■ひだまりの午後のデイルーム~“添う”ということ。
恐らく、妻が入院した日まで二人きりで暮らしていたのだと思います。 どこをお怪我されたのかはわかりませんが、車椅子に乗っているその妻の歳の頃は70代後半、夫は80代半ばに見えます。
私がパソコンを抱えてデイルームへ行くと、車椅子に乗ったお年寄りの方達が、自分の腕だけでは動かせないタイヤを、怪我をしていない方の足、あるいは利き足で廊下を蹴りながら、ゆっくりと時間を掛けて集まってきます。
窓がたくさんあるこの部屋は、日当たりもとても良く、外の景色も良く見えます。
集まってくるお年寄りの中には、多分もう自分の足では歩けないのではないかと思われる方、ご家族の方がお見えになっている様子のない方もいます。
長い入院生活を日々淡々と過ごしながら、午後のひと時を陽の光を求め、窓外の景色を求め、広いデイルームに集まってくるのです。
夫婦は、その日も寄り添うようにしてデイルームにやってきました。
机を間に、耳の遠い夫は妻の話しを一言も聞き逃すまいとするのか、向かい側の妻の方へ身を乗り出し、ゆっくりとした会話を楽しんでいるのです。
頭に浮かんだ言葉が口をついて出て来るのに掛かる時間さえ、二人は楽しんでいるように見えました。
時折聞こえてくる言葉を繋げると、夫婦の話題は介護認定のこと、定額給付金のことだったようです。
日曜日の昨日、妻の兄弟らしき方が数人お見舞いに訪れました。
全員男性の兄か弟でした。
どちらかと言えば、かつてはチャキチャキとした男勝りな方だったのだろうと見受けられる妻の、その所以がわかったような気がしました。
夫の方は、真面目で穏やかながらも気骨のある、かつては亭主関白だったのではないかと思われる雰囲気でした。
何番目かの弟らしき人が、その場を仕切るように、兄弟達の話しをまとめ始めました。
兄弟で集まる席での彼の役目なのでしょう。
話題は、姉が退院してからの介護のこと。
先日、夫婦の話題になっていた介護認定の話しでした。
介護する義兄が、少しでも楽に出来るようにするにはどうしたらよいか?
そのような話しをしていたのだと思います。
話題が夜中のトイレの話しになりました。
「ポータブルトイレを用意しないといけないかな?」
「夜中に一人で、トイレまでいけないだろう。」
「布団の上げ下ろしは大変だから、ベッドもいるな。」
「ベッド二つで別々に寝てたら部屋も狭くなるし、夜中に姉さんがトイレに起きても義兄さんは気付かないな。」
「それならダブルベッドだ。」
姉は照れ笑いをしましたが、その夫は大きく頷いていました。
「義兄さん一人で、ご飯支度はどうしてるの?」
「飯も炊くし、おかずもみんな作ってる!」
少し得意げに答えました。
「義兄さんは毎日ここへ来てるの?」
別の弟が尋ねました。
「1月7日から毎日休まず来てる!」
その声は、それまで聞いたことがないほどにはっきり堂々と大きく、そして誇らしげにデイルームに響きました。
「明日は天気悪くなるから来るんでないと言っても来るのさ。」
そんな可愛いげのないことを言う妻を前にニコニコ笑う夫。
その言葉とは裏腹な妻の気持ちを見通しての笑みなのでしょう。
私は、二人の姿を晩年の父と母の姿と重ね合わせていました。
そばに居たいから毎日通う。
大切だから助けて守る。
“添う”ということの心の源を教えていただいた気がした、ひだまりの午後のデイルームでした。