■田中舘秀三と三松正夫
田中舘秀三博士と三松正夫さんの交流を記したいと思う。
といっても、三松正夫さんが書かれた「田中舘秀三博士への追悼文」からの引用である。
これを読むと、明治噴火の直後に、向洞爺を訪れた田中舘博士の有珠山についての講演を聴いた三松さんは、心の中で“わたしは勝手に田中舘先生と師弟の契りを結び、火山を科学することを学ぼう”と決意されたようである。それからの永い間の田中舘先生との思い出が具体的に語られている。特に昭和新山生成期の“胆振線国有化への助言”、“警察署との丁々発止のやりとり”などに、田中舘先生の“硬骨漢”振りがよく表れている。
田中舘秀三(たなかだて ひでぞう)(1884~1951)の略歴
1884年(明治17年)岩手の旧家下斗米(しもとまい)家に生まれる。東京帝大卒。後に田中舘愛橘(たなかだて あいきつ:東京帝大 物理学教授)の養子になり田中舘姓をつぐ。明治43年からドイツ、イタリアへ留学。北海道帝大、東北帝大、ナポリ大で火山学、湖沼学、経済地理学を講じる。ヴェスビオ火山の研究で有名。1951年永眠。
三松正夫(1888~1977)はご存知のように、22歳の時に有珠山の明治噴火を体験したことから火山を科学することを目指した。33年後に昭和新山の生成に間近で立ち会うことになる。スケッチや日記で昭和新山生成の記録を克明に残す。新山生成後、その土地を買い取り、昭和新山の保全に尽くす。自身3度目の有珠山噴火を見届けて、1977年に永眠。
「田中舘秀三――業績と追憶」は、1975年(昭和50)に刊行された。
田中舘の業績と故人と縁のあった方々の追悼文で構成されている。三松正夫の他にも甥である北大 石川俊夫教授や、東北大でお世話になった八木健三教授、秀三の娘さんなど多くの方の追悼文が寄せられている。
娘さんから見た秀三は、必ずしも「よき父、家庭人」ではなかったようで、辛口の感想が書かれてもいる。
以下、三松正夫が晩年(1975年)に書いた追悼文を紹介する。文中明らかに誤記と思われる個所、文脈から誤記と思われる言葉については修正させていただいた。
*人間の一生の中には、――その時には本人も気付いておらぬ事が多いのですが――、後になって見ると、その事がポイントとなって、その人間の一生を左右し、決定付ける程の、重大な人と人との出会い、そして人と事件との遭遇という事があるものです。
私の場合には、田中舘秀三先生との偶然の出会い、そして有珠火山の明治、昭和活動の体験がまさしくその分岐点でした。
明治43年、当時私は22歳、壮瞥村の小さな郵便局の局長代理をしていた時でした。それまで、私にとっては明鏡洞爺湖に影をおとす美しい山、兎、狐、リス、山鳥(エゾ雷鳥)が沢山いる良い猟場、山菜、茸を好きなだけとれる畑のような山、そして山上にお伽話の中に登場する古城のような奇怪な形の溶岩塊をのせて、子供の頃から何となく空想の世界へ導いてくれる夢のお山と思っていた有珠山が、突然活動をはじめたのでした。勿論この火山が、昔から度々活動して来た火山である事は知っていたのですが、大人も子供も、一度もこの山の怒りの姿に接していないのですから、火山の足下に生活していた事をケロッと忘れていたのでした。
激して地震の連続、人々の目には分からないが刻々休みなく進行している大地の隆起、そして一爆発一火口形成と蜿蜓(えんえん:うねうねとどこまでも続くさま)1.5kmにわたって、爆発が点々と移動し、各火口からもくもくと噴く白煙・黒煙。降灰。泥流の溢出。海抜220mの新山の誕生。それまでが余りにも静かに、のどかな日々であっただけに、地元民の度胆を抜く大事件で、この事があって、にはかに火山に対する認識、興味、そして不安(多くの人々は、これのみ取り付かれたのですが)が沸きおこりました。
その日が何年何月であったか、ともかく明治活動の後で、そうした地元民の動揺がまだ残っている頃でした。
洞爺村の三樹亭三橋という旅館に、現地調査に来られた田中舘先生(当時北海道大学助教授)がお泊りになったのでした。地元では、これを機会にとお話を願い出たところ、心よく引き受けられ、宿の広間で有珠火山についての講演会が催される事になりました。勿論、私も出席したのですが、その噛んで含めるようなわかり易いお話振りと同時に、私の認識していた有珠山と学者の眼で見た学問的な有珠山との違いにガーンと頭を叩かれたようなショックを受け、同時に訳もわからず、唯混乱していた私達に反し、活動の諸現象を、平易に、関連付けて説明出来る『学』に深い感銘を受けたのでした。散会後も、活動中に大森房吉先生の漏らされた「将来、再びこのような寄生火山が誕生する可能性もある」というお言葉を中心に、先生といろいろと詰め合ったのでした。先生は私の素人的愚問にも、平易にそしてどんどん話題をひろげて時間の経つのも忘れて説明して下さるのでした。なかなかとけない私の疑問に対しては「この次に来る時に参考書を届けて上げるよ」とお約束して下さるほどでした。私はその人柄にうたれて、俗にいうファン心理に近いかもしれませんが、その場で誠に自分勝手な話ですが、心の中で師弟の契りを結んだのでした。
この日を契機として昭和新山の誕生の日までの35年、先生は調査に来られる度に声をかけて下さり、参考書を届けて下さったり、同行の学生に対する現地講義に「わかっても解らなくても聞いておきなさい」と加えて下さり、私も努めてガイド役を買って、次第次第に火山学の知識を深めていったのでした。
先生は有珠に来られる度に、山麓一帯をまず歩かれ、そして必ず大有珠山頂まで登られるのでしたが、その時決まってひとつの岩に腰を掛けてスケッチをされるのでした。時には登山が遅れて、日没直前にスケッチの始まる事もありました。私は自分でガイド役と心得ていましたから、先生を無事下山させねばとその事が気になり、早くおわらないかなあとジリジリするのですが、先生は悠々と丹念にスケッチされるのでした。その事は登山の度に“必ず”であり、そのスケッチの被写体は、かつては絵かきになろうと志しながら、心ならずも郵便局長をやっている私の眼から見て、どうも“絵”になるとも思えず、しかも被写体が毎度全く同じもの。或る日、余りの不審さにたえかねて愚問を発したのでした。
『先生!先生の絵はなかなか完成しませんネ』
『ああ三松君、これは永久に完成しないよ!私は大有珠山頂の変化を記録にとどめているので、今目前にある姿に特別の珍しいものがある訳ではないが、こうして過去の記録と比較すると、ほれっ!こんなに』とフィールドノートのページをくって教えて下さったのでした。そして自然科学の分野では、あれこれと広く調査して、次第に重点を絞ってゆく方法と同時に「ひとつの物を一定の視点で永く追う」事の必要性、さらに記録に残す事の意義を説いて下さったのでした。私はこの日、「吸収するばかりで、支離滅裂のまま、頭の中に点々と散らばっていたものが、スッと寄り集まって、何というか、科学する方法に対して、悟りのような眼(原文は眠)のひらける」思いがしたのでした。
この日の教え、そして後に、事故で海底深く沈み浮上出来なくなった*潜水艇の艇長(佐久間勉大尉)が「どうせ程なく死ぬのだから」となげやりになる事なく、事故原因を分析し、艦内の状況、変化を詳細に記録して、実に貴重な得がたい資料を残したという戦時海軍美談が、昭和新山誕生に際して、私を律し続けたのでした。この機会!自分の家の前に火山が出来て行くという千載一遇のチャンス、私は諸現象を記録する事に没頭したのでした。それらは、その時点ではどのような意義を持つか全くわからないまま、ただ記録するという事だったのですが、日時の経過と共に、あの有珠山頂での教えの通り、過去と現在の記録との間に血がかよいはじめるのが分かって嬉しくなり、ますます私を観測に追いたてたのでした。
『一定の場所から一定の物を』と局舎の裏を定点として約1年半、刻々隆起する状況をスケッチし続けたのでした。このスケッチをまとめた昭和新山生長図は昭和23年に田中舘先生のご努力で、オスローで開催された万国火山会議に、帰国する駐日ノールウエー大使に託されて提出していただき『ミマツダイヤグラム』と名付けられ、世に出していただく事となったのでした。
今ある私は、はじめから終わりまで、ひとえに田中舘先生のお陰と、先生の恩愛、深く感謝するばかりです。
さて、出会いから昭和活動を中心とした、寝食を共にする先生との交流から肌に感じた田中舘先生の人間像は、「博学であって学者らしからぬ学者」、「やさしい誰れとでもすぐに親しくなれる気さくな人」、それでいて「筋の通った、邪悪、不正義を絶対に許さぬ硬骨漢」であったと思はれます。先生の人柄を示すいくつかのエピソードをご紹介しましょう。
昭和18年12月28日の夕方からはじまった地震の連続、そして大地の変異、昭和活動の幕明けでした。まだ明治活動の時の事を記憶している人々も多く、今度は壮瞥に火山が出来る、噴火も近いと不安の日々で混乱に明け暮れしたのでした。私は各方面に打電、来査を乞うと要請したのですが、折悪しくその頃の日本は延び切った最前線を維持出来ず、敗戦傾向を強め、緊迫の極にあったため、関係者はそれぞれ忙しく、なかなか現場に来ていただけません。
田中舘先生も、海外植民地の地下資源調査に動員されてご不在だったのですが、帰国してこの報を見るや、その足で壮瞥に飛んで来て下さったのでした。そしてこれまでの経過の要点を聞くや、早速変動地区を丹念に、精力的に調査されるのでした。無数に走る亀裂の走行方位、長さ、そしてその伸展状況を、来る日も来る日も測定されるのでした。一寸した一服の時をとらえて、現在している測定の意義を説明して下さり、併せて調査の過程で判明して来た状況、今後の推移を話して下さるので、助手役の私も、推理小説の謎ときをしているようで、楽しくお手伝い出来るのでした。寝食を忘れての調査、壮瞥から現場までの約一里、往復の時間が惜しいと現場の農家に泊りこみたい、現場の頻発地震に肌で接していたいとのご希望で、『大学教授と思わず、気さくな方だから、家族同様の寝食で良いから頼むよ』と泊めていただいたのでした。
農家の人々や私のように、学問以外の世界で野に育った者には『大学教授』という肩書きだけで敷居が高く、接しがたく思われるのですが、先生のお人柄はこの点、全くの救いだったのです。数日のお世話をした前山政次郎さんも『ストーブかこんでの火山談義、本当に楽しく、先生と同じ屋根の下にいるだけで火山の不安を忘れて心強かった』と語る程でした。
その頃、土地の隆起、亀裂で一番ひどくやられていたのは、今をときめく横綱“北の湖”の実家、小畑さん宅でした。『今迄遠くで、雷のように感じた地震が、ここ数日寝ると枕の下から突き上げるようで、心配でしようがない。この先どうなるのか、お前さんと一緒の大先生に様子聞いてくれんか』との事。早速先生に伝えた所、それなら今夜泊まってみてあげようとのご返事。びっくりしたのは小畑さん。大学の先生を客にむかえるなど思いもよらぬ事。平時ならともかく、傾いた家では寝てもらう所もなく、せめて鶏でも締めてご馳走しようかと思案顔だったのですが、田中舘先生は当主の困惑気にもとめず、早々に雑談にまじえて鋭い質問にかかられたのでした。その内にプーンと大豆の煮える匂い。これは馬に食べさせるために大釜でクズ大豆をグツグツと煮ているので、美味しそうな匂いはするのですが、中味は半分近くは幹や葉それに豆がらの混じったものなのです。先生はこの釜に気付かれ、申し訳なさそうに「小畑さん、あれを一寸ご馳走してくれませんか?」いくらなんでも馬の餌を食べさせては罰があたりますと固辞するのに「これが好物なのです」と淡々としたものでした。それならどうぞお好きなだけという事で、先生はペロリと三杯もおかわりして食べられ『ウマもうまい物を食っているものですな』と大笑い。おかげで満腹しましたとストーブの傍らに寝てしまわれたのでした。私は局の用事があって自宅に帰ったのですが、大豆を一椀食べただけなのに大下痢。一夜苦しみぬき、先生の身を案じて小畑さん宅に駆け付けて見ると、先生は早くも元気に調査の身支度中でした。
室蘭本線の伊達紋別と函館本線の倶知安を結ぶ胆振縦貫鉄道というローカル私鉄がありました。丁度この沿線が昭和新山誕生の舞台となったために、頻々とレールに狂いを生じ、この保線に夜昼をわかたず悪戦苦闘を強いられておりました。というのは、この沿線奥地には鉄鉱石を産し、この原石を室蘭の製鉄所へ運ぶのが本来この鉄道の使命だったのですが、戦争の激化と共に、資源不足に悩む軍部から「一本の列車をとめる事もならず」と厳
命が出されていたからです。大地の変動及び資源確保の大命に対処するに、ローカル私鉄では余りにも微力で、国有化方針がこの活動の開始以前に内定しておりましたが、その具体化直前にはじまった大変地異に、国鉄にも二の足を踏む所があったのでしょう。
例の如く田中舘先生と亀裂の調査をしている所へ仲良しの壮瞥駅長が息せき切って駆けつけ私を呼びました。「今最終調査のために本省の係官が来ており、その報告如何によって買収かどうか決まるらしい。ひとつ高名の先生から『この活動もこれまで。危険はない』と一言いってもらえるよう、取り計らってくれないか」との事。これには弱りました。素人の私でさえ断言出来かねるのに、専門家であればあるほど、その発言に責任があって、軽率に断言出来るわけもなく、先生に迷惑のかかるのを恐れて、言下にことわったのですが、駅長も可否の分岐点、真剣そのもので、ともかく聞くだけでも!としつっこいので「それならまあ伝えて見るが期待するなよ」と先生に事情をお話した所、先生は「ああいいよ」と私がびっくりするくらい、いとも簡単に引き受けられたのでした。
一同を前にしての先生は「このまま終息するか、激化するかは五分と五分。幸いこの活動による異変も減少傾向にあるから、このまま鎮静する可能性もあります」と噴火、新山誕生の可能性は極力ふせて、その反面のみを強調して話されるのでした。調査を通じて、最悪の事態を私にはもらされていたので、こんなに楽観的な発言で良いのかなと思うほどでした。駅長は喜色満面。先生の云い様に従ったどうかは不明ですが、それから間もなく買収が決定したのですが、この件について私の不審を質した所、先生のおっしゃるには「三松君、どのような専門家がいくらつきつめて調査しても、今この段階で断言できるのは、五分と五分という事のみ。まして一方が困りはて、そして私が絶対駄目だ、危険だからやめろといっても、国鉄当事者はともかく、政府、軍部が買収の方針を決めている以上、まあ窮者を助ける発言をしても良いのではないかな」との事でした。急用で先生が仙台向け出発された直後の6月23日に、突然の爆発がはじまったのです。この急報に接して、折り返して壮瞥に来られた先生は「ワッハハ!予想はずれて見事に爆発。国鉄さんには悪かったかな」と一笑に付されるのでした。この一件、ある人は学者にあるまじき軽率な態度と疑義をもたれるかもしれませんが、私は先生の『学者らしからぬ』発言に拍手を送りたいのです。高名であればあるほど、こういった二者択一を迫られる場合、そのはずれる事をおそれる余り、多言となり、結果的には論旨を得ずという事になりがちなのですが、この場合の先生は、その予想のはずれる事は恥でなく、問題は溶鉱炉と原石を連結するためには、最悪の事態が来た場合に私鉄、国鉄いずれがベターかをのみ判断されたので、その大所高所からの縦横自在の判断こそが先生の面目躍如たる所と思えてならないのです。
先生の暖かい気持ち、気さくな人柄は、対地元民との接触を通じてそこここにあらわれました。疲れもいとわず、不安におびえる地元民の集会には、進んでご出席下さり、その発言には、常に少しでも不安をとりのぞこうという配慮をされるのでした。学者的発言としては、爆発するかどうかの不安に対しては「その可能性あり!」で済むのですが、先生はそれに付け加えて「例え爆発しても、過去の有珠山の爆発はこういった性格のものだから、現場から2kmも離れている皆さんが、爆発、即、死といった、そんな心配はしないで、いつでも退避出来る心の準備だけはしておいて下さい」と多くの事例を挙げてくださるのでした。
先生がこのように地元民の中にとけこんで、その心を承知しておられたためか、或る日先生と警察署長との間で大口論となる事件がおこりました。
災害対策会議の席上でした。はじめはにこやかな質疑応答だったのですが、先生が異変後駆けつけた伊達及び室蘭署の警戒体制と方針に言及され「非常時下、他に急務もある事でしょうから、署に戻られては」と発言されたのが導火線となり、署長は学者が警察権に口出ししたと、烈火の如く怒り、サーベルを抜きかねない有様、先生もこのような住民無視の警戒は不要と主張をまげずにがんばられるので、極めて険悪となり、私もハラハラした事でした。
当初、警察隊の来村は、住民にとっては救援隊として写り、村民こぞって大歓迎。猫の手も借りたい日常生活の忙しさの中から婦人会を動員して、村役場に残された僅か18俵の備蓄米に手を付け、三度の食事、宿舎の提供等、接待に務めたのでした。が次第にその警戒というのが、住民の生命財産の全くを図るというのではなく、住民の挙動を取り締まるという感じが強くなりはじめ、爆発が続くというのに、先生の進言もきかず、退避を命ぜずに、「生業にいそしめ」というのです。火口直下の災害地の困窮者に手を貸すでもなく、村の大半の耕地が火山灰の被害をうけて、収穫の見通しも皆無で、この先何を食べて暮らそうかと困り果てているのに、三度の米の飯と火山見物が目的かと思われる警官隊に、民心がすっかり離反していたのです。
当時の絶対的な権限をもつ警察に、堂々と意見を述べられる先生の勇気に敬服し、そして私達の不満の代弁者として、心からの拍手を送り、あの温厚な先生のこの一面、これこそが先生の学者としての探究欲、情熱の推進力なのだと思った事でした。
私として残念だったのは、先生の身辺余りにも忙しく、いつも永くご滞在願えなかった事でした。寸時を見付けて駆けつけ、精力的に調査をされ、そして離村に際しては、あれこれと要注意事項、継続調査を素人の私に託していかれるのでした。その事は、たとえ不完全でも、藁にすがってでも、その場その時に出来る最大の努力をそそいで、何とかひとつでも探究しようという、学者としての強烈な意欲、姿として私には写ったのでした。
「私はよし先生の眼、耳、手足となろう」と、活動の全期間、文字通り心血を注いで調査し、記録をとり、先生に報告しつづけたのでした。
昭和20年末、火山活動が終わり、平和の世になって、先生のお身体にも暇が出来、頻々とおいでになって下さり、お互いの健康を喜び合いながら、共に時間の経つのを忘れて火山談義に花を咲かせ、共に研究資料の大成に努めたのでした。私は全く先生の代理、先生のお手で論文をまとめていただきたいと願ったのですが、「君の努力は君の功績」とそのまとめ方をご指導下さるばかりで、私の研究結果を私のものとして世に出そうとして下さるのでした。
音信がとだえたと案じていた頃、先生はすでに病床にあられ、先生の愛弟子三田君がひょっこりおとずれ、見せてくれたのが「やがてこれ、まくろき土となりはてん、(以下判読不能)」という絶句だったのでした。昭和新山時代の先生の思い出を語るべき三田君さえも、**明神礁の調査中に遭難して鬼界に入ってしまう始末。最後に拙宅をおたずね下さった先生が、縁側の陽だまりで、私の孫娘相手に折り紙を折っておられた姿がむしょうになつかしく、私を友人三松としてつき合って下さった先生の思い出が、際限なくわきおこって来るのです。
お陰様で私も今年米寿を迎える事となりました。先生と共に打ち込んだ新山の山麓に房をかまえ、終日その白煙を眺め「生命ある限り、先生の遺志をつぐぞ」と、新山の行来、見守っている今日この頃であります。*
*潜水艇の艇長(佐久間勉大尉)
1910年4月15日、第6潜水艇は山口県新湊沖で訓練中沈没して佐久間大尉以下14名の乗組員全員が殉職した。殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、他の者も修繕に全力を尽くした。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を命ある限り書き残した。
**明神礁の調査中に遭難
1952年(昭和27年)9月24日伊豆諸島の南にある明神礁で噴火が起こり、観測中の海上保安庁の第五海洋丸が突然消息を断った。31名の方が遭難、殉職したものとされる。
三田亮一さんは、東北大卒業後、海上保安庁に勤務していてこの事故に遭遇した。
三田さんは、昭和21年、東北大の学生であった時に昭和新山を訪れ、様々な場所からスケッチを描かれた。写真集「麦圃生山」の巻末に、三田さんの描かれたスケッチが掲載されている。
三松正夫と田中舘秀三との交流の記を読んでいると、田中舘の人柄がにじんでくる。
“胆振線国有化への助言”、“警察署との丁々発止のやりとり”などでは、大所高所から判断、困った人々への思いやりなどを感じる。戦争中、シンガポールを日本軍が占領した時、占領下の英国の博物館の館長につき、ここを守ったことがあった。当時“マレーの虎”と恐れられた占領軍司令官 山下将軍と掛け合い、「わたしは天皇陛下の命を受けて、この博物館を守るように云われた」と大見栄を切ったという逸話も、本当だったのかもしれないと思ってしまう。
(2016-7-20記)