■伊豆大島ジオパークの旅
ジオパーク友の会のメンバーと伊豆大島を訪れた。わたしは伊豆大島は初めてで、見るもの、聞くことすべてが新鮮であった。現地では、伊豆大島ジオパークの活動を推進されている方々に大変お世話になった。伊豆大島の見どころを一緒に巡ってガイドをしていただき、一夕は交流会を催していただいた。地元の食材の手料理―伊勢海老のお刺身、あしたばの天ぷら、くさやの干物、里芋、ゆでピーナッツ、地元焼酎のあしたば茶割りなどをごちそうになりながら歓談のひと時を過ごした。
ご存知のように、伊豆大島は火山からできている火山島であり、いままでにも多くの噴火を繰り返してきている。また、伊豆諸島が大島を盟主として、ここから南に連なっていく。
往路は、東京の竹芝桟橋から夜行のフェリーに乗り、朝に大島の岡田港に着いた。往路のフェリーは時間調整をしながらであろうが、8時間かかったが、復路の高速ジェット船に乗ると、岡田港から竹芝港までが1時間45分で到着した。
高速ジェット船は、加速を続けて一定スピードになると船体が浮き上がり、前後の翼で海上を走行する。海水を噴き出すジェットエンジンで海面から浮き上がる力を受け、翼走する。水中には航空機と同じような翼があり、コンピュータ制御で船体が安定するようにコントロールされている。荒海を時速80kmで走行してもほとんど揺れがないそうだ。確かに帰りの船は揺れが少なく速かった。大島の思い出話をしている間に竹芝に着いた。
洞爺湖が周囲長約50kmで伊豆大島が周囲長50kmとほぼ同じ大きさである。周回道路を利用して、大島マラソンが開かれる。これも周回道路を利用して洞爺湖マラソンが開かれることと同様だ。
伊豆大島をはじめて訪れたわたしには、黒い島だという印象が残った。今回案内していただいたカルデラや三原山、また海岸の溶岩が残る地帯など、どこもが黒い砂、溶岩で覆われていたためだろう。
三原山展望台からは、手前にカルデラのお皿の底があり、その向こうに三原山がガスの中に見え隠れしていた。三原山の山腹には、1986年の噴火で火口から流れ出た溶岩流の跡が黒く幾筋か今でも見えている。今回カルデラの中を歩いて三原山に登り、噴火口ものぞき、裏砂漠という黒いスコリアで覆われた斜面も歩いた。縄状になった溶岩や、溶岩流の断面や、植物が再生してきている現場も見た。噴火後の火山灰地に初めに出てくる植物は、ハチジョウイタドリだそうだ。荒地でも根を深く伸ばして水分や養分を得ることができるためである。その次にハチジョウイタドリに寄り添うように根付くのがススキである。確かに黒い荒地のそこかしこにハチジョウイタドリとススキの小島が出来上がってきている。3番目に根付く灌木の名前は忘れたが、植物に必要な窒素を根瘤菌からもらって育つ木だそうだ。植物の成長戦略を目の当たりにできる場所である。
伊豆大島ジオパークの資料から、太古からのこの島の成立について簡単にふれてみたい。
伊豆大島のあたりには、100万年~数10万年前には、3つの火山があった。3つの火山は活動を終えると、波に削られてだんだんと小さくなる。そして数万年前からすぐ近くの海で新たな火山活動が始まり、何回もの噴火活動が続いて、以前の3つの火山を覆うように新しい火山島(標高1000mくらい)ができていった。
およそ1700年前と1500年前に大きな噴火が起こり、山頂から下300mくらいまでが粉々に吹き飛ばされて、噴出した溶岩の分だけ凹んで、大きなカルデラができた。
1777年の大噴火は、カルデラの中央に小さな山を造り、それが現在の三原山である。
その後は30~40年の周期でカルデラ内に溶岩を流す噴火を繰り返した。
近年の大きな噴火は全島避難が行われた1986年の噴火である。
1980年ころから地磁気の減少などの変化が出てきた。1986年に入ると小規模な地震の群発があり、7月ころには地磁気の急減少、比抵抗値の減少、火山性微動の発生など噴火兆候と考えられる現象が顕著になってきた。11月12日になると三原山火口壁から噴気が始まり、15日17時25分に噴火が始まった。19日には三原山山腹を溶岩が流れ下り、カルデラ床に達した。20日には三原山火口からの溶岩の噴出はほぼ終わり、噴火は爆発的になって、衝撃波による光環現象が頻繁に観察された。21日14時ころからカルデラ北部で地震活動が活発化し、多数の開口割れ目が発見された。16時15分にカルデラ床北部から割れ目噴火が始まった。溶岩噴泉の高さは1000m以上に達し、噴煙高度は1万mを超え、島内東部にスコリア(火山噴出物の一種で、塊状で多孔質のもののうち暗色のもの。主に玄武岩質マグマが地下深部から上昇し、発泡したもの)が大量に降下した。また溶岩流がカルデラ内に流出した。続いて三原山山頂からも噴火が再開し、17時46分にはカルデラ内噴火割れ目の北西延長方向のカルデラ外山腹で噴火が始まり、溶岩流が元町に向けて流下し始めた。
島内北部、西部の住民は島内南部の波浮(はぶ)地区に避難を開始したが、地震活動が南東部に移動するとともに、波浮地区周辺で開口割れ目が発見されたため、再び元町に戻るなど混乱が起きた。最終的には住民全員の島外避難が行われ、帰島は約1か月後になった。
この全島民避難の日の噴火は、対岸の伊豆半島の伊東の町からもよく見えた。地球の巨大な花火ショーのように鮮やかだった。伊東の町の泊り客たちは、「対岸の火事」のごとく見物していたが、そのうちに伊豆大島の方々が続々と避難してこられた。さすがに物見遊山的な気分でいた見物客もこの現実に、「自分たちは酔って見物していた。まことに申し訳なかった」と避難してきた人々に詫びたという。
その後火山活動は鎮静化したが、翌年1987年11月に三原山火口内で大噴火が起きて、火口内を埋めた巨大な溶岩片を火口周辺に吹き飛ばすとともに、火口が30m陥没し、直径約300m、深さ約150mの竪坑状火孔が再現した。
伊豆半島の伊東や稲取と伊豆大島の距離は近い。
伊豆大島の西海岸から眺めると、海上の向こうに伊豆半島の山並みが近い。例えていうと、伊達の辺りから噴火湾越しに渡島半島の山並みを見るのに似ている。
昔から伊豆半島との付き合いが深かったのだろう。
「伊豆の民話」という本の中に“伊豆の国焼き”と云う話が載っている。
*それは遠いむかしのある日――富士の大神さまは、うっとりと下界をながめていらっしゃいました。東海の大海は、かぎりもなく美しくひろびろと、ひろがっていました。
つくづくと、太平洋の海をながめていた大神さまは、この海の中に、国を焼き出したならば、きっと明るいゆたかなよい国ができるだろうとお考えになりました。
富士の大神さまは、火の司神(つかさがみ)でしたので、かたうでをぐっと海の底へつっこんで、土をもちあげますと、土はもくもくともり上がって、中から火をふき出しました。
火は、昼も夜も、あかあかと海をそめつづけました。
その火は、岩や海の泥をやきかためました。海の中に、つき出た国、すなわち出(い)ずの国が焼きあがりました。
「これでよい。」
大神さまは、「出ず」の国のまん中から、ふき出していた火を、ふうっとふいておけしになりました。
そのとき、大きな火の粉がひとつ、ぽんと海の中にとんでおちました。
「火の大神のつくる国は陽国――ここを出ずの国とよぼう」
と、おっしゃって、小さいけれども、とてもよくできた国をおよろこびになり、火の粉のとんだのを消すことを、すっかりおわすれになりました。
富士の火の大神さまの消しわすれた火の粉は、海に中におちてもえつづけました。
今私たちは、そこを伊豆の大島といっています。
大神さまが火をふきけしたあとには、もり上がった天城山塊ができており、その火口(ほぐち)のところには水がたまって池になりました。
池はあおすずの池とよばれ、周囲が八丁あるところから、現在では八丁池とよびならされております。
大神さまが、火の腕をつっこんでつくった伊豆の国は、火の神の腕の熱さを今ものこしていて、そのため、わく水はあたためられて、温泉になりました。
太平洋に「出ず」る国は、湯出ずる国でもありました。
東海のうまし国伊豆半島は、こうして生まれました。――以下には、天竺の王子が来て、伊豆諸島を作っていく話が続く。(後略)*
伊豆大島に来たことのなかったわたしは、「アンコ椿は恋の花」という歌謡曲の歌詞で洗脳されてしまっている。また叙情的な歌曲「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)のイメージが強く、「大島というと波浮の港」に直結する傾向がある。その波浮の港を見てきた。
もともと9世紀の火山の噴火でできた噴火口に水が溜まった火口湖であった。1703年の元禄関東地震の大津波で海とつながり、さらに江戸時代後半の1800年、秋広平六により崖を切り崩し、港口を拡げて船が通行できるように仕立てて、現在の港として完成する。
自然が作った噴火口という周囲が切り立った壁のところの湖に、これまた自然現象の大津波が湖の壁を乗り越えて海とつなげた。その後海との間の通行の妨げとなっていた崖部を人力で取り除いて、船の通行が可能な港が完成した。自然が作った風よけの地形部を人智が加わって良港に仕立てたという自然と人の協同の物語をみる思いがする。
かつては、風待ちの港として遠洋漁業の中継基地としても栄え、その繁栄を物語るように大正期の豪華な建物も残っている。かつての網元の大きな家や旅館での宴会を偲ばせる人形飾りもあった。話は代わるが、川端康成の「伊豆の踊子」の中に出てくる旅芸人の一家は、伊豆大島の波浮の港の出身として描かれている。昔から伊豆大島と伊豆半島の村々が近い関係だったことがうかがえる。
波浮の港町を見学している頃は肌寒かったが、温かいものを2ついただいた。鯛焼きとコロッケである。どちらも波浮の港の名物で、手に暖かさを感じつつおやつとしてみんなでほおばった。
交流会の場での話であった。伊豆大島にはフェリーが着岸する港が2つある。北部の岡田港と西部の元町港である。その日の気象状況(風や波の高さなど)によって、このどちらの港に着岸するのかが決まるとのことだ。旅行者からすると、着岸する港が直前まで決まらないということは、その後の旅程(バスやレンタカーの手配など)に影響が出るので、困ることだと思った。ところが島の人からすると、「どちらの港でも、とにかく着いてくれることがありがたい。せっかく島まで来て、着岸できずに引き返されることの方が困る。」
例えば、岡田港から出港して車をそこの港に置いてきた。帰りが元町港になって、バスで岡田港まで車を取りに行っても、着いてくれればありがたい。
冬場に海が荒れて、数日間フェリーが欠航することもあるそうだ。そんなときは葉物野菜などの生鮮食料品が途絶えることもある。また伊豆諸島の他の島の人からは、「大島は2つの港があるからうらやましい。わたしらの島は1つだ。大島はどちらかの港に船が着けるだろう。」といわれることもあるそうだ。
この感覚は、島に住んだ人でなければ分からない。
昔、船が着岸に苦労していることを表した紀行文があった。林芙美子の「大島行」(昭和8年刊の選集に載っているので、それ以前の話である)
*思い立った旅ながら船出した昨夜から今朝にかけて、風雨激しく、まぢかく大島の火の山が見えていながら上陸が中々困難でした。本当は、夜明けの5時頃にはもう上陸が出来るはずなのに、10時頃までも風力の激しい甲板の上に立って、只ぢっと島裾を噛んで行く、白い波煙を見ているより仕方もありませんでした。(中略)
上陸出来たのが昼近かくで、雨はあがっていましたが、(後略)*
大島で塩つくりの会社を営む寺田さんに多くの話を伺った。2日目は寺田さん運転の車に乗せていただき、島内を案内していただいた。実際に塩を作っている工場も見せていただき、車中でも塩についての話を聞かせていただいた。
そもそも人類と塩との関係、世界の塩、昔からの塩つくり、戦後の塩の専売制、専売制を切り崩して昔ながらの塩つくりへの挑戦、工業製品に使われる多量の塩、塩つくりにかける寺田さんの想いなど、おそらく寺田さんの想いを書き綴れば、一冊の本ができるだろう。大島は古来、水の調達には苦労してきた。火山の島で、川がない。降った雨は、火山灰・溶岩台地に浸み込んでしまう。何か所かの湧水地からの水汲みは重労働だった。また降った雨をできるだけ効率的に集める工夫もなされた。大きな木の幹に縄をまわして、幹を伝わる雨の滴を縄に集めて下の桶で受けて貯めた。現在では、島の飲料水は海水から真水を作っているとのことだ。
伊豆大島は昔から文人・画家が訪れて多くの作品を残している。
その中で、大木惇夫(おおき あつお)という詩人の作品を紹介する。
「三原山風景」
三原山、火を噴く山の おどろにも何ぞ静けき、
人の世に事しあるとも 熔石(やけいし)はかかはりもなし、
麓には紅椿咲き 牛の乳しぼる乙女(あんこ)の 唄かなし、南のしらべ、
春日ざしうららうららに 真青(まさを)なる空を仰げば、ゆうゆうと煙たなびき
瞰下(みをろ)せば、磯の岩根に しろじろと波は散るなり。
きのふかも、夜明けの霧に 風早の燈台を見て
あくがれの島に着きにし、そは夢か、はたやうつつか、
けふはしも日は暮れ落ちて はや遠し、驢馬の鈴音、
砂漠には人影もなし、
ただ一路、残る足あと それさへも、風ふきたちて
さうさうと消しもゆきけり。
三原山、火を噴く山の おどろにも何ぞ静けき。
首都圏から近い島なので、多くの観光客、釣り人、マリンスポーツを楽しむ人々が四季を通じて訪れている。高速船を使えば、あっという間に着く。縄文人も住んでいた形跡があるという。古くから人々が住み、火山噴火の災害と戦いながら世代を重ねてきた。溶岩が流れ出た海は豊かな漁場となっただろう。海の向こうの伊豆半島に夕陽が沈む姿は心穏やかになる。南国の樹相がつくるエキゾチシズム、波浮の港町に残る大正ロマンの香りなど伊豆大島の一端を垣間見させていただいた旅だった。
◆参考資料
・日本の民話4 「伊豆の民話」岸なみ編 未来社
・現代紀行文学全集 東日本編 林芙美子「大島行」、 詩歌編 ほるぷ出版
・Wikipedia 「伊豆大島」
・乙女椿(あんこつばき)の挿絵 いただいた古い絵葉書のコピーから模写
・伊豆大島を訪れたのは、2018年11月3日、4日である。
(2018-11-21)