■海を渡った仏さま
有珠善光寺の地蔵堂には、江戸時代に奉納されたという地蔵尊がある。数奇なことにこの地蔵尊は江戸時代の浅間山の噴火との関係があるといわれる。
以下のことは、郷土史家 泉隆氏がまとめられた「泉藤兵衛奉納 延命地蔵尊の由来と絵馬」という資料による。
泉藤兵衛が明治27年に有珠善光寺に奉納した絵馬には、地蔵尊がこの地に来た経緯について触れられている。
【以下は絵馬に書かれていたこと】
奉献
私はかつて胆振国虻田礼文華(いぶりのくに あぶた れぶんげ)の漁場の請負を命じられていました。この場所に在住した節、この会所の召使に、アイヌ人のエーサエカという人がいました。その頃の年頃は17か18歳でありましたが、幼少より胎毒によって、両眼が冒され、物事を判別することも、困難な状態でありました。
私は、或用件で箱館に出て、一か月程滞在し、虻田に帰りましたが、エーサエカと会いましたら、病眼は癒り、眼の光も輝いているので驚いて、その理由を問いました処、彼はいうに
「大有珠山善光寺の、地蔵尊へ参り濁酒を捧げて、祈り願いを、いっしんに致しましたら、癒りました。私のみならず、あらゆる病人が祈願しましたら、全治する人が多くあります。三度、病が癒るように祈願して、本復しない時は、この人は不治の病であります。昔よりアイヌ民族の言い伝えであります。」と言いました。
私は地蔵尊の妙なる霊感によって善光寺をたずねて、住職の仙海上人に、尊像の由来を伺いました。上人は、
「旧幕府時代に浅間山が大噴火し(天明3年1783)その麓の村々は、残らず全壊しました。この或村の大庄屋の娘がいましたが、出家して尼僧となって江戸にいましたので災害にあわなかったのです。その後、自分の家の跡を探しましたがわからず、その家に数百年になっていた桃の木が、焼けただれてありました。尼はこの木を掘り出して、これに地蔵尊を彫み、江戸の或寺に安置して、尼僧は生涯にわたって信心し、正しく念じながら没しました。
有珠善光寺が開基(文化元年1804 幕府直轄寺)になった時、蝦夷地の開発教化のため、江戸の増上寺より廻されて来た霊像であります。この尊像に信心をする者は、その病の煩うところを、その局部を尊体に擦り動かして、平癒を祈れば、病は癒え利益を受けた人々は多いと聞きます」と申されました。
この霊的体験の顕れを疑ってはならないのです。
函館
明治27年(1894)9月 施主 泉 藤兵衛保安
【裏面】
嗚呼(ああ)、施主の藤兵衛が積年の信仰によって、
感じたことが、しばしばであった。自分と他人の利益が明らかになることが多かったで、それを諫(いまし)め進ましめて、将来において信仰が晋(ひろ)がる事を願った。そんなことで、これを納めた。
旨 明治27年10月佛歓喜日
大臼山二十六主 才誉代
泉藤兵衛(いずみ とうべい)1829年~1895年。
明治初期から中期にかけて地方産業開発の先駆者の一人として、函館のまちづくりに尽力した実業家。
文政2年12月26日、陸奥国下北郡大畑村(現・青森県下北郡大畑町)に生まれる。10歳のときに母が亡くなり、家を出て船問屋の丁稚として奉公する。
嘉永3年、船問屋と木材業を起こすが失敗。逃れるように松前に渡り、升屋定右衛門に奉公し、磯谷、歌棄漁場の請負人になる。一時大畑村に帰郷するが、安政5年、箱館に一家を伴い移住する。当時の箱館は第2次幕府直轄時代を迎え、外国船の入港も多く、また洋式城郭の五稜郭の工事が始められる。藤兵衛は箱館奉行所の松川弁之助と共に蝦夷地開拓事業に従事した。その後菓子業を営んだこともあったが、慶応元年に佐野孫右衛門より虻田郡礼文華(れぶんげ)の虻田漁場を譲り受け、家族と共に現豊浦町に移り、漁業に従事する。
(絵馬に奉納したアイヌ人エーサエカの経験談は、このころの体験と思われる)
明治に入ってからは函館に戻り、恵山硫黄鉱区の開発、北海道開拓使の諮問に意見を述べて北海道産物品の改良、北海道で最初の銀行設立などに尽力した。その後函館区会議員を努めたりしながら、地方産業の発展に貢献した。
明治27年に夢に現れた虻田郡礼文華岩屋の円空作観音像の首の修理を行い、同時に絵馬2枚を奉納した。同年、有珠善光寺の地蔵堂にも絵馬1枚を奉納しているが、それが前述の地蔵尊の経緯を記したものと思われる。
*「はこだて」の表記 明治以前は「箱館」、明治以後は「函館」とした。
長野県と群馬県の境にある浅間山は有史以来たびたび大きな噴火をしてきたが、天明の噴火は、江戸中期に起きたもので、そのときの様子を表した絵図、文章記録も多く残っている。以下は、同じく泉隆氏の資料からの孫引きである。
日本の火山の歴史ではもちろん、世界のそれも第一級といわれる「天明の浅間山大噴火」は天明3年(1783)4月8日(新暦では5月9日)に始まった。地元の大笹にある無量院住職の手記には「4月8日初めに焼出し、煙四方に覆い、大地鳴りひびき、戸障子ひびき地震の如し」とある。初めは中規模の噴火であったが、しばらく休止して、45日経った5月26日に再度噴火した。この時は前回より規模が大きく、地元原町の富沢久兵衛の手記には「5月27日に諸国に灰降る。その後もたびたび焼灰降り、草木白くなる。馬に草をやるにも灰を洗ってからあたえ、また桑の葉も洗ってやるが、毎日降るので養蚕も今年は半吉であろう」と書いている。この日は夜の五ツ時(8時ころ)に噴火あり、火口から10キロ以上離れた田代、大笹、鎌原にも小石が降って、それが三寸(9センチ)ほど積もった。
次いで同26日から一段と大きな噴火が始まる。「昼ごろになって大爆発あり、大地しきりに鳴動し、山の中から赤い雷がしきりにはしり出た。人々身の毛もよだつほどで、見る者はおそろしさのあまり、ひや汗を流し、気絶せんばかりであった。」と無量院住職の手記は、その有様を述べている。以降29、30日とだんだん激しさを増しながら噴火はつづいた。7月になると、周辺に多量の軽石を降らすとともに、灰は関東一円に及び、その中に三寸から六寸ほどの“白毛”(マグマが引き伸ばされ急に冷却されるため繊維状のガラスになったもの)が混じって、ふわりふわりと降ってきた。7月6,7,8日最後の3日間は、それこそこの世のものとも思えない有様であった。
6日の午後2時頃から激しい噴火が始まり、大量の軽石を降らせた。6日夜から7日にかけて、火口から灼熱した大小の溶岩が北側の火口壁を越えて流出し、山の東北側に流れ出て地表を覆った。現在の北軽井沢の別荘地帯の南部を覆っている「吾妻火砕流」である。
翌8日午前10時ごろ「信州木曽御岳、戸隠山あたりから光るものが浅間山に飛び入り、山がむくむく動き出したかと思う間に」(浅間山焼出大変記)一大音響とともに、再度大爆発を起こし、幅30間(約54メートル)高さ数百丈(1丈=約3メートル)にも及ぶかと思われる火煙を噴き上げ、火口から噴き出た多量の溶岩流が、今度はまっすぐ北側の急斜面を滑り落ち、途中の土砂岩石を巻き込み、その量を増して、あっという間に火口から約15キロ北にある鎌原村を埋め尽くし、さらに下って利根川支流の吾妻川まで、なざれ落ちていった。「鎌原火砕流」*である。
この火砕流によって、鎌原村は村高332石の田畑の97.6%が、2,3メートルから10メートルくらいの火石の入った土砂に覆われてしまう。被災直後、現地調査に派遣された幕府勘定吟味役、根岸九郎左衛門の報告書によると「93軒あった家は1軒残らず押し流され、また597人いた村民は466人が死亡、馬も200頭いたが、170頭が死亡した。」
生き残ったのは当日他出していたか、観音堂をはじめ火砕流の直撃を免れた人々131人であった。
「鎌原火砕流」* 「堆積物は最大60メートルに及ぶ溶岩塊と、厚さ数メートル程度の雑多な砂質の部分から構成され、火砕流と岩屑なだれ(火山体の一部や急斜面が何らかの原因で崩壊し、巨大な岩塊から細粉までの雑多な個体片の集合物が高速で斜面を流下する現象)の両方の性質を併せ持つ」ことから、中央防災会議報告書『1783天明浅間山噴火報告書』では、「鎌原火砕流/岩屑なだれ」と表現を統一した。
・母を背負った娘の悲話
昭和54年から57年まで4年間にわたって、鎌原村の発掘調査に行ったとき、観音堂の石段が120~150段もあるかどうか、石段を駆け上がる途中で死んだ人があるかを確かめることを、最初の任務とした。石段は50段で人間の遺体が2つ出てきたのである。その石段の昇り口から1段目に頭を置いた形で一人、2段目に同様に一人、ともに顔は北に向けた形で人骨が出てきた。突っ伏した1段目の人が、2段目の人を自分の頭より高く背負った形である。しかも2段目に頭を置いた上の人骨は老齢の女性。1段目は壮年の女性と推定された。鑑定の結果、“母を背負った娘”であった。
(大石慎三郎 日本の歴史87 朝日新聞社 昭和62年12月発行)
鎌原村を襲った鎌原火砕流/岩屑なだれは、吾妻川になだれ込み、さらに下流の利根川にも大土石流(泥流)を起こして、関東平野一円で1000人を超える犠牲者を出した。
浅間山噴火により関東地方の広い範囲に火山灰を降らせ、農作物に甚大な影響を与えた。また噴火の影響と思われる不順な天候が、特に東北地方に冷害をもたらし、いわゆる天明の大飢饉につながったといわれる。
実は、浅間山の天明噴火と同じ年1783年に、遠く離れたアイスランドのラキ火山が大噴火を起こしている。火山噴火の規模の大きさは、その地表に噴出された噴出物の総量で規定される。このときのラキ火山の噴出量は、浅間山に比して数十倍から百倍くらいの規模であった。
ブルーヘイズという大気の異常が広く欧州の空を覆い、世界規模の冷夏につながったといわれる。浅間山の噴火もさることながら、天明の大飢饉の背景にはラキ火山の噴火の影響も大きかっただろう。
徳川幕府は、北辺に外国船の出入りが増えてきた19世紀の初頭に、蝦夷地に官寺を建てる計画をする。蝦夷地で死亡した和人の供養、アイヌ民族への仏教布教を目的としたが、背景には、蝦夷地を伺うロシアへの対策として幕府による蝦夷地支配を示す狙いがあった。当初五寺を建てる計画だったが予算が厳しく三寺の建立となった。
いわゆる“蝦夷三官寺(えぞさんかんじ)”である。
有珠善光寺(浄土宗)、様似の等澍院(とうじゅいん)(天台宗)、厚岸(あっけし)の国泰寺(こくたいじ)(臨済宗)の三つである。
有珠善光寺は浄土宗である。浄土宗の江戸における本寺は芝の増上寺であり、この寺から代々の住職が派遣されてきている。増上寺は、江戸開府以来、徳川家の菩提寺となる。
先の浅間山山麓出身の尼僧が、江戸の或寺で毎日お祈り続けた地蔵尊。そこには噴火災害で亡くなった故郷の人びとへの鎮魂の思いが込められただろう。その地蔵尊が、どんなことがあって増上寺に渡り、またその後蝦夷地の有珠善光寺まで来ることになったのかの経緯は分からない。想像をたくましくすると、江戸時代に入ってから有珠山は、寛文3年(1663)、17世紀の末ごろ、明和5年(1768)と3回の噴火を繰り返してきている。この風聞は何かを通じて江戸の増上寺にも知れていたに違いない。文化元年(1804)に蝦夷三官寺として有珠善光寺を建立するにあたり、そばにある有珠山という火山の治めに、同じく火山である浅間山ゆかりの地蔵尊を安置しようと考えた人がいたのかもしれない。その後有珠山は文政5年(1822)に噴火とともに火砕流が発生した。この火砕流は虻田側に流れ、100人を超える人が死亡し、またこのあたりで放牧されていた牧馬千数百頭が焼死、行方不明になる大惨事となった。幸いのことにというべきか、有珠善光寺はこのとき、裏山の高みがこの火砕流から守ってくれて本堂などに被害がなかった。地蔵尊がからくもこの地域は守ってくれたとみるべきだろうか。境内から少し上ったあたりには、樹齢数百年と思しきミズナラの巨木がある。この木も火砕流から逃れたもので、春になり若葉をつける頃になると小鳥たちが集まる憩いの場所となる。
◆参考資料
・「泉藤兵衛奉納 延命地蔵尊の由来と絵馬」泉隆
火山マイスター福田茂夫氏より資料をいただく
・「浅間山大噴火の爪痕」天明三年浅間災害遺跡 関俊明 新泉社
火山マイスター加賀谷仁左衛門氏より紹介いただく
・泉藤兵衛については、インターネット「函館市文化・スポーツ振興財団 函館ゆかりの人物伝」を参照させていただく
・挿絵 ・有珠外輪山から噴火湾を望む
・地蔵堂の地蔵尊(「有珠バカンス村」下記サイト
http://asiq.cocolog-nifty.com/usu/2016/06/post-9870.html
の中の写真を、コピーさせていただいた。)
・有珠善光寺本堂
(2020-2-24記)