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[2016.04.22]
■八田與一 嘉南大圳を作った男
司馬遼太郎著「街道をゆく40――台湾紀行」を読んでいたら、清々しい日本人に出会った。 
台湾の不毛の大地を美田にしようと実行した人の話である。八田與一(はった よいち)という土木工学者である。 



台湾がまだ日本領であった頃の話である。台湾の西海岸側、嘉義市から台南市までの野は、嘉南平野とよばれる。 
以下、「台湾紀行」から引用させていただく。 
*まことにひろびろとしていて、山が霧で隠れている日など、一望の平野に見え、大陸にきたかと思わせるほどである。が、この大平野は、二十世紀のある時期までは、不毛の大地だった。 
理由は、“渓”とよばれる河川の数が少なすぎることにあった。日本領時代に、八田與一という土木技師がいて、この平野を美田にしようとし、成功した。大正時代のことである。(中略) 
謝新発氏に「忘れられない人」という八田與一伝がある。 
その本のなかに、銅像の写真が出ている。 
銅像でみる八田與一は、あごの丈夫そうな、さらにはひたいの骨の硬そうな風貌をもっている。銅像は、作業ズボンをはき、腰をおろして現場を見つめている。視線のむこうに、かれが台湾人とともにつくった烏山頭(うざんとう)の珊瑚潭(さんごたん)の水がひろがっている。(筆者注:ダム湖が樹枝状の形であることから、珊瑚潭といわれた) 
烏山頭水庫に貯えられた水が、嘉南平野にくばられるのである。その巨大な水利構造について、謝新発氏は、万里の長城以上だという。嘉南平野を縦横にめぐっている水路の長さは16000kmで、万里の長城は巨大とはいえ、ほぼ2700kmでしかない。 
この巨大な水利構造の名は、当時もいまも、 
「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」とよばれている。水の長城といえる。(後略)* 
 
嘉南大圳を作ろうとした発端は、日本統治時代の台湾総督府がこの不毛の地を何とかしたいというところに始まる。 
嘉南平野は水利に乏しく、農作物の用水はもっぱら降雨に頼っていた。この原始的農法を改良して、この地を豊かな耕作地にすることが産業政策上望まれた。調査・研究を重ねて、官田渓、曾文渓流域において大貯水池構造の可能性を発見して、ここを水源にして灌漑に供することができると分かった。 
この全体システムの設計を担当し、後に施工全般のリーダーとなってまとめたのが八田與一であった。 
嘉南大圳全体のイメージというのは概略下図のようのものであると思われる。 
 
工事の概略は、 
1.山奥の曾文渓・濁水渓から水を引くための導水路の建設 
2.これを烏山頭の貯水池まで送るには、途中烏山嶺の山腹を穿って隧道(トンネル)が必要となる。全長3107m、直径8.5mのトンネル工事となる。 
3.烏山頭の堰堤(ダム本体)を作る。堰堤の長さ1350m 
4.ダムの水を嘉南平野にくまなく配水するための給排水路を作る。(総延長16000km) 
これら4つに分けられ、各々の工事を平行に進めることとなった。 
 
この大プロジェクトの進行もすべて順調に推移したわけではなかった。 
・烏山嶺の隧道工事でのガス爆発事故による犠牲者の発生とその対策のための工事の停滞 
・工事中の1923年(大正12年)9月1日に日本の首都圏で起こった関東大震災。この復旧が最優先されるため、台湾での工事予算がとれなくなった。 
などのことは、プロジェクトの中断、また中止をも考える局面も出たが、日程を延ばして予算を獲得することによりなんとか続行できた。 
当時このような大土木事業は日本では未経験であった。 
例えば烏山頭ダムはセミ・ハイドロリック・フィル工法という水締工法を用いるが、当時この技術の先進はアメリカであった。八田たちプロジェクトメンバーはアメリカに出張し、アメリカ土木学会でこの技術について学び、また建設に必要な大型機械スプレッターカー、スチームショベルや資材機材運搬のための機関車、ベルトコンベアーなどの買い付けも行った。 
烏山嶺の隧道工事で與一が参考にしたのは、1918年(大正7年)に着工された東海道線の丹那トンネルの工事であった。全長7804m、16年の歳月を費やし、67人の犠牲者を出す難工事だった。一部シールド工法を採用した。後にシールド工法は関門トンネルでも採用された。與一は烏山嶺隧道でもシールド工法による工事にこだわったが、国内工事での苦闘やアメリカ土木学会での否定的な意見などで断念した。 
 
この大プロジェクトは、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)の10年の歳月と総工費5400万円(現在の金額で2700億円くらいとの換算もある)をかけて完成する。ダムの有効貯水量は1億5000万㎥(ちなみに東京都民の水がめの一つ村山貯水池が約2000万㎥くらいである)であり、この水が嘉南平野に広く配水されることになった。 
この結果嘉南平野では通水3年後、年間米83000トンの増収穫、金額にして米800万円、サツマイモ1150万円、雑作物110万円、合計2000万円余りの価値を生み出した。 
この烏山頭ダムはアメリカ土木学会から高く評価され「八田ダム」と呼ばれて広く世界に紹介された。 
60万の農民たちは八田に深く感謝し記念の銅像をダムの傍らに建てることを申し入れた。與一はこれを強く拒んだが、農民たちの熱意をくんで最終的には了解した。 
1931年(昭和6年)に珊瑚潭のほとりに與一の銅像は据えられた。太平洋戦争の末期、日本中の銅像は、国家による金属回収の命令でほとんどが撤去された。この銅像も供出の運命にあったが、なぜか免れ戦後烏山頭に近い番子田駅の倉庫に放置されているのが見つかった。水利会の人々は元の場所に据え付けたいと願ったが、中華民国の蒋介石が島内から日本色を払拭しようと躍起になっている時代で、それは無理だった。 
蒋経国時代の1981年になって、ようやく與一の像を珊瑚潭のほとりに設置することが実現した。 
 
八田與一は1886年石川県金沢市で生まれる。第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部土木科で学び、卒業後すぐに台湾総督府内務局土木課の技手として就職する。台湾では初代民生長官の後藤新平以来、衛生事業に注力していた。八田もはじめは各市の上下水道の整備に携わる。のちに桃園大圳の水利事業を一任され、これを成功させて高い評価を得た。 
31歳の時に兄の勧めもあり、故郷金沢で開業医を営む米村吉太郎の長女 外代樹(とよき)と結婚する。外代樹は女学校を出たばかりで当時16歳であった。二人は二男六女を授かり、台湾で平穏に暮らしていた。外代樹は結婚後ふるさと金沢に帰ったのはほんの数回であったといわれる。 
八田與一と外代樹の生涯は長いとは云えなかった。 
與一は太平洋戦争中の1942年(昭和17年)、陸軍の徴用でフィリピンの綿作灌漑調査に出かけるため、広島県宇品港から大洋丸に乗った。途中、五島列島で大洋丸はアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され與一は客死する。享年56歳。 
外代樹は日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日に、衣服をあらため簡潔な遺書を子供たちに残し、烏山頭ダムの放水口に身を投じた。享年45歳。 
二人とも先の戦争の犠牲者といえる。 
司馬さんは「台湾紀行」の中でこう述べている。 
*古川勝三氏は、八田與一とともにこのダムをつくった作業員の人たちを探し出しては、談話を採集している。陳登来氏も、そのうちの一人である。十六の年から工事現場で働き、その後、高齢になるまでダムの管理の仕事をしていた。 
以下は、外代樹についての陳登来氏の談である。 
奥さんはね。頭の低い、誰にでも親切な、偉そうなところのない、いい人でした。奥さんが亡くなった時にはね。みんなが悲しんだものでね。私も火葬の時は手伝いましたよ。 
(「台湾を愛した日本人」) 
珊瑚潭の八田與一とその妻外代樹の墓は、疎林で囲まれて、木漏れ日が赤土の上に落ちている。木陰が印象派の風景画のように紫に光っているのである。 
與一の命日は、5月8日である。毎年この日には嘉南農田水利会のひとびとによって、墓前祭がいとなまれているという。* 
 
人が志をもって何ごとかに打ち込む基は、連綿とした人から人への学びのつながりだと思う。もちろん、八田與一の場合も師といわれる人々がいた。 
以下も「台湾紀行」から引用させていただく。 
*八田與一が明治40年(1907)に東大の土木学科に入学したときは、留学帰りだった古市公威(ふるいち きみたけ)教授(1854~1934)がいて、すでに五十代になっていた。 
滞仏中、刻苦勉励している古市に下宿の女主人が同情し、少し休んだらどうか、というと、古市が、「自分が一日休めば、日本が一日遅れる」といったという。パリ時代の古市のノートは同大学土木工学科「古市文庫」に保存されていて、東大名誉教授高橋裕氏の「現代日本土木史」(彰国社)によると、「それらは克明を極め、正確にして緻密」なものだそうである。 
また、八田與一は、まだ四十代の広井勇(ひろい いさみ)教授(1862~1928)にも接したはずである。 
広井は、明治の洋学機関である札幌農学校を卒業した(1881年)。 
そのあとアメリカにわたり、土木技師としてミシシッピ川の工事に従事した。いわば、現場出身といえなくはない。ドイツに留学した後、北海道庁に勤務した。 
小樽港の父というべき存在だった。 
北海道庁の手で、小樽港の築港の設計がはじまるのは、明治19年(1886)からである。かれは設計をし、施工にあたっては、一貫して現場を指揮した。たれよりも早く現場にゆき、たれよりも遅くまで現場に残った。コンクリートをみずから練ったといわれている。 
高橋裕氏によると、小樽港は日本の港湾のなかでもずばぬけた傑作だという。 
明治32年(1899)、広井勇は教授として東大にまねかれ、土木学を講じた。 
「なんのために工学はあるか」 
という哲学的な話をしきりに語ったという。八田與一も聴いたはずである。 
もし工学が唯に人生を煩雑にするのみならば何の意味もない。これによって数日を要するところが数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、それによって得られた時間で静かに人生を思惟し、反省し、神に帰るの余裕を与えることにならなければ、われらの工学には全く意味を見出すことはできない。(「現代日本土木史」) 
工学は、受益者である世の人たちに高度の余裕を生み出させるためにある、という。何やら現代の私どもは広井に対して恥じ入らざるをえない。鉄道をふくめた土木文明の発達のためにかえって忙しくなっており、その上、“過剰土木”によって政界の腐敗さえまねいているのである。 
広井は、法学部出身の官僚的な出世主義をきらった。 
「技術者は、技術を通しての文明の基礎づくりだけを考えよ」 
と、いった。また、 
「設計も大事だが、それ以上に施工と工程管理が大切である」 
ともいった。 
広井は、昭和3年、66歳で亡くなった。札幌農学校の同窓だった内村鑑三(1861~1930)が弔辞を読み、 
「・・・広井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」 
といって、この旧友を“工学的良心”とよんだ。 
八田與一は、この師の影響を多量にうけたはずである。* 
学生時代の與一の独創的発想に広井は注目していた。與一の台湾総督府への就職がきまったとき広井は、 
「日本人と台湾人とをわけ隔てなく付き合うようにして欲しい」 
と助言した。 
 
日本の台湾統治は、1945年の太平洋戦争の敗戦まで51年に及んだ。 
この半世紀にもなる植民地統治の功罪はたくさんあるだろう。 
だが、八田與一の業績は日本人として誇れるものの一つだろう。そして與一と同時代に台湾で活躍した農学博士 磯永吉は「蓬莱米の父」と呼ばれ、品種改良により今でも台湾でよく栽培されている米を作り上げた。また農業技術者の末永仁も台湾の人々から尊敬されている。 
李登輝台湾総統は與一の業績を讃え、ふるさと金沢を訪問した。陳水扁総統、馬英九総統も與一の墓や碑を顕彰している。日本よりもむしろ台湾で慕われている人である。 
 
◆参考資料 
・「街道をゆく40 台湾紀行」司馬遼太郎 
・「百年ダムを造った男 土木技師八田與一の生涯」 
斉藤充功(さいとう みちのり) 時事通信社 
・「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士 広井勇の生涯」 
 高崎哲郎 鹿島出版会 
(2016-3-18記) 
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