■宝来館の女将と「グスコーブドリの伝記」
ラグビーワールドカップ日本大会では、日本代表の快進撃で日本中が湧いた。
普段ラグビーにあまり関心がなかったわたしたちも、日本代表の試合があるときには、テレビの前でこぶしを握り、突き上げたりして応援した。
岩手県釜石市は、鉄と魚とラグビーの街として有名だ。
釜石市の中心から少し離れた海辺の町、鵜住居(うのすまい)は、今年ラグビーワールドカップの試合を誘致して盛り上がった。ここの競技場(鵜住居復興スタジアム)では2試合の予定であったが、残念ながら2試合目は台風19号の影響で中止となってしまった。
台風の直後であったが、鵜住居の旅館「宝来館」で学生時代のクラブの同期会があり、全国から20名のメンバーがここに集まった。
宝来館の女将・岩崎昭子さんは、2011年3月11日の東日本大震災のときに、この場所で津波にあって九死に一生を得た。夕食の後に、みんなで岩崎さんの体験を聞く機会があった。宝来館の後ろには裏山があり、岩崎さんは一旦裏山に逃げたが、まだ下で逃げそびれている人がいたので、再び下まで降りた。そして下にいる人を誘導している最中に津波が襲ってきた。津波のときを撮影したビデオを見せてもらったが、裏山の上にいる人たちが、
「早く!早く!来るよ!来るよ!」
と懸命に叫んでいる中で、津波が裏山に迫ってきた。最後に駆け上った岩崎さんともう一人の方は、一瞬水の中に入ってしまった。
「もう駄目かもしれないと」と一瞬思ったそうだ。
そのとき水の上に顔が出た。引き波に移る瞬間だった。上に行かなければと思って手を伸ばすと何かに触れた。誰かが手を握って引き上げてくれて、これで助かった。岩崎さんと一緒に最後に駆け上った女性の方も助かった。この裏山に逃げた方は全員助かった。
岩崎さんが先代から宝来館を引き継いでから、いまの鉄筋コンクリート4階建ての建物に建て替えをしたそうだ。そのきっかけになったのが、1993年7月12日に北海道南西沖で起きた地震による奥尻島での津波災害の話を聞いたことだった。何かのテレビ番組で、奥尻島の旅館の方の話を聞いた。
「旅館に泊まった人の命を守るのは、旅館の主の務めだ」
という言葉だった。これを聞いて、
「わたしもお客さんのための旅館を建てよう!」
と決心されたとのこと。奥尻島の体験が、鵜住居へ引き継がれ、東日本大震災の時に生かされた。この時の津波は、宝来館の2階まで押し寄せたが、4階にいた人は無事だった。
鵜住居の根浜海岸は、かつて日本の白砂青松百選にも選ばれた白い砂浜が2kmも続く場所だった。津波で白い砂浜は半分になり、青い松林は50mほどしか残っていない。
地元の釜石東中学校の生徒は、3月11日の津波が来る前の一週間の間に、避難訓練を2回行っていた。3月11日の地震は大きかった。生徒たちは、「これは本番で、高台に逃げなければならない」と直感したそうだ。隣にある鵜住居小学校の生徒たちは、中学生より後に高台に向かって避難していった。中学生たちは、自分たちの後ろに「とっとっ」という足音を聞いて、小学生たちが後ろにいることを知った。それで小学生の手を取って一緒に高台に向かった。小学生の手を握ったとき、その温かみを感じた中学生は、この子を自分が一緒に連れて行って、この子を守らなければならないと感じたという。
釜石は近代製鉄業の発祥の地である(明治政府が官営製鉄所を作る)。最盛期には9万人を超える人口があったが、高炉の休止や東日本大震災の影響で減少して、現在は33000人くらいになった。釜石製鉄所の実業団チーム「新日鉄釜石ラグビー部」は1978年から1984年にかけて日本選手権7連覇の偉業を成し、「北の鉄人」と呼ばれた。
岩崎さんの話では、この7連覇の頃も釜石の製鉄所では、高炉の休止の話が出ていて、従業員は配置転換で室蘭や君津への転勤も増えた。学校では子どもたちが数十人単位でいなくなっていった。
「新日鉄釜石ラグビー部は負けるわけにはいかなかったんですよ!釜石市民に元気を届けるために、勝ち続けなければいけなかったんですよ!」
もちろん実力があってのことだが、7連覇の偉業の背景には、釜石全体の思いがあったことを教えてもらった。
鵜住居復興スタジアムはかつての釜石東中学校と鵜住居小学校の跡地に建てられた。
今回ラグビーワールドカップをこの競技場で迎えるにあたって、小中学生たちが今までお世話になった多くの人々のために感謝の歌を作って、競技場で披露した。
岩崎さんの話のなかにもこの歌は出てきて、子どもたちが歌うシーンがビデオで紹介された。歌詞の一部を紹介する。
*「ありがとうの手紙 ♯Thank You From KAMAISHI」
作詞:かまいし絆会議、下山和也 作曲:佐藤将展
ありがとうの言葉だけじゃ この想いは伝えきれないよ
もしも言葉に翼が生えたなら あの空の向こうへ 今すぐ届けたいよ
僕たちがまだ小さかった頃 この町に悲しみがやってきました
灯りも笑顔も失ったとき トラックに乗って 世界中の想いが届いたんだ
顔も名前もわからないけど みんなが応援してくれました
あたたかい気持ちは絆となって 釜石の町に たくさんの希望が生まれたよ
ありがとう ありがとう ありがとう 何度言っても足りないよ
ありがとう ありがとう ありがとう ずっとずっと忘れないよ
あなたが背中を押してくれたから 僕たちは未来へ進めるんだ
もしもこの歌あなたに届くなら あの海の向こうへ 精いっぱい歌うよ
「みなさんの想いを 僕たちは忘れません」*
歌は3番まであるが、長くなるので1番だけを紹介した。
1番 復興を支援してくれた国内外の人びとへ
2番 仲間や友人へ
3番 家族へのメッセージ
をつづっている。歌詞については、下記のインターネット・釜石市HPから見ることができる。
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/hagukumu/kyoiku_iinkai/detail/1231592_2393.html
岩崎さんは、話しの最後の方に、故郷岩手県の詩人・童話作家である宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」について触れられた。この話は以下に紹介するように、火山にまつわる物語なのだが、岩崎さんは、
「わたしにとっては津波のことを語っているように思えるんですよ」
という。なぜそのように思われるのかを、本人から聞いてないので真意はわからないが、改めてこの物語を読んでみて、そのことを考えたいと思った。
「グスコーブドリの伝記」のあらすじは、
*グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれた。冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れ、工場に労働者として拾われるも火山噴火の影響で工場が閉鎖するなどといった苦難を経験するが、農業に携わったのち、クーボー大博士と出会い学問の道に入る。課程の終了後、彼はペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。前後して、無事成長し牧場に嫁いでいた妹ネリとの再会も果たした。
ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。カルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガス(現在二酸化炭素)を放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか、ブドリは飢饉を回避する方法を提案する。*(この項、Wikipedia「グスコーブドリの伝記」より引用)
この最後の部分は少し長くなるが、童話「グスコーブドリの伝記」の中から引用させていただく。
*そしてちょうどブドリが27の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北の方の海の氷のようすからその年の2月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになってこぶしの花が咲かなかったり、5月に10日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもう、この前の凶作を思い出して生きたそらもありませんでした。(中略)
ところが6月もはじめになって、まだ黄色なオリザ(稲)の苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずにいく晩もいく晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスが増えてくれば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたといわれるくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それはぼくも計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散をふせぎ、地球全体を平均で5℃ぐらいにあたたかにするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後のひとりはどうしてもにげられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
「わたしのようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっとりっぱにもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
「その相談はぼくはいかん。ペンネン技師にはなしたまえ。」
ブドリは帰ってきて、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。
「それはいい。けれどもぼくがやろう。ぼくは今年もう63なのだ。ここで死ぬならまったく本望というものだ。」
「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。いっぺんうまく爆発しても間もなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思った通りいかないかもしれません。先生がこんどお出でになってしまっては、あとなんとも工夫がつかなくなると存じます。」
老技師はだまって首をたれてしまいました。
それから3日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんはひとり島に残りました。
そしてそのつぎの日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろににごり、日や月が銅(あかがね)いろになったのを見ました。けれどもそれから3.4日たちますと、気候はぐんぐんと暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るいたきぎで楽しく暮らすことができたのでした。*
明治後も冷害に苦しんだ岩手の様子、それを何とか科学の力で克服できないかという思い。それを実現させるための自己犠牲。いろいろなことがこの童話の中では語られていると思う。一般に火山の大規模噴火で火山灰などが大量に噴き出すと、その微粒なものが成層圏に漂い、太陽光を遮り、地球は低温化に向かうという。賢治が目指したかった温暖化とは逆の現象である。
医師で小説家でもある石黒耀(いしぐろあきら)さんは、2015年にこんな意見を述べている。
*(前略)宮沢賢治は1931年、当時は不治の病だった結核に罹ります。もはや農業に従事することが出来なくなった病床の賢治が、(東北の冷害を救うために)最後に夢見たのは、火山噴火による地球温暖化でした。翌年完成した『グスコーブドリの伝記』の中で賢治が提唱したのは、温室効果ガスである炭酸ガスを豊富に排出するカルボナード(「炭酸ガスに満ちた」の意)火山を、イーハトーブ火山局の管理下に噴火させて、噴火災害は最小に留め、温室効果だけ得ようという驚愕のアイデアでした。驚愕的すぎて、「『グスコーブドリの伝記』は非現実的で、それゆえ美しい童話」という扱いを受けてきましたが、はたしてそうでしょうか?
賢治の死から53年後の1986年、カメルーンのオク火山の山頂にあるニオスという火口湖から、突然、ガスが大量噴出し、周辺の広い地域の人や動物が全滅するという怪事件が起こりました。原因は、火口底に湧く炭酸ガスが湖底に溜まり、何らかのきっかけで爆発的に噴出(暴噴)したためと判明しました。暴噴のきっかけが何かは分かっていませんが、湖底の高濃度炭酸ガス層を大きく撹拌できる規模の噴火が起これば、十分なきっかけとなったでしょう。
現在は再暴噴を防ぐため、日本のJICA(国際協力機構)が協力して湖底の炭酸ガスを連続的に抜くパイプを設置しています。つまり、今では“カルボナード”な火山から、火山学者の管理の下に、ゆっくりした炭酸ガスの暴噴を起こせるのです。もっと巨大な“カルボナード”火口湖を見つければ、温暖化を引き起こす程の炭酸ガスを連続的に暴噴させることも不可能ではないでしょう。『グスコーブドリの伝記』は非科学的な童話ではなく、科学が賢治の発想に追いつくのに、半世紀以上かかっただけだったのです。(後略)*
明治以降も三陸の海岸は、大地震による大津波にたびたび襲われている。
1896年6月15日の明治三陸津波、1933年3月3日の昭和三陸津波、1960年5月23日には遠くチリで発生した地震によるチリ地震津波に見舞われて、多くの方が命を落としている。そして2011年3月11日の東日本大震災のときの平成三陸津波が三陸の多くの場所で、大災害をもたらした。
特に岩手県は海岸線が長大で、これらの津波災害で甚大な被害を被ってきた。また、賢治が心痛したように、畑作地、稲作地は低温気象による冷害が江戸時代から昭和期にかけて頻繁に発生している。賢治はもちろん、故郷岩手のこのような自然災害については熟知していたに違いない。
なろうことなら科学の力で何とかしたいという思いは持っていたのだろう。その一つの現れが「グスコーブドリの伝記」で描いた火山の力による低温の克服だった。
岩崎さんにとっては、故郷岩手は、繰り返される津波や冷害などの自然災害に見舞われるつらい土地だが、一旦は打ちのめされても、ここから立ち上がっていくしかない。賢治は「グスコーブドリの伝記」で火山の噴火を人工的に起こすことによって、冷害に立ち向かえないかと問うた。海辺の鵜住居に住む岩崎さんにとって最も恐ろしい自然災害は、津波である。同じく、この繰り返される自然の脅威に、立ち向かう勇気を与えてくれるのものが賢治の書いたこの物語であったのだろう。今後きっと進歩していくであろう防災科学の力と、岩崎さんが自分で体験したことを後の人びとに伝えていくことで、この先に起こるかもしれない災害に立ち向かって、自分の命を守って欲しいという願いなのではないだろうか。
時として脅威となる地球の大気や海洋が起こす気象現象、地殻の上で起こる地震や津波、そして火山噴火などの自然現象にあまねく対応できる世になって欲しい。
「グスコーブドリの伝記」の物語の中に、そのような望みを感じているのではないだろうか。
◆参考資料など
・新版 宮沢賢治童話全集 の中の「グスコーブドリの伝記」 岩崎書店
・下記のインターネットサイトSPACへの石黒燿氏の寄稿
https://spac.or.jp/culture/?p=494
石黒燿(いしぐろあきら)医師、小説家。霧島火山の巨大噴火を描いた『死都日本』(講談社)でデビュー。その後も、『震災列島』『昼は雲の柱』など、地変国日本のあり方を問う作品を発表。講談社メフィスト賞、日本地質学会表彰、宮沢賢治賞奨励賞を受賞。
この方のペンネーム 漢字の順番を入れ替えると「黒燿石」となる。
・挿絵 1番目 鵜住居復興スタジアム
岩手日報 下記のサイトの写真を模写
https://www.iwatenp.co.jp/content/tyfk2019/
2番目 早池峰山 花巻宮沢賢治記念館から
・鵜住居を訪れたのは、2019年10月15,16日
(2019-10-31記)