【第3日目(2)】ローマ帝国時代の名残を残す町 ルーゴ
ガルシア州ルーゴ https://www.turismo.gal/que-visitar/cidades/lugo?langId=en_US ルーゴ(Lugo)はローマ時代初期の「ルクス・アウグスティ」という町から始まる。 ローマ帝国が4-5世紀頃に衰退するまで重要都市であったということだ。 その後衰退したのちに中世に移り、12世紀に建てられた大聖堂を目的地に、サンティアゴ・デ・コンポステーラのように巡礼者が訪れて栄えたこともあったらしい。だからキリスト教における重要拠点として中世以後に発展していったのだろう。 参考元:Wikipedia / Guía de la ciudad de Lugo など・・・ この町には旧市街を取り囲むローマ時代の市壁が存在し、世界遺産に登録されている。 この壁をみることを目的に観光のために立ち寄ったのだ。 人口は約10万人弱のガリシア州ルーゴ県の県都の中心街には多くの人で賑わっていた。 我々は町の中を歩き、壁を目指した。 若者はスマホを駆使して目的地についての情報を得てくれた。 ルーゴのメインスクエアを前に向かう先を決める。 ところで後ろにある像はローマの祖であるアウグストゥスとフラウィウス・ペトロニウス・マクシムスの像らしいが、帰ってから調べてわかった。 素通りしてしまったが、この町に行くんだったらローマ時代の予習をしていくべきだった。そしたらこの町をもっと有意義に見聞できたに違いないのである。 今更ながら、ちょっともったいないなと思った。 しかし全員マスクのどうみても観光客しか見えないグループを周囲の人たちはどう見ていたのだろうか。 このブログの多くはビデオからの切り出し写真だが、改めてみるとどうにも怪しい集団に見える。 昔、日本人観光客といえばメガネとカメラが目印だったわけだが、最近はマスクをしていれば日本人と思われているのではないか。 ローマ時代に思いを馳せる 長さ2kmくらいにわたって続くルーゴの市壁は「ルーゴのローマ城壁」として2000年に世界遺産に登録された。 当時の保存状態の良く残っている壁なのだが、この市壁は3世紀以降に弱ってきたローマ帝国がゲルマン人の侵入から防ぐために3世紀後半から作られたのではと言われている。 高さ8mから12mあるこの壁には10個のゲートがある。そのうちの5個はローマ時代に作られたものだが、残りは町が発展して必要があって作られたものだ。 そのひとつがアギーレ司教の門(Puerta De Obispo Aguirre/Bishop Aguirre Gate)である。 神学校との連絡路(墓地との連絡路とも言われる)を作る目的でアギーレ司教が19世紀の後半に開いた門だ。 壁が邪魔でそこに穴を開けるというのは必要性をもってしょうがないことなのだろうが、ローマ時代からのものをぶっ壊すようでちょっと勿体無い気もしてしまう。 しかし、ヨーロッパの石の文化というものは実に堅固な建造物をもってその特徴を示している。 片や日本は木の文化。一番古い木造建造物は法隆寺だったか。あれが7世紀の建造物だから、ヨーロッパの「形で残る歴史」はすごく長いものだと改めて感じる。 そうした随分と昔に作られて残ってきた建造物とともに、後世の人たちはそれを利用したり改造したり取り壊して町を発展させてきたのがヨーロッパの町なのだ。 ここでShibuyaという日本食屋にはいった。 うどんややきそば、寿司などを頼んでみたが・・・ きのこうどんを頼んだら、お汁は別料金だと言われてしまった。 残念ながら不味かったが、 それでもみんな黙って完食した。 しかしこれが日本食だと思われているのであれば、これこそ不味いぞ・・・ もちろん海外の田舎の日本食の不味さはどこでもあるが、この町は世界中から巡礼者もどきも含めて、彼らが思い出を持ち帰る拠点。これはいよいよ巡礼者たちを四国遍路に引き寄せなければ日本の食文化の誤認識も世界中に彼らを通して広がり続けてしまうぞ! そんな危機感も強くしたのであった。 そんなことを考えながら、食事の後に歩いていると、とても陽気な巡礼者(?)たちに道端のcafeで出会った。 バックパッカー風だったので、CAMINOを歩いている連中だろう。 一人がこっちに向かって踊り出してくれた。 日本人だと思って相撲を見せてくれたのかな? 愉快なやつだ。 日本のことに少しでも関心ある人には日本に来させないと! そこで彼らに川田さんと菊川くんが一緒懸命に四国遍路をアピールしてくれた。今回のミッションを立派に果たしている。 とにかくこういう地味な活動が実を結ぶのを祈るのであった。 ルーゴの観光を楽しんだ後、我々は今夕に開かれる講演会のためにトリアカステーラ(Triacastela)に向かった。 【第3日目(3)】いよいよトリアカステーラへ