■アリストファネスの話
北海道の新聞やテレビで時々、札幌市のLGBT(性的マイノリティの方)への支援のニュースが報道される。
「札幌市では、互いの個性や多様性を認め合い、誰もが生きがいと誇りをもつことができるまちの実現を目指し、札幌市LGBTフレンドリー指標制度を開始」
として、企業などにLGBTについての啓発、福利厚生、配慮などの取り組み推進を呼びかけている。日本の自治体の中には、既にそのような取り組みをしているところもあるが、政令指定都市としては札幌市が初めてになるそうだ。
時々にこれらニュースに接すると、下記の話を思い出す。
*アガトンの家の饗宴に臨んで、洒落者アリストファネスのした卓上演説は、不思議に俺の頭に忘れ難い印象を残している。彼の説に従えば、その昔人間には「男」と「女」と「男女」との三種類があった。彼らは腹背両面にその「性」の機関を持った円い存在であった。彼らは甚だ強かった。彼らはその力を恃んで「天」を征服することを企てた。諸神は、これを知って大いに驚き、彼らの驕慢を罰するがために、人間を真中から梨子割りにして、その力を分かち、さらに永久にその罪を記憶せしめむがために、その顔を半回転して、その切り割かれたる部分(現今のいわゆる腹)が常にその眼の前に見えるようにした。
この如くにして、二分せられたる人はその半身を求めて哀泣し彷徨した。たまたま相邂逅すれば緊く相抱擁して、いつまでも離れることを欲しなかった。そのために彼らは遂に、飢餓と運動不足とのために相ついで死亡した。
ツオイスはこれを見て憐みを垂れ、従来背部に残っていた性の機関を前に移して、抱擁は繁殖を来たし、少なくとも一つになることによりて、相互の慰藉を得るようにしてやった。人間の恋愛は分かたれたる半身を求むるの憧憬である。
男が女を求め、女が男を慕うは即ち前世に「男女」であったものである。女が女を、男が男を求めるのは即ち前世に「女」または「男」であった者の半身である。彼を自然とし此を不自然とするは論者の誤謬である。いずれにしてもその半身を求める憧憬に二致がないから――*
阿部次郎著「三太郎の日記」の「影の人」という章の中から引用した。
原本で、旧かなづかいや旧漢字の部分は、現代表記にさせていただいた。
「アガトンの家の饗宴」とは、紀元前416年頃、アテネの教養人たちが開いた宴で、愛の神エロスについて各人がいろいろと説を述べた。プラトンがそれらを戯曲にまとめた。アガトンはその時代の若き詩人で、アリストファネスは、喜劇作家・風刺詩人。その他にはソクラテスやプラトンも出席しているが、アリストファネスのこの話が想像力豊かで寓意に富み、人々に人間とか愛について示唆したように思われる。
「三太郎の日記」は、旧制高校生の愛読書として知られ、デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学書に入る前の入門書的位置づけの読み物だったのだろうか。
難解である。難しい漢字がいっぱい並び、自然とか人間とか歴史などについて難しく述べられている。学生時代にちょっと目を通したが、難解な読み物だと思った。でも、わたしの何回かの引っ越しに耐えて書架に残ったので、いまも目にすることができる。
分からないなりに読んでいた中で、「別れの時」、「年少の諸友の前に」、「沈潜のこころ」、「人と天才と」、「聖フランシスとステンダール」などの章が「いいな」と思った。
サラリーマン時代の後半、仕事で富士山の裾野にある事業所に出かけることが多かった。或る日、知り合いでもあったそこの副所長さんに異動が決まり、所員の皆さんを前に最後の挨拶をされていた。その話の中に「三太郎の日記」の「別れの時」のことが引用されていた。たまたまその場にいたので聞いたのだが、妙に懐かしい感じがしたことを覚えている。もう10数年前の話である。
(2018-1-2記)