今年の夏は、先の太平洋戦争の終戦から75年の節目に当たる。
作家の司馬遼太郎氏は戦争中には従軍して終戦の直後に23歳になった。氏の青春は日本が戦争にのめりこんでいった時代であった。氏は終戦のときにこう思った。
[2020.08.14]
[2018.09.15]
夏休みTV番組の中で「百人一首」のことが分かり易く紹介されていた。面白かったので、以下に簡単に書き留めてみた。わたしは「百人一首」かるたはしたことがないが、子供の頃にカードを使ったゲーム*「坊主めくり」を楽しんだ記憶はある。
[2018.02.03]
[2017.12.23]
この秋、会津の方を旅した。
会津若松市は、車で通過しただけだったが、その南の方の大内宿(おおうちじゅく:下郷町の大内宿観光協会の表記に従う。別に“おおちじゅく”と読ます資料もあり)を訪れた。
かやぶき屋根の民家が多く残るところで、江戸時代の宿場町とはこのような風景だったのかと思い描かせる。現代では、おみやげを売る店やそばを食べさせる店が並ぶ観光地になっている。少し傾斜地の両側にこれらの店が数十軒並び、道路端の両側にはきれいな水路がある。昔はこの水路で野菜を洗ったりしていたのだろうか。
会津若松市は、車で通過しただけだったが、その南の方の大内宿(おおうちじゅく:下郷町の大内宿観光協会の表記に従う。別に“おおちじゅく”と読ます資料もあり)を訪れた。
かやぶき屋根の民家が多く残るところで、江戸時代の宿場町とはこのような風景だったのかと思い描かせる。現代では、おみやげを売る店やそばを食べさせる店が並ぶ観光地になっている。少し傾斜地の両側にこれらの店が数十軒並び、道路端の両側にはきれいな水路がある。昔はこの水路で野菜を洗ったりしていたのだろうか。
[2017.12.02]
「銀の滴(しずく)降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに」で始まる知里幸恵(ちりゆきえ)編訳の「アイヌ神謡集(しんようしゅう)」は、あまりにも有名である。
岩波文庫創刊90年の記念アンケートで、「わたしの好きな岩波文庫90」にも選ばれた。
岩波文庫のこの本の紹介を借りると、
*詩才を惜しまれながらわずか19歳で世を去った知里幸恵。このアイヌの一少女が、アイヌ民族のあいだで口伝えに謡い継がれたユーカラの中から神謡13篇を選び、ローマ字で音を起こし、それに平易で洗練された日本語訳を付して編んだのが本書である。*
岩波文庫創刊90年の記念アンケートで、「わたしの好きな岩波文庫90」にも選ばれた。
岩波文庫のこの本の紹介を借りると、
*詩才を惜しまれながらわずか19歳で世を去った知里幸恵。このアイヌの一少女が、アイヌ民族のあいだで口伝えに謡い継がれたユーカラの中から神謡13篇を選び、ローマ字で音を起こし、それに平易で洗練された日本語訳を付して編んだのが本書である。*
[2017.06.05]
今年は3月に三陸ジオパークを訪れる旅を体験し、また他にも東北地方を訪れる予定があり、陸奥(むつ又は、みちのく)に関する本を読んだりしている。
学生時代に北海道から東京に帰省するとき、青森から東北線の列車に乗った。4人掛けのボックス席に座った時、いっしょになったおじさんからウイスキーを勧められ、飲みながら話したことがあった。正直なところ、話していることの半分以上が分からなかった。言葉が分からなかったのである。今思えば津軽弁だったのかもしれない。
学生時代に北海道から東京に帰省するとき、青森から東北線の列車に乗った。4人掛けのボックス席に座った時、いっしょになったおじさんからウイスキーを勧められ、飲みながら話したことがあった。正直なところ、話していることの半分以上が分からなかった。言葉が分からなかったのである。今思えば津軽弁だったのかもしれない。
[2016.10.30]
田中舘秀三博士と三松正夫さんの交流を記したいと思う。
といっても、三松正夫さんが書かれた「田中舘秀三博士への追悼文」からの引用である。
これを読むと、明治噴火の直後に、向洞爺を訪れた田中舘博士の有珠山についての講演を聴いた三松さんは、心の中で“わたしは勝手に田中舘先生と師弟の契りを結び、火山を科学することを学ぼう”と決意されたようである。それからの永い間の田中舘先生との思い出が具体的に語られている。特に昭和新山生成期の“胆振線国有化への助言”、“警察署との丁々発止のやりとり”などに、田中舘先生の“硬骨漢”振りがよく表れている。
といっても、三松正夫さんが書かれた「田中舘秀三博士への追悼文」からの引用である。
これを読むと、明治噴火の直後に、向洞爺を訪れた田中舘博士の有珠山についての講演を聴いた三松さんは、心の中で“わたしは勝手に田中舘先生と師弟の契りを結び、火山を科学することを学ぼう”と決意されたようである。それからの永い間の田中舘先生との思い出が具体的に語られている。特に昭和新山生成期の“胆振線国有化への助言”、“警察署との丁々発止のやりとり”などに、田中舘先生の“硬骨漢”振りがよく表れている。
[2016.04.22]
司馬遼太郎著「街道をゆく40――台湾紀行」を読んでいたら、清々しい日本人に出会った。
台湾の不毛の大地を美田にしようと実行した人の話である。八田與一(はった よいち)という土木工学者である。
台湾の不毛の大地を美田にしようと実行した人の話である。八田與一(はった よいち)という土木工学者である。
[2015.12.15]
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で象潟(きさかた)を訪れたのは、元禄二年(1689)だった。芭蕉が来たこのときの象潟は、「東の松島 西の象潟」といわれる景勝の地であった。
芭蕉はここで、
象潟や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花
と詠んだ。
芭蕉はここで、
象潟や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花
と詠んだ。
[2015.10.27]
今年亡くなられた哲学者 鶴見俊輔氏に「思い出袋」(岩波新書)という著書がある。中に大山巌(おおやま いわお)について述べた一節があり、目に留まったので紹介させていただく。