■とかち鹿追ジオパークの旅
今回「とかち鹿追ジオパーク」のうち、然別湖を中心とするエリアを訪れた。北海道の5つのジオパークとこれからジオパークを目指す地区1つ(白滝、三笠、アポイ岳、とかち鹿追、十勝岳、洞爺湖有珠山)のメンバー交流と学習のための集まりであった。総勢70名くらいの多くの方々が集まり、然別周辺の自然の中を歩きながらガイドしていただき、交流を深めた。 わたし自身も然別湖を訪ねるのは初めてであり、特に冬の凍った然別湖を体験できるとあって楽しみにしていたツアーである。
添付資料(巻末に追加2019-3-28)に、然別湖の側から、十勝平野やその先の日高の山並みを鳥瞰する図を付けた。然別の山が降りたあたりから十勝平野は太平洋側の広尾町まで延々と続く。十勝平野の北側で平野の行きついた先が然別の山々となり、更にその奥には、東大雪の山が連なる。
いただいたジオパークのパンフレットやビジターセンターの展示資料などから、この地域の大地の物語をたどってみよう。
1300万年くらい前に、ユーラシアプレートと北米プレートの衝突により、北米プレートが持ち上げられて日高山脈が作られる。逆にいまの十勝平野のあたりは沈み込んだ。
90万年前。まだ然別の山々が無かったころ、北側の十勝三俣で巨大な噴火が起こり、大火砕流が発生して、まだ海や湿原が広がっていた十勝平野のあたりに厚く火山噴出物が積もった。
80万年前。鹿追町の南半分が湿地だった時代に各地から飛んできた火山灰や山から運ばれた土砂によって徐々に平野が形成されていった。
1万年~4万年前には、いまの然別のあたりで火山活動が活発になり、東西ヌプカウシヌプリを始めとする溶岩ドームの山々が誕生した。これらの火山が川をせき止めてできたのが、現在の然別湖といわれている。
鹿追町は、帯広市の北西に位置し、まわりには新得町、音更町、士幌町などがある。人口は5500人。町の基幹産業は農業と酪農で、農業では主に小麦、じゃがいも、ビート、豆類などが生産されている。鹿追町の町名は、アイヌ語の「クテクウシ」(鹿を狩るための柵がある土地)の意訳に由来するとある。
町の沿革は、1858年(安政5年)に松浦武四郎がトカチ内陸を探検して音更の地に入った記録がある。1921年(大正10年)音更村から分村して鹿追村になり、1959年(昭和34年)に鹿追町となる。
鹿追町の全域が「とかち鹿追ジオパーク」となっている。ここのジオパークは、「火山と*凍れ(しばれ)が育む命の物語」ということをメインテーマとしている。
*凍れ(しばれ) しばれは北海道方言で、当てる漢字はない。凍てつく寒さを表現するため「凍れる(しばれる)」と当て字で表現している。
このメインテーマは次の3つのストーリで表されている。
(1)火山を巡るストーリ
1.十勝三俣火砕流露頭
90万年前。まだ然別の山がなかった頃、十勝三俣で巨大な噴火があり、大火砕流が発生した。町の台地のところでこの堆積物を見ることができる。
2.然別火山群
4万年前から1万年前にかけて噴火が繰り返されてきた火山。平野の町の方からその山々が望める。
鹿追町町歌に、
「夫婦山(めおとやま) 希望あらたに 明けわたる 東西・・・」
ここで歌われる夫婦山とは、麓から望める東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの山を指しているのだろう。
3.岩塊斜面
噴火によって地表に出たマグマは急激に冷えて割れながら斜面を下った。ごつごつした岩がいっぱい集まっている斜面。千畳崩れという名前がついた場所がある。
4.然別湖
一連の火山活動によって川がせき止められた火山せきとめ湖である。標高800mにあり、冬場は厚く凍って湖上を歩くことができる。
(2)しばれを巡るストーリ
1.美蔓(びまん)台地
十勝三俣の火砕流のあと、浅い海と湿地の時代を経て、少しずつ隆起して高台が形成される。周氷河地形のひとつである、なだらかな丘陵地帯が続く。
2.インボリューション
最終氷期と呼ばれる時代に、土が凍結と融解を繰り返してできたゆがんだ地層が見ることができる。
3.風穴
岩塊斜面のすき間を冷気が循環することによって氷が溜まり、その下の土が冷やされて夏でも溶けない永久凍土ができた。ここの風穴地形は日本最大級で、北極圏にも似た森を作り出している。
(3)生命を感じるストーリ
1.広大な畑作地帯
日本の食糧基地「十勝平野」。その一端を担う広大な農地が広がる。火砕流と河川の扇状地作用によって緩やかで水はけのよい農地が形成され、そこからは美味しい野菜や牛乳が生産される。
2.風穴の生態系
冷えた風穴の周辺で、氷河期の遺存種(過去において栄えて
いたが、その後に衰微し,現在わずかにある地域に生残っている生物)を見ることができる。氷河期の海面低下で大陸から移った動植物が地球温暖化で高山に追われた。エゾナキウサギや高山植物などがこれにあたる。
3.然別湖の生態系
火山によって陸封され、独自の進化を遂げたミヤベイワナの存在など、寒冷だった北海道の面影を今に残すタイムカプセルのような場所である。
今回のジオパークの自然体験では、まず、然別湖そばのネイチャーセンター裏手の森の中を、スノーシューをつけて1時間くらい散策した。
ネイチャーガイドの松本さんが歩きながらいろいろ
と森の中のことを説明してくれた。雪の上に、細い
トドマツの葉がたくさん落ちている。よく見ると、
その葉の部分はギザギザと小さな歯でかじられた
跡がある。森のモモンガの食痕だそうだ。
このかじられた葉が雪の上に多く落ちている
場所は、モモンガは出没する確率が高いとのこと。
森の中を歩いていると木に大きな穴が開いているものがある。クマゲラがつついた跡である。新しくはないので、以前につついたものであろう。
エゾフクロウもいるらしい。松本さんが、以前星を見るために、白樺峠まで来た。車を降りて星の観察をしていた時、突然松本さんの頭をめがけて飛んできた大きなものがあった。お互いに“ウワー!”という感じだったが、エゾフクロウが何を勘違いしたのか、松本さんの頭に止まろうとしたようだ。エゾフクロウも気づいて、すぐに飛び去り、道路標識の上に止まったとのこと。松本さんが自然と一体になって、立木かなにかと勘違いされたのかもしれない。
ナキウサギは今回見て回ったところにはいない。岩塊斜面のような岩の多いところに生息している。氷河期が終わり、海面上昇で大陸と北海道が分断されて、帰れなくなった動物で、北海道の山地の岩の多いところで生息している。手のひらサイズで、一見ハムスターのようだが、ウサギ科の可愛い動物である。学生時代トムラウシ山の岩場で鳴き声を聞いたり、姿をみた覚えがある。
森のツアーが終わったあとは、冬場に然別湖が凍結している間に登場する“然別コタン”のイグルー巡りを行った。催し物もできる大きな会場。体験お泊りできる小サイズのホテルイグルー。チャーチや露天風呂、星空見物用の屋根の抜けたイグルーなどいっぱいある。12月後半あたりから、町の方々が雪を固めたブロックや湖の澄んだ氷を切り出したブロックを積み上げて、これらの建物つくりを行うそうだ。これは大変なエネルギーである。
昭和52年刊の「鹿追町史」の中に、明治のころのこのあたりのアイヌの人との交流などが描かれている。
*(前略)また瓜幕市街の古老菊地政喜は、瓜幕・笹川方面のアイヌについて次のように語った。
「私は明治44年に笹川の東郷農場に、父母とともに入植、小学校1年に入学した。その頃の私の家では豆腐の製造販売をしており、西瓜幕方面まで売り歩いたものだが、瓜幕橋と今の道道との中間あたりに、アイヌの人の通る小路があった。当時アイヌの人の道路としては国道級のもので、アイヌの人達は、この道を通って然別湖や然別峡方面に出かけ、漁猟に親しんでいたようだ。この小路は今でもその跡を見ることができる。
私の家の隣にアイヌの人の、いわゆる“チセ”(家)が二軒あった。これらの家は漁猟に出かける同族者たちの宿泊所になっており、一戸は夫婦者、一戸は独身の男所帯であった。彼らは非常に温厚で疑うことをせず、義理がたく、物々交換のときなど、獣や鳥の肉や毛皮、あるいは籠やロープなど、必ず多少にかかわらず約束の数よりも多く“オマケ”をしていたものだった。オショロコマ採取の網引きにも頼まれて行ったことがあるが、賃金は現物(オショロコマ)だった。(中略)
また彼らの鹿を捕る方法がおもしろい。二又のついた木の先端を削って尖らし、これを沢巾いっぱいに立て並べ、これに鹿を追い込むと、この二又の矢来を飛び越えようとして、矢来の頂上にかかり、もがいているところを捕かくするという方法だった」
と、これは今まで聴いたことのない話で、興味深いものだが、そもそも「鹿追」の語源はクテクウシといい、クテクウシとは矢来をめぐらして、これに鹿を追い込んで捕かくするの意と伝えられてはいるが、具体的な説明はこれが初めてであった。*
鹿追町の平野部の火山展望台に大島亮吉の記念碑が建てられている。
以下、丸山まさみ氏のレポートから引用させていただく。
*大島亮吉は、2回北海道の山々を巡る旅をしているが、2回目の1923年(大正12年)には東大雪の山、然別湖周辺の山々を歩いている。
大島亮吉は、1899年(明治32年)9月に東京・芝に生まれた。慶応義塾大学では山岳会に入って精力的に山に登り、冬季もスキー登山を行うなど、四季を通じて山に親しんできた。
彼の初めての山行は、北アルプスであったが、このときのリーダーは槙有恒であった。
1924年(大正13年)に大学を卒業したあとは外国語学校に進学、軍隊勤務などを経験したが、除隊後は再び山に登り続けた。1928年(昭和3年)3月、28歳の時、前穂高岳を登攀中に転落死した。
大島亮吉の北海道2回目の旅では、東大雪のニペソツ山方面を目指して、然別川からシイシカリベツ川を遡り、ウペペサンケの稜線に登ったが、予期せぬ事態(案内人の体調不良)にあい、予定を変更して結局どこのピークも踏まずに音更川を下った。その後然別湖のそばの西ヌプカウシヌプリに登ったが、この時の旅でピークに達したのは、結局この山のみだった。
それにもかかわらず、彼はできたばかりの開拓道路を歩きながら、あるいは高いところに立って耕されつつある広野と開拓村をながめながら、開拓者たちの苦労に思いを寄せた。山奥で暮らす人々の寂しさを感じとり、寄り添ってあげられなかったことを悔やんだ。深い森の中や、急峻な、あるいはゆるやかな沢を歩いて自然をひたすら感じつつ、踏みつけただけの、寂れて隠れそうな開拓者たちの「生業の道」を慕い愛しんで歩いた。アイヌ語地名の美しさと素直さに感動した。ときには疲労感から抱いたであろう悪印象まで正直に吐露するが、そんなこともひっくるめて彼は北海道の山の中の「さまよい歩き」を楽しんだ。
「北海道の夏の山で私のいいとおもっている点は、まずその原始の匂いの多分にするような深い森林の中をさまよい歩くことと、北海道の夏の山では常に自然の路であるところの川歩き、それもゆるやかにうねっては流れている浅い沢をピチャピチャと徒渉しあるくことである。それから荒々しい未開の自然のなかへ一歩一歩と入ってゆく人間生活の努力と自然との密接な暗示の働きがまざまざと親しく眺められるようなその開墾地特有な風景である。そしてなお、もうひとつには山へ入ると殆ど人には会わないことである。人の歩いた跡さえも稀なことである。そんな点で私はこの山歩きにそんなに失望はしなかったのである。」*
かつて、鹿追町がジオパークを目指しているころに、お話をちょっと聞いたことがあった。
2012年11月に室戸でジオパーク全国大会が開かれたおり、展示ブースを出されていた鹿追町の方と話をしたり、いただいたパンフレットによるものだ。
鹿追町の取り組みには独自なものを感じた。(以下の話は、2012年11月時点である)
鹿追町はこれからジオパークの認定を目指す町だが、大きな柱に小中高一貫教育による「新地球学プログラム」を掲げている。
大雪山系の東側然別湖の辺りを中心とする鹿追町では、以前からカナダ・アルバータ州の町に高校1年生を短期留学で派遣していたが、現地の人とほとんどコミュニケーションを取れなかった。
そこで英語と国際理解のための教育を小中高一貫して行うプログラムを開発してきた。その中に合わせて鹿追の自然を愛し、町の文化歴史を理解するような郷土学的なプログラムが入っている。
小学校では「鹿追の自然の豊かさと防災」という視点で学び、中学校では「地域や世界の環境問題と防災への理解と実践」、更に高校では「地球環境問題や防災に関する行動」とつなげていく。
かつて鹿追町は、鹿追高校の存続の危機に見舞われ、
その中で地元の高校へ進む生徒を増やすことを目標に、地元を知って、地元を愛す子供たちになって欲しいという思いがこのプログラムの背景にあるようだ。そのためにもジオパークを活用しようとする視座があるようだ。これらの取り組みで、小学校から学力が向上、地元高校への進学率向上などの成果に結びついているようだ。地元の弱点を何とか克服したいと考え、合わせて近郊の豊かな自然を取り込んだストーリを考えられた方はなかなかの作戦家だと思った。(いただいたパンフレットを読んだだけの感想なので、詳細については理解していない)
今回お話の中では、文科省の補助は切れたが、ジオパーク推進協議会がこの「新地球学プログラム」を担われて続けているとのことだ。
交流会は、70人くらいが10のテーブルに分かれて行われた。わたしのテーブルでは遠軽からの女性の方がいてお話しした。昨年、東京から「地域おこし協力隊」として移住されたそうだ。
「初めての冬で雪道運転も大変でしょう」
「ええ、初めはゆっくりでしたが、怖かったです。水道管を2回凍結させてしまいました!」
いやー、頑張っている人がいます!
今回6地域、70人くらいのメンバーが地元で何らか、ジオパークの活動に携わっていらっしゃる。この中で純粋に地元育ちという方は意外と少なく、大半は外からの移住者である。北海道が好きで来た人、地域おこし協力隊として、あるいは仕事や転勤などの方もいらっしゃるかもしれない。よそから来ると、地元の方にとって当たり前のようなことでもその土地が新鮮に感じられるということは多い。いろいろな目線で見ると新しい発見があると思うのだが。
今回鹿追を訪れて学んだことは、山上の然別湖とその南に広がる十勝平原とのつながりのことである。遠い昔の大噴火によってもたらせられた膨大な火山噴出物が十勝平野を埋め、また気の遠くなるような長い年月をかけた河川の働きで、土砂を十勝平野に運び扇状地地形を作っていった。そして現在の肥沃な十勝平野ができあがり、日本でも有数の農業地になった。鹿追の平野からは、東・西ヌプカウシヌプリの然別の山が望める。
然別湖から白樺峠を越えて扇が原展望台に来ると、天気の良い日には、広大な十勝平野が一望でき、また正面奥には長く連なる日高の山脈が望めるそうだ。今回は残念ながら薄もやがかかって、遠望はきかなかった。
◆参考資料
・とかち鹿追ジオパークのパンフレット、ビジターセンター展示資料、HP資料
・鹿追町史 昭和52年刊
・「北海道然別湖の周辺にて大正時代の登山家・大島亮吉の足跡をたどるー特に自然・植生景観に注目してー」 丸山まさみ ひがし大雪博物館報告第35号
・現代日本紀行文学全集 山岳編(上) ほるぷ出版
・とかち鹿追ジオパークを訪れたのは、3月9日、10日である。
◆添付図
(2019-3-15記)