■山陰の旅
学生時代のクラブの同期会が山陰地方であり出かけた。わたしは鳥取や島根に行くのは初めての体験であった。山陰の古くからの温泉である三朝(みささ)温泉(鳥取)と玉造温泉(島根)にゆっくり浸かりながらの旅であった。
印象に残るのは、あちこちから見る大山(だいせん)の姿である。伯耆富士ともよばれる山は西側から見ると、富士山型のおとなしい姿をしているが、北側、南側からは崩落の進む荒々しい急峻な壁の姿を見せている。昔から山岳信仰の盛んな山で、中腹の大山寺とその奥に控える大神山神社奥の院へは大きな杉木立の階段道を登っていく。ここでは戦国時代には、寺領を守るために多くの僧兵を抱えて、その勢力を誇示していたときもあった。
今回、麓から大山寺を経て、大神山神社奥の院まで階段を上って歩いたが、まわりは太い杉の木があり、いかにも神域という雰囲気で、山の気を感じられた。奥の院の社は、木材の色が枯れて古格な感じがよく出ていた。ここからは、わずかながら木立の奥に大山の北壁の急峻な姿も見えて、山自体を祀る神社であることがうかがえる。
下って、駐車場のある大山自然歴史館のあたりから振り返ると、大山の急峻な北壁が大きく見えた。
初日に京都を出発して、宮津、豊岡を経て鳥取砂丘に寄った。わたしは初めて砂丘というものを見た。細かい細かい砂粒が丘を成していた。その向こうの日本海が青々として風景としてはとても美しく感じた。砂の美術館というところも見学したが、砂に水を加えて突き固めた巨大なブロックから削り出された彫刻の数々が展示されていた。毎年テーマが変わるとのことで、今年は北欧の物語がテーマとなっていた。音楽家グリーグとペール・ギュント、サンタクロース、アルフレッド・ノーベルとノーベル賞、フィヨルドの風景、トロルと北欧の森、アンデルセンのマッチ売りの少女、コペンハーゲンの人魚姫、ヴァイキングなどなどの砂の像が20以上並べられていて、なかなかの迫力だった。
この日の目的地は、鳥取の三朝温泉だが、途中山側に入り、鹿野町というところを通った。「山中鹿之助の墓」という表示が通る道の脇にあった。「このあたりは山中鹿之助ゆかりの地」なのかと記憶に残り、旅行から戻ってから「山中鹿之助」について調べてみた。
戦国時代にこのあたりの一大勢力だった尼子氏の家臣であったが、尼子氏滅亡の後、その再興に命を懸けた武人の中の武人といえる男だった。後年、江戸時代、明治時代に講談で語り継がれた英雄で、日本人好みの男である。
勝海舟が語ったところでは、
「ここ数百年の歴史を遡って見ても、本当に逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿之助と大石良雄だろう」
頼山陽は、
「勇名をはせた幸盛(鹿之助)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟(きりん)である」
とその品格を讃えている。この場合の麒麟とは、才能と徳の備わった極めて優秀な人という意味であろう。とにかく強い人だったようだ。毛利勢との度重なる戦いでも、大いに奮戦して、一騎打ちで何人もの武将をたおした。また負け戦では殿(しんがり)をつとめ、味方を安全に退かせることも度々であった。武芸、戦術、調略にたけて、また徳もあわせもち、信長や秀吉からも愛された男だった。結局彼一人では尼子家の再興は図れなかったが、のちに彼の意を受けた亀井玆矩(かめいこれのり、1557~1612)は因幡の鹿野城城主となり、鹿之助の率いた尼子浪人たちを召し抱えた。亀井玆矩は若いころから山中鹿之助の、いわば門弟、あるいは同志のような存在だった。鹿之助の妻は出雲亀井氏の出であった。二人には娘があり、ちょうど年頃になっていて、鹿之助の勧めでこの娘を玆矩が娶った。さらに鹿之助の勧めで亀井の名跡を継いで、亀井玆矩ができあがる。
かつて秀吉の中国毛利攻めの時に、山中鹿之助は最前線の西播州上月城を守ったが、毛利勢の猛攻の前に落ちた。当時織田軍は各所で戦いを展開していて、その一武将であった秀吉は、信長からの命もあり、大戦略の下で上月城を犠牲にせざるをえなかった。鹿之助の奮戦ぶり、その功を思うと秀吉はこのことがよほど悔しかったのだろう。それが無名の牢人だった亀井玆矩に小さいながらも因幡の大名にあてたことにつながる。秀吉に属して、数年で大名になるなど、大名が乱造されたこの時代でも珍しい。このことは山中鹿之助の盛名と多年の労が、玆矩という思わぬ若木に継木されたうえでの果実だろう。さらには、秀吉としては、尼子遺臣団への敬意という要素を含めたのかもしれない。(この項は、「街道をゆく27」司馬遼太郎による)
安来(やすぎ)市の山里に足立美術館がある。周りを低い山々に囲まれた田園風景の中に、大きな駐車場や、おみやげ屋の店舗、そして美術館の本体の建物が居並ぶ。ここは、日本有数の日本庭園を有する美術館として海外にもその名がとどろいている。枯山水の庭、苔庭、額絵を思わせる木・芝生・岩の配置、白砂青松の庭、池のある庭などの日本庭園の美しい姿が続く。館内では、収蔵品の横山大観の日本画を中心とした美術品の展示がある。美術館と庭園美が一体となった場所として知られている。
このようなきれいな庭園を維持するためには、陰でどれほど多くの方々が手入れをされているだろう。また美術館の企画や運営に関わる方、美術品の搬入・搬出、レストランや喫茶コーナーに関わる方、おみやげやさんなど多くの雇用がここに生み出されているだろう。地方の活性化の一つを見る思いがする。山間の何もない地域であるが、このような日本一の庭園と美術館が世界中から多くの観光客をこの地に運んでいる。大きな特徴があれば、山間地にもお客様は飛び込んで来てくれる。美しい庭園の借景として奥に山並みが見える。庭と一体となって自然の奥行きを感じさせてくれている。つまらぬ心配をしたのだが、もしあの山の木々が切り倒されてはげ山にでもなったら、この奥行きのある景色が台無しになる。美術館は山の持ち主と協定を結び、そのような事態にならぬように手を打っているのだろうか。
安来は古来たたら製鉄が盛んなところだった。おそらく古代に朝鮮半島から鉄を作る技術集団がこの地に渡り、豊富な砂鉄や木材から製鉄が盛んになっていったのだろう。
司馬遼太郎さんによれば、
出雲砂鉄が鋼塊のかたちにされて山から海に運び出され、安来港にうかぶ和船に積み込まれて全国に送られた。江戸期、安来の栄は、鉄によるもので、そのにぎわいは安来節の古い歌詞の、
安来千軒 名の出たところ
社日桜に十神山(とがみやま)
に、しのぶことができる。
また、鉄を作るには大量の木が必要だったことが下記の引用からもわかる。
*冶金学の桶谷繁雄氏の「金属と人間の歴史」(講談社刊)によれば、鋼1tを得るためには、砂鉄12t、木炭14tが必要だったという。「・・・昔の人がやったたたら1回で得られる大塊を2tとすれば、砂鉄は24t、木炭は28t必要となる。木炭28tのためには、薪は100t近くを切らねばならなかったに相違ない」とある。すさまじいばかりの森林の消費であり、古代から近世までの製鉄事情としては、東アジアでは森林の復元力がもっとも高い日本列島がいかに適地だったかがわかる*(「街道をゆく7」司馬遼太郎より)
わたしは安来を訪れたのは初めてであったが、サラリーマン時代には安来の日立金属の方との仕事上のつきあいがあった。ファクシミリという装置の開発に携わった時期があった。この装置では、ロール状の紙を切断するために、鋼製のカッターという部品を使う機種があった。このカッターを日立金属が作っていて、その仕様についての技術打ち合わせをこの会社の方と何回か行っている。
安来における砂鉄による製鋼は、明治後もほそぼそと続けられたが、大正期に入ると、この伝統を継承しているのが「安来製鋼所」だけになった。それを大正14年、日立が吸収し、電気製鋼法を導入して、現在の経営形態になっている。これが日立金属安来製作所の始まりだったのだろう。日本古来の鋼の伝統が入ったカッターを使っていたのかもしれない。
玉造温泉に泊まった翌日は、宍道湖(しんじこ)を通り、松江の町に寄った。初めに松江城を見学に出かける。城内の急な階段を上って天守閣の階まで上がると、松江の町の四方がよく見える。城の周りには堀がめぐらされ、いまでも豊かな水をたたえている。観光の屋形船が行きかい、船頭さんのガイドの声が、道を歩くわたしたちにも聞こえてきた。城の周りの緑豊かな公園も散策するのによい。地方の中都市の落ち着きや緑の木々と街並みの調和がいい町だと思った。この町にゆかりの人は、小泉八雲であり、この人の記念館に寄った。
小泉八雲(こいずみ やくも、出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン、1850~1904)は、ギリシャ生まれで、日本国籍を得て、この日本名を名乗る。誕生の地のギリシャから、アイルランド、フランス、アメリカ、西インド諸島、日本と浮草のように放浪を重ね、日本の松江で英語教師として教鞭をとり、小泉セツと結婚してこの日本名を名乗るようになった。
ハーンは、明治23年(1890)にアメリカから来日後、島根県の尋常中学校の英語教師として松江に暮らし、出雲地方や日本全国に残る民話や伝説を収集して「怪談」という名作を世に残した。他にも日本や日本人に関する多くの著作があり、明治30年代の欧米において、新渡戸稲造の「武士道」と共に、日本に関わる著作として最も読まれた人といわれる。
小村寿太郎が明治31年に駐米公使として赴任したころ、アメリカではカルフォルニア州の労働者階級で、日本人移民に対する排斥運動が盛んであった。が、一方ではアメリカ知識層の間では、知日気分が盛り上がりつつあった。小泉八雲の日本紹介の著作群は、小村が着任したころアメリカで圧倒的な人気を呼んでおり、
「社交界ではハーンの話題でもちきりだ」と、小村は言い、彼もあわてて買いそろえて読んだし、また新渡戸稲造の英文「武士道」が刊行早々でベストセラーになっていた。アメリカにはそういう層もあった。
小村は終生、小泉八雲の「神国日本」と新渡戸稲造の「武士道」を愛読したといわれる。明治38年にポーツマスで行われたロシアとの終戦交渉に臨むに際し、小泉セツから贈られた八雲の著作を船上で読みふけって感動を得たともいわれる。困難な交渉を前に、自身の心の整理に、これらの著作が染みとおったのだろう。
小泉八雲でいまひとつ思い出すのは、伊藤和明氏の「地震と噴火の日本史」(岩波新書)の中に出てくる「稲むらの火」という話である。
*1854年安政南海地震の際、紀州和歌山藩広村(現在の和歌山県広川町)での実話がモデルとなっている。紀伊半島の西海岸にある広村は、安政南海地震の津波によって、399戸のうち125戸が流失し、36人の死者を出した。
当時この広村に、醤油の製造業を営む浜口儀兵衛という人物がいた。彼は名家の主人として、なにかと村人の面倒を見、自分を犠牲にしてまで村のために尽くしたので、村人からたいへん慕われていた。このとき儀兵衛は三十四歳であった。
大地震のあと、南西の方角から大砲のとどろくような音が聞こえ、大津波が襲ってきた。儀兵衛も多くの村人とともに流されたのだが、八幡神社のある小高い丘にすがりついて助かった。津波の第一波が引いた後、儀兵衛は、まだ下の村に多くの人が残っていることを知り、八幡神社のある丘まで村人を避難させようとした。
しかし地震の起きたのは午後四時頃、一年で最も日没の早い時期だったから、日はやがてとっぷりと暮れ、あたりは真っ暗になっていた。そこで、避難する人びとが道を見失わないよう、若者たちに命じて、道筋にあたる水田の稲むら(稲束)に松明で次々に火をつけさせ、避難路を照らして村人を誘導したのである。
やがて津波の第二波が襲ってきた。この夜、津波は四回にわたって広村を洗ったのだが、儀兵衛の機転によって助かった者は、数を知れなかったという。
この安政南海地震を教訓に、儀兵衛はその後、将来の津波から村を守るために、莫大な私財を投じて大堤防の築造に着手した。四年の歳月をかけて完成した堤防は、高さ4.5m、全長650mに及ぶものだった。しかもこの大堤防は、儀兵衛の遺志のとおり、1946年南海地震による津波に対して、多大な防災効果を発揮したのである。
こうして儀兵衛は、生き神様として崇められるようになった。今も残るその大堤防の上には浜口梧陵(儀兵衛の号)の遺徳をたたえる石碑が建てられている。*
この堤防の海側には、松ノ木が植えられている。成長した大きな松は、堤防の土台にしっかり根を張り土台を補強するとともに、もし大津波が堤防を越えて押し寄せたときに、引き潮にさらわれる人が松に引っかかり助かることへの期待があるそうだ。
さらに浜口梧陵はこの堤防の陸側に、ハゼの木を植えた。将来、この堤防の補修に要する費用を捻出する配慮からだった。ハゼの実からロウソクをとり、補修費に充てようとした。
何とも先々のことまで考えた素晴らしい配慮ではないか!
浜口梧陵のこのような後々への配慮は、人への思いやりにあふれている。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は神戸時代に伝え聞いた浜口梧陵のこの逸話を、後に“A Living God(生ける神)”という短編に著した。さらに子供時代にハーンのこの物語を読んで感銘を受けた中井常蔵は、1934年(昭和9年)に行われた文部省の教材公募に、児童向けに再編したこの話を応募して、入選した。この教科書に載った「稲むらの火」は、場所や年代、人物は脚色されているが、普遍的な物語として構成された。戦前この物語に接した人は、感銘が深かったのか老境に入ってもこの物語を思い出すという。
「稲むらの火」は、2011年度から再び小学校の教科書に復活したと聞く。津波防災の不朽の名作と云われる。
いずれにしてもラフカディオ・ハーン・小泉八雲は日本に大きな足跡を残した人として記憶される。ハーンは松江の緑豊かでしっとりと落ち着いた街並みに日本を感じて、思索を深めたに違いない。
◆参考資料
・「街道をゆく7」、「街道をゆく27」司馬遼太郎
・「坂の上の雲」司馬遼太郎
・「へるん先生の汽車旅行」芦原伸
・「地震と噴火の日本史」伊藤和明
・Wikipedia「山中鹿之助」、「小泉八雲」
(2018-11-10記)