■駒ケ岳
駒ケ岳(正式名称:北海道駒ケ岳)は噴火湾の向こうに富士山型の形を見せている。
海上50kmの向こうであるが、そんな距離よりははるかに近くに感じる。場所によっては海が街並みに隠れていると、伊達市街の向こうに在る陸続きの山であるようだ。
伊達の関内(せきない)という地域は、少し標高が高くなるので噴火湾と共に駒ケ岳が意外と大きく見える。地図を眺めると、北海道南部に無骨なハイヒールのような形に出っ張っているのが渡島半島である。ヒールの先端あたりに恵山という火山があり、噴火湾の入り口を成している。そこから少し上がったかかとの辺りに駒ケ岳がある。そして噴火湾の海上を隔てた向かい側の位置に有珠山がある。
駒ケ岳と有珠山は海上を隔てているが両方とも活火山でいままでも噴火を繰り返してきた歴史がある。
1640年、江戸時代に入って間もない頃に、駒ケ岳は約5000年振りに大噴火をした。このときの噴火で山が崩れ(山体崩壊)て、大量の岩石・土砂が南側になだれ下り川をせき止め出来たのが、現在の大沼や小沼などの湖沼群である。またこのとき東側になだれ下った大量の岩石・土砂は噴火湾に一気に入り込んで、噴火湾には津波が発生した。対岸の有珠地区には8mくらいの津波が押し寄せて、沿岸の住民や舟に乗っていた人々など約700名がこれにまき込まれて亡くなったといわれている。
余談ながら、噴火と共に山が崩れて(山体崩壊)、大量の土石が一気に海に流れ込み、対岸に津波被害を発生させた例は他にもある。
その一つは江戸時代の雲仙普賢岳の噴火である。
1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、のちに「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへん ひごめいわく)」とよばれ、語り継がれている。有明海になだれ込んだ大量の土石で発生した大津波で、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という、有史以来日本最大の火山災害となった。
海や湖のそばに立地する火山は、山体崩壊で対岸にも被害を及ぼす可能性がある。
伊達に移住するまでにわたしが知っていた駒ケ岳は、大沼公園から見た左側が鋭く持ち上がった形の山容であった。そのため伊達から見た富士山型の駒ケ岳には当初違和感を覚えた。この山は何回かの噴火を繰り返し、山の外観が複雑な形に残った。現在でいうならば駒ケ岳と砂原岳という2つの山体が見る位置によって重なり、また離れ、まったく違った形に見えるという不思議さを出している。
有珠山ロープウエーの遊歩道を歩くと、火口原展望台という噴火湾を望む場所がある。観光客の方を案内するときに、この場所では駒ケ岳の山容のことについて話すことがある。朝登別温泉を発ってこの有珠山に来たお客様は、これから噴火湾の周りをぐるっと回って夕方に函館を目指す。途中いかめしで有名な森や大沼公園からの駒ケ岳を見ながらの旅になるので、それぞれの場所からの形が変わる山の姿も楽しみにしてくださいね、というメッセージを伝えている。
噴火湾という言葉を使っているが、正式名称は内浦湾といわれる。地元では噴火湾とよぶことが多いので、この言葉に慣れてしまった。
ほぼ円形のこの湾が噴火した形跡はない。名前の由来は、江戸時代にさかのぼる。
1796年にこの湾に、イギリスの海洋調査船プロビデンス号が入ってきた。入口の恵山から始まり、駒ケ岳、有珠山、登別の日和山、そして少し離れているが苫小牧の樽前山と、いずれの山も当時噴煙を上げていた。艦長のウイリアム・ロバート・ブロートンはこの景色を見て、ここは“Volcano Bay!”(火山の湾)だと叫んだ。火山などないイギリスから来た人から見ると、わずかな距離の間に、煙を上げる山々が取り囲むこの湾は異様に感じたに違いない。そのことが噴火湾の名前の由来になったようだ。
5月の頃、有珠外輪山に登ると噴火湾の上に雲海が広がり、その上に駒ケ岳の頭がのぞいていることがある。また海霧が虻田の町を覆い洞爺湖の方に流れてくる姿を目にすることもある。9月頃には、海の色が濃い青色(群青色)になり、その向こうの山並みは薄い青色になり、コントラストを成す。
丘の上 歩む畑道 その向こう
群青の海 駒ケ岳しずか
(2017-9-16記)