■芸者さんが持って来たタイ焼き
随分と久し振りに大学時代の友人のO君から電話があった。『卒論で同じ研究所に通った仲間で集りたい』と言う。 それは大いに結構なことである。
私達は巣鴨にあったノーベル賞受賞者も輩出した理化学研究所で塑性加工という技術の研究をしていた。・・・と、いうよりは、研究していた科学者のお手伝いをしていたようなものだった。・・・らしい。
山の上ホテル
それは何かというと、鉄板などの特性を調べ、自動車などのボディの曲線を出す為の成分の研究であった。
だから研究者の中には、八幡製鉄などから派遣された優秀な研究者がいて、彼らの頭の良さに驚かされた覚えがある。
そして、10月のある日の午前11時に御茶ノ水駅の改札口で待ち合わせをした。そこに現れたO君とは15年ぶりで、K君に会うのは30年ぶりくらいだ。
神田の古本屋街
早速、近くの老舗の山の上ホテル」で食事をしながら話をする。
彼らは2人とも会社は別だが、建設機械メーカーに勤め定年を迎えたサラリーマンであった。
それでも十分な厚生年金と企業年金があるので、悠々自適だ。
昔話と仲間の消息を聞いたりして、アッという間の2時間であった。
またの再会を約束して別れた。そして、私は懐かしい思い出があるお茶の水から靖国神社までをブラブラと歩いた。
靖国神社
大学時代の友人というのは中学・高校時代の友人とは違い、接触時間が短い。だから、親しみの度合いが薄いような気がする。
また、卒業後、ニューヨークに渡った私に対して、彼らはサラリーマンの道を歩んだので、考え方にも大きな違いがあった。
それが、50年も経っても解消されなかった再会であった。
皇居北の丸門
(おまけの話)
理化学研究所の塑性加工研究室の室長のX博士はなかなか豪快な人で、かなりの遊び人であったらしい。
なぜだか時折、X博士を訪ねて研究室に芸者さんが現れた。その時は、必ず「四谷わかば」のタイ焼きを持って来てくれた。
靖国通り
なぜ芸者さんが研究室に現れるのか、当時は全く分からなかった。
今にして思えば、大手企業がその先生に研究依頼をしていて、時々、その先生を赤坂辺りの料亭で接待していたのではないかと思う。
そして、お土産にタイ焼きを渡されるのだが、先生は酔っていて忘れて帰ってきてしまうので、翌日になると芸者さんがそれを届けに来ていたのではないかと想像する。
そんなノンビリした時代であったが、みんな頑張っていたし、輝いていた。あの頃の(私の?)研究が今の日本の技術の基礎を作ったことも間違いない。