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[2008.01.21]
■新大久保のコリアタウンで昔を思う
新大久保は今ではコリア・タウンと呼ばれている。 
職安通りの両側と、そこから横に入った道には韓国の店だらけである。 
韓国料理店が一番多いが、その他に韓国スーパーマーケット、韓流スターの店、韓国雑貨、洋品店など韓国の物はなんでも買える。 
 
韓国好きの日本人や在日朝鮮人だけを相手にしているのではなく、韓国から日本へビジネスでやって来て住んでいる人達がお客のようだ。 
店の中では日本語より韓国語の方が幅を利かせている。それだけ日本で韓国の存在感が増したのだろう。 
 



ある日、家族で新大久保へ韓国料理を食べに行った。正しくは朝鮮料理だと思う。 
私の子供の頃は『朝鮮料理なんて普通の家の人が食べるものじゃない』と言われていた。 
 
だから私は大人になるまで韓国料理は食べたことがなかった。それでも朝鮮人が嫌いというわけではなく、父親が朝鮮人の面倒を見ていたので、なんとなく在日朝鮮人のことは子供の頃から知っていた。 
 
その頃の話である。私の父の知り合いの朝鮮人のKさんは南の出身で、屑屋をやっていた。 
父の経営する工場からくず鉄を買って行き、それを問屋に売って生活していた。 
それでお金を儲けてパチンコ屋を始めた。 
 
ある時、暴力団と諍いがあって、彼は店の中で拳銃を発射した。それで警察に捕まり刑務所行きとなった。 
残された家族は生活に困っていたらしく、刑務所の中のKさんから私の父に手紙が来て、『家族が生活に困っているので、面倒を見てくれ』と書いてあった。 
 
父親はその家族をKさんが出所するまで面倒を見たようだった。出所したKさんはその後、中華料理店を始めて成功したが、父が亡くなった後もしばらくは父の命日には我が家に来て仏壇にお線香を上げていたのを覚えている。 
 
コリア・タウンで家族と食事をしながら、そんなことを思い出した。 
私は父ほど面倒見は良くないなー。それとも時代が変わったのかなー。 
 
その日に食べたメニュー。 
スンドゥブチゲ、ケランチム、チヂミ、キムパプ、海鮮チゲ、キムチ。 
皆さんは、この中でいくつ判りますか? 
コリアタウンではいまや焼き肉は主流派ではない。通は焼き肉は食べないのである。 
 
(おまけの話) 
韓国に初めて行ったのは、今から25年ほど前のことだった。それまでも行く機会は何度もあったが、なんとなく行きたくなくて行かなかった。 
その理由は韓国人の日本嫌いが大きかった。 
 
友人のIさんが韓国切手の収集家で、韓国切手では韓国人を差し置いて世界で一番のコレクターだった。 
そのIさんに誘われて行ったのが最初の韓国経験である。 
ソウルでは現地のコレクターの船舶会社の社長に誘われて夕食に行った。かなり高級な店で焼き肉を食べた。 
日本の焼き肉と違ってブルコギだった。 
ジンギスカン鍋のようなものに味付きのコマ切れの牛肉を乗せて、野菜と混ぜて焼く。 
汁が鍋を伝わって鍋の縁の溝に溜る。 
肉が終った頃を見計らって、その社長は私に『その肉汁にご飯を入れて混ぜて食べると美味しいからやってみろ』と言った。 
 
 
でもその肉汁はギトギトとしているし、見た目にも汚く見える。私の感覚では食べられない。 
仕方ないので食べる振りだけしたが、あの時は本当に参った。それ以来、ブルコギは殆ど食べていない。 
 
そのIさんもバブルの崩壊で事業が駄目になり、今では所在も分らなくなった。 
その他にも個人的に親しくしていた友人が4人ほど、バブル崩壊の影響で自ら命を絶ったり、行方が判らなくなっている。 
25年という年月は1人の人の人生を大きく変えるに十分過ぎる時間のようだ。 
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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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