■虻田神社
JR室蘭本線 洞爺駅のそばの高台に虻田神社(あぶたじんじゃ)がある。
創建由来によると、
文化元年(1804年)の創建といわれる。虻田場所の開田・漁場開始の神恩奉賛と繁栄を祈願するために、当時の虻田場所請負人 和田茂平が松前藩領主松前章広の命を受け、京都伏見稲荷大社よりご分霊をいただき、床丹(現入江)に稲荷神社として創建された。同年、恵比寿神社も建立されたが、大正6年、稲荷神社と合祀された。
文政5年(1822年)の有珠山噴火にともない鎮座地を床丹からフレナイに遷し、大正11年の長輪線(現在のJR室蘭本線)の敷設にともない、社地を現在地に遷し、昭和46年に現在の社殿が造営された。平成6年、創建190周年を期に社名稲荷神社を虻田神社に改めた。
神社本殿は階段を上った高台にあり、ここからは洞爺湖町の街並みや噴火湾の眺めがよい。
社殿でお参りをした後、ここから山側につながる遊歩道を歩いた。ジグザグに山肌を縫って道が上の方に続く。上の展望台にはパワースポットという説明があった。この神社の位置する場所が、パワースポット 利尻山――羊蹄山――駒ケ岳 を結ぶ線上にあるという。
更には、延長していくと富士山とを結ぶ一直線上にあるという。
利尻山も羊蹄山も駒ケ岳もいずれも火山で、見る位置によっては富士山型になる。そのラインが富士山に達するとのこと。火山であることと形が共通点と云えば共通点である。
展望台にあるパワースポットについての記述を紹介すると、
*「大地の“気”がみなぎる龍脈」
この場所は、利尻富士、羊蹄山、駒ケ岳を結ぶ、風水でいう龍脈(パワースポット)上に位置しており、龍脈は富士山まで続いているとされています。
噴火湾や駒ケ岳を眺めることができ、背後にある羊蹄山・洞爺湖から来るエネルギーをふんだんに蓄え、普段の生活で感じることができない緊張感・高揚感を体験できます。
また、昔から白蛇を見たという話が多数あり、白蛇は神の化身として縁起が良いものとされ、生命の源、再生、繁栄をもたらすといわれております。
さらに蛇が進化して神格化したものが龍であり、洞爺湖町のキャラクターは龍です(後略)*
今回訪れたのは5月後半で、早春の花々は終わりになっていたが、もう少し早い時期には
花や木々の芽吹きも美しい。神社のお参りについでに高台の遊歩道の自然の中を歩くのにいい場所だと思う。
本殿に登る階段の脇のちょっとしたスペースに野草が植わっている。珍しい野草があるので紹介する。
ウラシマソウやクマガイソウという風雅な名前の草花である。
この写真はウラシマソウで、サトイモ科テンナンショウ属の宿根性多年草。
上側に傘のように10数枚の緑色の小葉を付けていて、茎の脇のグレーのギボシ状のものが
葉なのだそうだ。葉の下の白っぽいものが仏炎苞に包まれた肉穂花序というものらしい。肉穂花序の先端から釣り糸状に長く伸びるものがあり、これを浦島太郎が持つ釣り糸に見立てて“ウラシマソウ”になったとか!?(写真が小さくて分かりづらいと思いますが)
次の子の写真はクマガイソウで、ラン科アツモリソウ属の多年草。
名前の由来は、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣(ほろ)に見立て、源平合戦の熊谷直実の名前から来ている。同じような形のアツモリソウは、一の谷の戦いで熊谷に討たれた平敦盛(たいらのあつもり)に由来するとのこと。昔の人は粋な名前の付け方をしたものだ。
なかなか珍しい草花に出会えた。神社の奥さんが、野草に興味を持っていらして上手に育てていらっしゃるので株が増えてきている。
本殿から少し遊歩道に出たところに大迫尚敏(おおさこなおとし或いは、なおはる)揮毫の忠魂碑という石碑がった。大迫は日露戦争当時に北海道の兵を率いた第七師団長であった。
旅順攻防戦の後半に第七師団の兵は投入され、いわゆる203高地攻めを行ったが、ロシアの鉄壁ともいえる要塞の前に多くの兵が亡くなる。北海道招集兵の多くが旅順やその後の満州平野決戦で亡くなったこともあり、北海道の各地にこのときの忠魂碑が残る。ここもその一つである。
以下は「坂の上の雲」司馬遼太郎著 に描かれた大迫の人となりの一端である。
*北海道出身者をもって構成されている第七師団の師団長は、薩摩人大迫尚敏であった。当時中将で、のち大将。
大迫尚敏はべつに正規の教育は受けておらず、薩摩藩士としての武士教育を受けたにすぎない。
明治帝には、人物の好みがあって、西郷隆盛や山岡鉄舟、乃木希典という木強*(ぼっきょ
う)武士肌の人物が好きで、山県有朋のような策謀家はきらいだったらしい。大迫尚敏は西郷もしくは山岡のにおいをもっている人物で、彼が大佐で近衛歩兵第一連隊長をつとめていたころ、帝に知られ、ひどく愛せられた。いわば人間として「あの男はおもしろい男だ」と帝はおもしろがっていたという意味である。
(木強* 飾り気がなく一徹であること。武骨)
明治帝は、大坪流の馬術の達人であった。大迫尚敏はあいまいな馬術しか知らなかったから、帝は、
「大迫、教えてやる」
といって、彼の近衛連隊長時代、帝からその秘術をことごとく教わった。
明治帝は、この大迫尚敏を、古薩摩人をみるような思いで、愛していたらしい。
「いよいよ第七師団をやるのか」
と、帝は、この師団を旅順にやることを山県から聞いたとき、そうつぶやいてしばらく無言をつづけた。第七師団が征けば、もはや日本は空であった。日本の運命も悲痛であったが、この師団の運命も悲痛であった。全員が旅順要塞の敵の壕の埋め草になることはわかりきっていた。帝にとって、その二つの思いが胸をふさいでしまったらしい。
もっとも当の第七師団長大迫尚敏は、自分の師団だけが内地にいることに不満で、何度も上京しては大本営に出征させろとかけあっていた。このあたりは、いかにも明治国家の武人であった。それがいよいよ出征となった時、大迫は礼をいうために上京して大本営へゆき、山県に会った。そのあと、宮中へ参内した。
帝に拝謁し、暇乞い(いとまごい)を申し上げた。
双方、不動の姿勢である。大迫はいよいよ出征することになりました、という旨の報告をした。本来、師団長級の拝謁というのは、これでしまいである。
が、明治帝にすれば、この薩摩爺さんと最後の会話をかわしたかったのだろう。それに、大迫はともかく、師団の将士が旅順にゆくことをいやがってはいないかということが心配であった。
「士卒の士気はどうか」
と、帝はきいた。
大迫は薩摩弁まるだしで、士卒がいかに張り切っているかということを、大声でのべた。
「戦(ゆっさ)に勝つ、勝ったあと、北海道の師団ばかり征かんじゃったとあれば、北海道ンもんは津軽海峡の方ば顔むけ出来ん、ちゅうてどぎゃんにも焦っちょりましたるところ、ありがたくもこのたび大命くだり申(も)して・・・」
と、大迫はやったため、帝はよほどおかしかったらしく、声をあげて笑った。旅順へゆくというこの師団の陰惨な運命への思いやりが、この大迫のユーモアをまぜた報告のおかげで、帝の胸をはらした。それに、帝はユーモリストで、ユーモアを感じさせる人柄が一般に好きであったということにもよる。さらにいえば、平素、あまり薩摩弁をつかわない大迫が、ここでわざわざそれをつかったのは、自分と自分の師団の前途を待ち受けている運命について、帝に気づかわせたくなかったのに違いない。
この場に、岡沢侍従武官長がいた。岡沢はあとで、
「開戦以来、お上があれほど大声でお笑いになったことがない」
と述懐した。
大迫は、自分を悲劇化することを好まない男であった。かれはこの戦争に弟も従軍しているし、息子の大迫三次中尉も従軍していた。三次中尉は、戦死した。乃木希典と同じ悲劇の人でありながら、人柄に明暗の差があった。乃木はこの戦争のあと、「愧(は)づ我何の顔(かんばせ)あってか父老を看(み)ん」と、部下を多く死なせたことを悲(いた)む有名な詩をつくったが、大迫もよく似た短歌をつくった。「携(たず)さへし 花(兵士たち)は嵐に 誘はれて たもとに残る 家土産(いえづと)もなし」と詠んでいる。*
第七師団長という役で北海道と所縁のある人である。
話は神社の歴史に戻るが、1804年に虻田場所の設置のときに建立されたのは、人々の安寧や航海や漁業の安全を願ってのことだっただろう。それから間もなく1822年に有珠山の文政噴火で火砕流がこの一帯を襲った。有珠山噴火の歴史では記録の残る中では被害が最大のもので、100名以上の方が亡くなっている。そのことがあったため、有珠山から離れる側のより西側のフレナイ地区(現洞爺駅周辺)に一度移動になった。その後昭和の初めに長輪線(現室蘭本線)の敷設に伴い、現在の高台に2度目の引っ越しをしたということになる。高台ゆえに見晴らしがよく、人々を見守ってくれているように感じる場所である。
話が前後してしまうが、今回訪れたときに先ず茅の輪(ちのわ)くぐり(悪疫退散)というのを体験した。神社の下の鳥居のところに茅の輪が設けられている。
元々茅の輪くぐりは、正月から半年間のケガレを祓い、残り半年の無病息災を祈願するという意味がある。今年はコロナウィルス騒ぎが起こり、少し早くから、この疫病退散を願って設置された。
この茅の輪くぐりをするときに、“ソミンショウライ”という言葉を唱えてから輪をくぐってくださいと説明されていた。その時は訳は分からないままにその言葉を唱えていた。
戻って、インターネットで調べると、茅の輪くぐりは日本神話に由来している。
神社のことに詳しい友人に尋ねて、以下のことを教えてもらう。
*蘇民将来については我が家に京都祇園祭の「函谷鉾」のちまきがありそこに蘇民将来
の由来が書いてありました。
(八坂神社の祭礼の祇園祭は平安時代に疫病が流行した際にその退散を祈願して牛頭天王を祀ったのが起源で室町時代に山鉾巡行となったということです)
以下はちまきの説明文です。
蘇民将来之子孫也
昔、スサノオノミコトが旅の途中、ある村で一夜の宿を求められた時、富者の巨旦将来は宿を断り、貧者の蘇民将来は、わらの布団とひえの食事を出してあたたかいもてなしをしました。
スサノオノミコトはその返礼として、蘇民将来の子孫は疫病にかからないことを約束されました。そしてその印として、茅の輪を腰につけさせたのが、ちまきのはじまりといわれています。
以上茅の輪も蘇民将来のいずれも無病息災を願うもののようです。*
昔人々を襲った疫病は、原因も分からず打つ手もなかっただろう。人々は神様にすがり、“ソミンショウライ”を唱え、茅の輪をくぐり、或いは疫病退治の妖怪アマビエに祈りを捧げてこの厄かから逃れようとしたのだろう。
現代においては、新型コロナウィルスへの対応策として、とりあえずはマスク、手洗い、人々との距離などをとること、やがては治療薬や予防接種などの開発で乗り切っていくのだろう。しかし、人間にはこんな極小のウィルスは目に見えないから、どこにどう居るのかはわからない。どこかで神様にすがって守ってもらおうと思う気持ちは、相変わらず引き継いできている。困った時の神頼み、である。
(2020-6-11記)