■北園バスケットボール部
都立北園高等学校のときは、バスケットボール漬けであった。
3年生の6月後半、インターハイの東京都予選3回戦で敗れるまでが現役の生活であった。その間、1年生で同期に入部した仲間は20数名いたが、3年生のとき同期は3名だった。練習がきついのもあったし、大学入試に向かってやめていったメンバーもいた。
中学時代に少しバスケットボールに触れた程度で高校のクラブに入ったが、その練習量やハードさは断然違い、カルチャーショックであった。
1年生で入部した4月から6月頃にかけて、毎日が練習か練習試合、公式戦の日々だったように思う。1年生はコートでの練習はほとんどできずに、上級生の練習をコートの外から声を出して応援したり、グランドや体育館の2階通路でランニング、フットワーク、筋トレなどが多かった。体育館をバレーボール部が使う金曜日は、校外やグランドでランニングをしていた。休日は、上級生の練習試合、公式戦にいっしょについていく生活で、毎日がバスケットボールの生活であった。
朝は7:30頃に学校に行き、体育館でのシューティング練習があった。下級生の頃は、上級生のシュートするボールを拾い、上級生に戻す役割をやる。2講目と3講目の間に20分の休み時間があり、このとき部室に集まって早昼食となる。昼休みは、また体育館に集まって、シューティング練習をした。放課後はすぐに体育館に行き、下級生の頃はモップで床の清掃をして練習に備える。
練習は放課後の2時間から3時間であった。OBがよく練習に参加していて、最後にOBとの練習試合をするが、大学生主体のOBにはなかなか勝てなかった。数代前の先輩たちはインターハイにも出場しているので、後輩の指導は熱心だった。ただし、わたしたちの代の近辺では、もう全国大会に出られるレベルにはなかった。練習後、コーチ、OBからその日の練習についてのコメントや技術指導などの話があり、入れ替わりで話すので長い時は1時間くらいになることもあった。当時ジャージなどは着用していなく、ランニングシャツと短パンの姿でいると冬場はだんだん寒くなってくる。体育館の窓辺では隙間風も入ってくる。がたがた震えてくると、OBの話も上の空で、返事だけは何でも「ハイ!!」と素早くなる。OBたちもよく事情を心得ていて、わざと長話をする人も出てくる。
定時制の高校もあったので、夕方5時半くらいになると、定時制の人たちの一講目の体育の授業で体育館が使われる。そのときには2階の通路でランニングをして、定時制の授業が終わると再びコートで練習したこともあった。
練習が厳しくつらいこと、自分の自由時間がないことで何度もやめようと思ったが、そのたびに先輩やOBの説得で思いとどまったというのが実相であった。板橋駅のそばの喫茶店でOBの人から話をされたのが、わたしの喫茶店経験の初めであった。
毎日「バスケット日誌」というものを記していた。その日の練習内容、技術的なポイント、指導を受けたこと、感想などである。オフェンス、ディフェンスの動きは図示していた。1,2週間ごとだっただろうか、コーチが見てコメントをつけてくれた。
昨年上京の折、久し振りにバスケットボールの友達と母校の板橋駅近くで会い、旧交を温めた。同期の関が連絡をとってメンバーを集めてくれた。当時の練習や試合、仲間の消息、自分たちの来し方など話がつきない。
櫛谷は、昔のことをよく覚えていてたくさんおしゃべりした。池辺は秦野から駆け付けてくれて、久し振りに高校と体育館を見てきたと云っていた。折戸さんは1年上の先輩で今でもバスケットと関わっていると話していた。折戸さんは現役の頃、堅実にシュートを決める人だった。女子バスケットの田中(旧制 川嶋)も来てくれた。現代国語の片岡先生の授業の話をした。同期のキャプテンの近藤は、若くして病で亡くなった。あんなに頑強だった近藤が30代で逝ってしまったのは本当に寂しいことだった。社会人になり立ての頃、近藤の所属していたチームの試合に呼んでくれて、何回かプレーしたことがあった。関が準備してくれた「バスケットボール部の伝統と栄光」と称する小冊子には、戦後から昭和31年までの先輩たちの歩みや体験談が載っていた。
バスケットボールクラブの大先輩 登坂哲朗(のぼりさか てつろう)さんは22歳の時(大学生の時とお聞きしたように記憶にある)メルボルンオリンピックのバスケット日本代表で出場した。わたしたち現役時代の夏合宿に一度いらしたことがあり、当時われわれは、ものすごく偉大な人だと思っていた。「登坂さんは、*フックシュートをすべて決めてしまう」と伝説を語り合っていた。何しろオリンピックに出場したのは、クラブ始まって以来ただ一人だけである。
*フックシュート 身体の脇から横に打つシュートで、ディフェンスがしづらい
数年後、その偉大な方にわたしは大変お世話になった。わたしが札幌の大学生だったときの3年間、登坂さんはたまたま仕事で札幌に赴任されていた。
札幌での高校同窓会のことで初めて山鼻のお宅を訪問したのは秋の頃だったのだろう。
「きみ、ちょうどいいときに来てくれた。ストーブの煙突の取り付けを手伝ってくれ。そのかわり、晩飯を食べて行ってくれ」
ちょうど冬に備えて、石油ストーブの煙突を部屋の中を通して設置しているところであり、大先輩と初めて交わした会話であった。わたしにとって雲の上の存在のような人で、どんな風にしゃべったらいいのかと思っていたところ、存外気さくな人だったというのがそのときの印象だった。奥さんも明るく気さくな方で、「ちゃんと食べない人は、もう家には来てもらわないからね!」と初対面の固さをとってくれるような云い方をしてくれた。
学生の頃はいつもお腹を空かしていたので、たびたび登坂家を訪れて、夕飯をごちそうになり、洗濯機をつかわしていただき、時々お風呂に入れていただき、おしゃべりをし、相談事をさせてもらった。山から下りるとまず登坂家を訪れ、山での体験を話しながら、食事をごちそうになった。ほんとうにお世話になり、ありがたかった。
その後、登坂さんは仕事で名古屋や仙台に赴任され、1978年には横浜の自宅から通われるようになった。わたしは結婚して二人の子供ができ、1978年春に横浜に引っ越した。そのときには、わたしの新居にもお祝いに来てくださったが、この年の夏急な病のため44歳で若くして亡くなられた。まったく突然の訃報に驚いた。
札幌にいたころオリンピック出場の話を伺ったとき、
「入場式で日の丸を見たときには、涙が出てきたよ」とおっしゃっていた。
苦しかった練習を越えて、日本代表に選ばれ、いま聖火を仰ぎ見ていろいろな感慨が浮かんで来た、とおっしゃっていたように記憶している。
高校生の時は、練習や夏合宿、春合宿とほとんど毎日体育館にいたように思う。風邪気味で体育の授業はさぼって、バスケットの練習には出ていたこともある。ただし、体育の教官室が体育館にあり、練習しているところを杉山先生に見つかり、ばつが悪いこともあった。近藤は、冬の柔道の授業の時、サッカー部の仲間と寝技ばかりやっていたら、「近藤、寝技ばかりやっているんじゃないよ!はい、うさぎ跳びで道場一周!」と杉山先生に叱られたと云っていた。
わたしの母親は、バスケットボールという競技がどんなものかわからなかったかもしれない。一度は試合を見せてあげればよかったと今になって思う。
「武史は、ボール投げに毎日学校に行っている」とよく云われた。
高校の頃は、確かに母親の云うように毎日ボール投げをしていたと思う。
(2015-1-20記)