■鶴見俊輔「思い出袋」
今年亡くなられた哲学者 鶴見俊輔氏に「思い出袋」(岩波新書)という著書がある。中に大山巌(おおやま いわお)について述べた一節があり、目に留まったので紹介させていただく。 *大山巌は西郷隆盛のいとこにあたる。1863年の薩英戦争の直後から砲術を研究し、1869年にはヨーロッパにわたって、普仏戦争の実情をみた。1871年、ふたたびヨーロッパにわたり、スイスに住んでフランス語と砲術をまなんだ。そのとき、フランス語の個人教師に雇いいれたのがメーチニコフ(1838~88)だった。
ところがスイス政府からしらせがきて、あなたの雇いいれた個人教師はロシア政府のおたずねものである。あなたは日本政府の高官ときくが、あなたの不利益とならないか。
大山は答えた。自分はかつて日本政府のおたずねものだった。自分たちの仲間が政権をとったので、自分は今は政府の高官である。外国語教師として頼んだこのロシア人の仲間がやがて政権の座につかないと誰が言えよう。
葬儀の席で隣りあわせた古在由重にきいてみた。
「古在さんは、子どものときに大山元帥に抱かれたことがあるそうですね。」
すると「ほんとうはもっとおもしろいんだ。沼津の裏山で小学生のぼくがひとりで遊んでいると、向こうからふとった人が歩いてきた。写真で見たことがある大山元帥だと思って、おじぎをした。すると、大山さんも立ち止まって、きちんとおじぎを返した。他に見ている人が誰もいないのに。」
維新を通った人には革命精神があるというのが、大山巌についての古在由重の評価だった。
メーチニコフ著「回想の明治維新」(渡辺雅司訳、岩波文庫、1987年)とあわせて思い出された。
満州派遣軍 総司令官の大山巌は、総参謀長の児玉源太郎に仕事をさせた人として私の記憶に残っている。大冊の大山伝の中に、息子の回想がのっていて、彼がおそるおそる「総司令官て何をするのですか」とたずねると、「知っていることでも、知らんようにきくことよ」という答えが返ってきたという。
児玉源太郎は、同時代の世界史でくらべようのないすぐれた軍人だった。19世紀のナポレオン、20世紀のヒットラーが負けたロシアを相手に、児玉が指揮した日本は負けなかった。それは児玉が、どういう世界状況の中で日本がロシアと戦うかについての見通しをもっていたからだ。
ヨーロッパ留学の経験もなく、幕末からの変転する状況の中で、状況を読みつづけた児玉には、後代の軍人、そして官僚の、学習による知識とはちがう知恵があった。
その時の頂点にある先進国の知識を最短期間に学習するという日露戦争終結後の日本の学校教育とは、一味ちがう判断力が児玉にはあった。それを受けいれた大山も、世界の状況から汲みとる力をそなえる同時代人だった。*
児玉源太郎は幕末の長州で多難な少年時代を過ごした。明治10年の西南戦争のときには、同じ長州出身の乃木希典と共に西郷軍と戦った。
日本陸軍がドイツの至宝といわれたメッケル少佐を招聘して軍事学を学ぶ頃は、もう大佐で学校長を務めていたが、メッケルの教えを学生たちと一緒に学んだ。メッケルの印象の中でも、児玉には「一を教えて十を知る」ような異才を感じたようだ。
児玉源太郎は、満州でのロシアとの戦いの心労がたたり、日露戦争が終わった翌年に亡くなる。「日露戦争遂行のために天が日本に遣わした男」とも云われた。
大山巌は薩摩型将領の代表の一人ともいえる大きな人物だった。西郷隆盛はもちろん、隆盛の弟の西郷従道もまた大きな人物で、海軍大臣の頃には部下であった山本権兵衛に海軍建設の大綱を任せた。西郷兄弟、そのいとこの大山巌といっしょの鹿児島の加冶屋町に育った東郷平八郎もまた、日露戦争のときに部下に任すという薩摩型将領の形を実践した人だ。作戦については参謀の秋山真之にすべて任せて、自身は連合艦隊の統率というところに徹した。頭脳の部分は秋山に任せ、東郷は心の部分を受け持った。
どうもこの鹿児島の加冶屋町というところは異能の人を多く輩出した特異な町に思う。
◆挿絵について 「カリジェと安野光雅展1992」絵本の中の「グアルダ」を習作
(2015-9-9記)