■北海道の列車たち1
数年前には、JR北海道では事故が多発して、その安全に対する意識の欠如、隠ぺい体質などが厳しく問われた。最近は、赤字路線の問題で現在の北海道の路線のおよそ半分が廃止検討対象になっている。昔に比べて、地方の過疎化による利用者の減少、自動車の普及、高速道路の延長などで列車から車への転換が進んでいる。
過去には日本のエネルギー供給基地として石炭の発掘と運搬、北洋漁業による魚類の運搬、豊富な野菜や木材の運搬などで北海道の隅々まで鉄道網は敷かれていた。
いまはもう無くなった路線を含めて、広大な北海道を走っていた列車たちを眺めてみたい。
初めは、函館本線の大沼公園付近を走る「SL函館大沼号」。
初めて大沼公園を通ったのは受験で札幌まで行くときだったのだろうか。
学生時代の夏休みにクラブの仲間と大沼公園駅で落ち合って、駒ケ岳に登った。夏の駒ケ岳登山は、陽射しを遮る木々がなく、暑くて途中で下山した記憶がある。大沼公園から見る駒ケ岳は、左側がピクンととんがっていて右に下がって馬の背のような形をしている。伊達に来て噴火湾越しに見る駒ケ岳は富士山型をしていた。この山は見る場所によってえらく形が変わることを知った。
ニセコは学生時代に何度も訪れた懐かしい場所だ。毎年年末に冬合宿でニセコ五色温泉に泊りながら、近くのアンヌプリ、イワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリ、ワイスホルンなどにスキーのツアーに出かけた。10月後半には、冬合宿のための食糧などを荷上げすることと、冬に備えてニセコの地形を覚えるための偵察合宿があった。その他にもニセコは訪れているので、一番多く訪れている場所である。当時、冬は五色温泉まで道は通じていなかったので、途中の見返り坂というところから、スキーにシールを付けて五色温泉まで登っていった。冬合宿最後の日は、狩太(現在ニセコ)駅まで道路をスキーで滑っていった記憶がある。車もほとんど通っていなかったので、そんなこともできたのだろう。
羊蹄山をバックに倶知安と小沢間を走るSL。
「SLニセコ号」は、秋に小樽・蘭越間でイベント列車として活躍してきた。これをけん引した蒸気機関車C11 207号は、現在は東武鉄道に貸与されて、鬼怒川方面を走る「SL大樹」として活躍している。SLには珍しい2つの前照灯を持っているのが特徴だ。これは、霧やカーブの多い日高本線を走ることが多かった時に、対策として取り付けられた。
室蘭本線の有珠と洞爺の間には、“宇宙軒カーブ”と呼ばれる場所がある。鉄道写真を撮る方々にとっては、絶好の撮影ポイントとなるらしい。S字状に蛇行する列車が撮れる。名前の由来は近くにある「宇宙軒」といわれるラーメン屋さんにあるようだ。
最後のブルートレイン「北斗星」がここを通過した時の写真が新聞に載ったので、これを描き起こした。
胆振線は後志(しりべし)の倶知安と胆振(いぶり)の伊達紋別をつないだ線路だった。元々は、京極の脇方鉱山から産する鉄鉱石を運ぶために、倶知安―京極間の鉄路の開設に始まる。太平洋戦争中の昭和16年(1941)10月に、倶知安―伊達紋別間の全区間が開通した。それから3年後に胆振線にとっては最大の出来事と思われる事象が出現した。壮瞥の線路のところに昭和新山が隆起し出したのである。昭和18年の暮れの大きな地震から始まった昭和新山の火山活動は、昭和19年6月の第一回噴火からこの胆振線のそばで活発な噴火と隆起を繰り広げた。線路は隆起で持ち上げられたり、噴石で痛めつけられたりを繰り返した。当時この路線はどうしても止めずに維持していかなければならなかった。それというのも、この沿線で採掘される鉄鉱石を伊達経由で室蘭の製鉄所まで運ばねばならなかった。太平洋戦争末期で南方からの鉄鉱石の輸入は途絶えて、国内産を細々と使わなければならない事情にあった。
このため胆振線は絶対に止めてはならないとの軍の命令のもと、多くの人々が鉄道の維持に従事した。持ち上げられたレールを水平に戻すこと、噴石で痛められたり、火山灰で覆われたり、雨裂でレールの基礎がやられたりした部分を修復したり、交換したりの人力作業が続いた。昭和新山の隆起が著しい箇所では、レールを平らな場所に付け替えることも何度かあった。
戦争中という異常な時代における、火山活動という地球の営みに人間が立ち向かっていった一つの歴史である。
胆振線は、その後鉱山の廃止、木材資源の枯渇、沿線の人口減、自動車の普及などの影響で昭和61年10月31日に67年にわたる運行の歴史を閉じた。この日ディーゼル機関車に5両の客車で編成された「さよなら列車」には、超満員のお客が乗って倶知安を出発し、伊達紋別へ到着した。鉄道ファンらが列車を取り囲み最後の別れを惜しんだ。
かつて江部乙(えべおつ)は、リンゴの町であったが、いまはどうであろうか。
5月後半、滝川や江部乙の辺りは黄色の菜の花畑が一面に広がり、それはそれは見ごたえのある風景となる。そして山側を望むと、雨竜の山、暑寒別の山にはまだ残雪があり、青色と白色とのコントラストの山肌が美しい。
札幌と旭川を結ぶ特急ライラックが、この風景の中を駆け抜けていく。
雨竜沼湿原やその先の暑寒別岳は懐かしい。学生時代に雨竜沼湿原に一泊した後に、南暑寒別岳から暑寒別岳に登り、増毛側に下りた。いま留萌本線の留萌―増毛間は廃線になり、鉄路はなくなったが、増毛は魅力ある町である。
先日、妹背牛のおじの一周忌に出かけた折に一日増毛まで出かけた。雨竜沼の山裾を回って、増毛まで1時間くらいのドライブだ。国稀酒造でお酒をもとめ、遠藤水産で甘えびをもとめ、その日の夕餉のつまみにした。暑寒別川の河口ではサケがたくさん遡上してきていた。光る川の流れに背びれを出して多くのサケが、ちょっとした堰のところを次々とジャンプしていく。生命の健気さを感じるシーンである。
増毛は果物の産地としても知られる。ちょうど、訪れた頃はプルーンの収穫が盛んであった。立ち寄った果樹園の奥さんは、いい人で、われわれ4人に何種類ものプルーンを奨めてくれて、食べ比べさせてくれた。それでいて商売っ気がなくて、われわれが買って帰りたいと云っても、おみやげをいっぱい持たせてくれるだけで、買わせてくれなかった。妹背牛や伊達の話をしたり、いっしょに記念写真を撮ったりして別れた。いままでにこんなにたくさんの種類のプルーンを食べたことはなかった。
札沼線は「石狩圏札幌から当別を経て沼田に至る鉄道」と規定され、全線開通のときは、札幌桑園駅から留萌本線と接する雨竜郡沼田町の石狩沼田駅までを結ぶ路線であった。1972年に赤字路線ということで途中の新十津川駅―石狩沼田駅間が廃止となった。
その後札幌に近い地域では、北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など学校が多数あり、学園都市線の愛称が付けられた。この区間は通学・通勤の人も多く、電化が図られ運転本数も多くなった。一方北海道医療大学駅と新十津川駅間は利用者が少なく、閑散区間となり廃止も検討されている。
この沿線では、ピンネシリ山が近くに望める。砂川の小学校の校歌にも歌われているピンネシリ山は、雨竜・暑寒別山塊の隣りに位置している。わたしも学生時代の秋にピンネシリ山に行ったことがあるので、おそらく札沼線を利用したことがあるだろう。
挿絵にしたのは、浦臼のそばの晩生内(おそきない)駅と札的(さつてき)駅間を走る列車である。
それにしても広大な北海道に、かつては多くの路線があり、多くの列車が走っていた。わたしも学生時代に多くの列車にずいぶんとお世話になった。昔のことを思い出しつつ、その一部を紹介させてもらおうと思う。分量があるので、3回に分けて書き(描き)たいと思う。
◆参考資料
・「鉄道アルバム 北海道の列車」写真集 朝倉政雄著・撮影 北海道新聞社
の写真を参考に絵を起こした。一部、背景や季節、走る列車の種類を変えた。
・ブルートレイン「北斗星」は、ラストランのときに北海道新聞に載った写真から。
・有珠山と胆振線SLの図は、イメージ図。
・Wikipedia 札沼線
(2018-9-30記)