも負けるもない。 戦争をする国は全て、始めから負けである。  
 
これまでの十分すぎる程の戦争から学び、早く世界の国々が、地球人としての意識を持って、このかけがえのないプラネットを守っていく協力体勢に入っていけますように。祈り。 

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プロフィール
心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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