■象潟のこと
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で象潟(きさかた)を訪れたのは、元禄二年(1689)だった。芭蕉が来たこのときの象潟は、「東の松島 西の象潟」といわれる景勝の地であった。
芭蕉はここで、
象潟や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花
と詠んだ。
大意は、
ねむの葉が夜や雨のときに閉じるところから、「ねぶの花」に「ねぶる(眠る)」をかけている。「西施」は、中国の春秋時代、越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)に献じた美女で、胸を病み、苦しげに眉(まゆ)をひそめる姿の美しさで有名。前の文に「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」とあるが、雨中のねむの花に西施のイメージを重ね、それがさらに雨に煙る象潟の風景全体の象徴になっている。季語は「ねぶの花」で、季は夏。(学研全訳古語辞典から引用)
司馬遼太郎「街道をゆく」29巻からこのときのことを引用させていただくと、
*(前略)くりかえすが、芭蕉は海であったころにこの地にきた。
入江は大きくて、場所によれば縦横一里ばかりあったという。他の本によると、島の数は九十九だったというが、おそらく形容であって正確な数字ではあるまい。象潟九十九島(つくもじま)などともいわれた。
それにしても、タテ・ヨコ一里の入江にたくさんの島が浮かんでいたというのは奇勝だったにちがいない。それがいま大地が盛り上がって、田園のなかに散在している。これも妙趣というほかない。
じつは、芭蕉がこの地を去ってから百十五年後の文化元年(1804)6月4日、大地が盛り上がってしまったのである。
当時、象潟地震といわれた。局地的な大地震で、その結果、象潟の海の底が2.4メートルも隆起し、陸地になった。当座は、むざんな沼沢地だったらしい。
象潟は、東南に鳥海山を背負っている。
ずっしりと神鎮(かみしず)まるような巨峰で、いまは煙こそ噴いていないが、活発な火山だった。平安時代にはさかんに大噴火をおこし、噴火するたびにその怒りをなだめるために朝廷から位階があたえられ、天慶二年(939)の爆発のときには正二位にまでのぼってしまった。そういう時代よりずっとむかしの火山活動のとき、流れ出た溶岩流が日本海まで押しよせ、やがて冷え、海食によって点々と九十九島が形成されたといわれる。ところで、象潟地震の三年前の享和元年(1801)にも大爆発があった。そのとき山体のなかに新山(享和岳)ができたのだが、文化元年の象潟の隆起は享和元年の鳥海山活動と関係があったのだろうか。私にはわからない。
ともかくも象潟は漢文風にいえば、
滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)になったのである。*
芭蕉が象潟を訪れたかったには、かつて西行や能因法師がこの地を訪ねていることがあった。彼らも慕った景勝の地を自分でも見てみたいという思いがあった。
西行が詠んだ歌
象潟や桜の波にうづもれて花の上こぐあまの釣舟
この人らしく桜の時期に訪れて、少し大仰ながら鳥のように俯瞰する絵画的情景に歌っている。
西行よりももっと前の時代にここを訪れた能因法師が詠んだ歌
世の中はかくても経けり蚶方(きさかた;象潟の古い表記)の海士の苫屋をわが宿にして
古代に鳥海山の山体崩壊で海に突入して出来た流山地形が象潟の九十九島といわれる、東の松島と並び評される美しい景観を作った。
わたしは鳥海山も象潟もまだ実見したことがないが、このような文を読むと一度現地を訪れてみたいと思う。現在の象潟は土地が隆起したため芭蕉が訪ねた頃のような海に浮かぶ九十九島という風情ではないが、田に水が張られる季節になると、その水面に島影が映り、あたかも往時の一面を感じることもあるそうだ。
鳥海山は、荒ぶれる山として畏れられ、崇められ朝廷からも位階を授けられる神の山とされた。古来世界中の多くの火山は神宿ると信仰されてきている。人間の力ではどうしよもない自然の力――噴火での溶岩の流れ、噴石、火山灰、火砕流などや火山活動での山体崩壊、地殻変動での大きな山容変化などは神の荒れる姿であり、人智ではいかんともし難くその前ではただただ畏れ、鎮まってくれることを願うしかなかったのだろう。
昨年の御嶽山の噴火以来、日本列島では火山活動が活発である。箱根山、浅間山、口永良部島、十勝岳、そして最近では鹿児島の桜島が火山活動を活発化させている。4年前の東日本大震災の影響が出ているのか?長い時間軸で見れば、このくらいの火山活動の活発さは過去にもあったので、特別なことではないという意見もある。
日本の美しい景色の多くーー海岸線、山、湖などは太古からの火山活動で作られたものが多い。一方で日本では太古から火山活動や地震、津波などで多くの被害を受けてきている。
何度も何度も災害を受けながら、一方で美しい景色に慰められてきている歴史がある。
あたりまえのことではあるが、現在わたしたちが見ている景色が太古からずうっと続いてきたわけではない。地球の火山活動が過去から現在にかけていろいろ働いて今の姿がある。
例えば、別荘地として有名な軽井沢も太古には浅間山の噴火でせき止められた川が湖を作っていた。その後湖から噴火して火砕流が湖を覆って平坦な土地が出来たのが、現在の軽井沢の平地だそうだ。草原であったこの平地は、明治になって外国人宣教師が避暑地として過ごしやすい場所だということで多く移り住んだ。その後別荘地の開発が進み、植林がされて、いまの大きな木の多い街並みが作られていった。この噴火の時に出来たテーブル状の溶岩ドームが離山(はなれやま)で軽井沢のアクセントになっている。離山の山頂に立てば浅間山が目の前に見える。
利尻島も火山としての多様性をたくさん見ることができる。太古には現在の高くそびえる利尻山はなく、礼文島と同じようになだらかな地形の島であった。約4万年前にピークを迎えた火山活動によって利尻山は生まれた。稚内からのフェリーが鴛泊港に入るときに見える、ペシ岬、夕日ケ丘、ポンモシリ島は溶岩ドームである。西海岸に見られるテュムラスという柱が縦に並んだ岩は、大雪山の層雲峡で有名な柱状節理である。沓形から仙法志にいたる海岸線の奇岩は約7000年前頃海水面が上昇したときに、波に削られてできた作品だ。地下で熱いマグマが水と接して起こるマグマ水蒸気爆発でできた浅い皿状の地形をマール地形と云うが、そこに水がたまりオタドマリ沼や沼浦湿原となった。仙法志ポン山という小さな富士山型の山は、スコリア丘といって、黒っぽい軽石を一気に吹き上げて出来た山である。阿蘇の米塚や伊豆半島の大室山が有名である。
利尻島の周りには火山群がなく独立している。そのような島で多様な火山の活動の結果が見られるのは他に例がないそうだ。(JR北海道 車内誌8月号から抜粋)
小笠原諸島の無人島西之島が、いま活発な火山活動を続けて陸地面積が増えていっている。
NHKの番組によると、先日調査隊が近くまで行き、いろいろと調査したそうだ。無人機で溶岩片を採集して調べたら比較的比重の軽い安山岩で出来ていたので、これから島を形成していく可能性が大であるとのことだ。遠い将来、西之島にも利尻山のようなりっぱな山が出来るかもしれない。
(2015-9-3記)