むしゃなび編集部

富丘。開拓時代、ここにどんな風景が広がっていたのか

0228064s洞爺湖町(旧洞爺村)富丘地区は、 
自然豊かな山寄りの中山間地。 
住民の皆が知り合いでいられる程度の戸数が、緩やかな小山を隔てながら点在している。 
 
たくさんの牛たちが放牧された牧草地と畜舎があり、自然な暮しを大切に思う人たちの数世帯や無農薬野菜を作る人、 
その畑で育った大豆で手作り味噌を作る、そのための小規模な施設。 
 
これが富丘のほぼ全て。 
時間がゆっくり流れているような光景がある。 
 
しかし、この富丘地区は、開拓が始まった明治38年(1905年)頃から大正時代にかけて100世帯もが暮らす集落だったことがあるそうだ。 
 
・・・今から約百年前。 
 
その頃の暮しぶりはどんなだっただろう? 
その頃はここに、 
どんな風景が広がっていたのだろう?

それを知る「富丘友の会」の方たちが四年に一度の集まりを持っている。 
 
洞爺湖温泉で顔を合わせ、翌日は昔富丘小中学校の校庭だった場所で 
現在の住人(平成になって移住してきた方たち)とジンギスカンで交流会を開く。 
会の代表の田中義啓さんは、代々、そして今も富丘に在住する唯一の人。 
それ以外の人たちは日本各地に散っていったが、 
過酷な暮らしを支え合って過ごした約三十名の仲間は今もこうして集まっている。 
 当時の様子はどんなものだったのか、どう暮らしていたのか、 
ほんの少しではあるが話を聞かせてもらった。  

「色々な外国に旅行するけど、どこに行くよりここに来ることが一番楽しくてね」 
と語るのは、現在は東京都在住の藤田敬二さん。
0228063s明治4年の廃藩置県以前には丸亀藩(四国)にいた藤田さんの曾祖父母が北海道に渡り、富丘の地に立ったのは明治43年(1910年)頃。屯田兵の開拓後ではあったが、入植者の流れは続いていた。 
 
屯田兵制度(明治7年~明治37年)は、藩の廃止にによる士族への対策、食料(作物)の確保、そしてソ連からの侵略に備え北海道の住民を増やし、いざとなれば兵になる者を配置した、というのが制定当初の概略。 
 
洞爺周辺に屯田兵が入植したのは明治20年頃で、福沢諭吉がまだ生きているし、北海道への屯田兵設置の提案には西郷隆盛や坂本竜馬らも絡んでいて、黒田清隆がその意思を継いで建議し、明治7年に制度が制定されている。・・・歴史の教科書に出てきた人たちがまだまだ身近な時代なのだ。 
 
さて、深い木々に覆われた富丘に初めて入植した者の中にいた藤田さんの曾祖父母。農耕をはじめるために巨大な木々を人と馬の力で切り倒した。倒した木々は命をつなぐための資源だった。木材で家を建て、薪で煮炊きをし、暖をとって冬を乗り切る。 
屯田兵後~大正時代、富丘は約100世帯が暮らす集落になっていった。 
 

ガンピの灯、ランプの灯 やがて敬二さんが生まれた昭和初期。もちろんまだ電気はなく、灯りとして「ガンピの皮」を皿の上で燃やしていたそうだ。ガンピとは白樺の木のことだそうで、 
「パッとよく燃えるから薪に火をつけるとき着火にも使っていた」と藤田さん。「後でカーバイトが入ってきた。ランプの掃除はだいたい子供の仕事で、毎日欠かさず掃除していた。薪割りも子供の仕事だった」。
 
カーバイトランプとは、石のような炭化カルシウム(カルシウムカーバイト)の固まりに水を垂らし発生したアセチレンガスを燃焼させる仕組みのランプ。
同じく東京から飛んで来た安斎弘子さんは藤田さんの妹。 
「姉の都合で20歳の時に東京へ行ったけど、帰りたくて帰りたくて。富丘には仲間がいるし本当にいい処だからね。畑の収穫期には戻ってきて手伝っていたよ」 
 
今回の帰省には皆へのお土産に「ひよこ饅頭」を持ってきた。「富丘は、私たちがピヨピヨって産声をあげた処だものね!」と輝かせる顔には、ふるさと富丘への愛があふれている。 
着物「母が素晴らしい人で、皆が集まって来てた。和裁をする人で、着物を作ったり着物をたおして仕事着や布団を作ったり」 
布はまだまだ貴重だったそうで「着るものにはみんないっぱいつぎ当てをしてたよ」。
宮城県にいた田中義啓さんの曾祖父母が富丘に入ったのも明治43年(1910年)。 
その曾孫である田中さんは昭和のはじめ、戦中に生まれた。 
 
国全体が食糧難に陥った戦中、戦後(昭和20~30年前半頃)に少年時代を過ごした田中さん。 
「だいたい5ヘクタールごとに1戸が置かれて、作物を作っていた」。ビート、ジャガイモ、麦、小麦、花マメ、アマなどが主な作物。 
「イモ掘りなんかでも、人や馬が駆り出されて、順番に今日はこの家の畑、明日はこの家の畑と皆が行ったり来たりして協力し合った」 
 
農耕馬 どの家にも農耕馬が3~4頭はいて、馬のためにえん麦やニンジンも作付けていた。「馬にごくやったか?」という会話が挨拶のように交わされていたそうで「ごく」は「うまい餌」。ニンジンなどを「上にのせた」馬が好きな良い餌のこと。田中少年も日に3度、馬たちに餌をやった。働く馬を大切にして一緒に暮らしていた。「ごく、やったよ」と大人に答える田中少年の姿が目に浮かぶようだ。
 
「どこの家でも子供の頃から仕事を手伝っているからだいたいどんなこともできて、中学を出たらもう一人前の男として扱われて、一人前に働いたよ」 
 
馬橇 夏に収穫したアマを運ぶのは真冬だった。馬ソリでルスツの工場まで運んだ。 
 
また小学3年生の頃、払い下げの木材を運びに、父親と真冬の道を馬ソリで行ったこともあった。かなりの道のりだったが、田中少年も一人で一台の馬ソリを引いた。積んだ丸太は巨大なものだ。 
「弁当を持って朝から出かけて、山から切り出した丸太を積んで、帰りはすっかり夜になってた。雪の中、馬と一緒に、帰り道はそれはもう寒くてね」 
 
その帰り道で見た昭和新山は、燃えていた。 
「昭和新山が、真っ赤だった。赤く浮き上がっていた。正面に見えるんだよ」 
夜の暗さの中に見えてくる赤い山。不思議な光景だったと田中さんは言う。昭和新山が出来上がったばかりの頃で、活発に溶岩を湛えていた。 
 
不思議な狐火 めいっぱい働いた後、外に置かれた風呂に入る田中少年には、楽しみがあった。 
「夜、風呂に入っていると、畑の方に、列になった灯が見えてね。ずうっと、かなり長くて、それが止まった光じゃないんだから。あっちへ、こっちへ、行列が動いてるんだよ。不思議でね、その話をすると、ばあちゃんが「キツネの嫁入り」だって言ってた。穫り入れが終わった頃によく見た。その頃は電気もないし他に何もあかりがなくて真っ暗だったから「行灯」の行列がよく見えた。そんなところに人もいるわけないし。怖いことはなかったよ、楽しみだった。あんまり早く風呂に入るとまだ明るくて見えないから、暗くなるのを待ってできるだけ遅くに入るようにしてた。見えると嬉しくてね」 
今でも不思議で、それが何の光だったのかは解らないと田中さんは言う。 
「キツネかどうかはわからないけど、その頃は、そんな現象がたくさんあったんだよね」
 
この話を聞き、少年とその光景を思い描いたとき、どうしてか涙が出てきた。 
この土地を離れた人たちが苦労を共にした同郷の者を慕うだけではなく、なぜそんなにも強くこの土地を「良い処」と言うのか不思議だったが、もしかしたら説明のできない「良いもの」がこの地にあるのかもしれない。 
昭和20年、終戦を樺太で迎えた山口ふさ子さんが、両親と共に富丘に着いたのは昭和24年(1949年)4月。山口さんは当時13歳だった。 
 
100戸あった民家は20戸ほどに減っていたが、 
終戦直後、深刻な食糧難のため農地を求めた入植者や、また山口さんのような戦後の引揚者も多く、樺太から、そして広島から、また海軍の一団もあり、世帯数は60世帯にまで戻った。 
 
「荷物をしょってこの道をずうっと歩いて登って来たんだよ」 
 
電柱 この頃はやっと富丘に電気が来た頃で「私が来たときは立ったばかりの電信柱が並んでた」と山口さん。 
隣の大原や、財田にもまだ電柱がなかったが、富丘には先に電気の明かりが灯ったことが誇らしかったという人もいて、その話が出ると皆「電気が来た」ではなく「電柱が立った」という言い回しをする。体験した者でしかわからない喜びがあることを感じる。 
 
そのころの富丘には、樺太団体、海軍団体、広島団体、西組、四線、など出身地別に大まかな住居地の区分があった。 
「西組の方は風が強くてね。同じ富丘でも作物の育ちが全然違った」。 
 
「海軍の中には階級の高い人もいて、当時の天皇陛下くらい近づきがたかった」と語る人もいる。
 
アマの花 山口さんには、アマ(亜麻)の花が一面に咲いていた風景の記憶がある。戦中、繊維や油をとるために国からアマの栽培が割り当てられ、その後も継続してアマを栽培していた農家もあった。  
「アマの花が咲いて一面青くなって、きれいだったよ。でも午後になるとすぐに花はしぼんでしまうんだよね。今のホテルローヤルや伊達神社のあたりにアマ布(リネン)を織る工場があって、一度見に行ったけど大きな工場だった」 
 
刈り取ったアマは運び出す前にまず畑の隅に山にして積んでおくのだが、 
「その中にどうしてかいっつもヘビがいて、びっくりしたよ。運ぼうとするとヘビが出てくるの。きっとちょうどヘビが好きな場所だったんだと思うんだけどね」そのヘビを鮮明に思い出しながら語っているのがよくわかる口調で、ヘビと毎回驚く少女の出会いの瞬間が見えるようで思わず笑ってしまった。


また富丘にはでんぷん工場があったそうだ。収穫した馬鈴薯を細かく粉砕し茹でて潰し、水分とでんぷん質を分離させて、乾燥させる。少女だった山口さんはその乾燥作業をよく手伝っていたそうだ。
村の青年団 そんな暮らしの中、山口さんが熱中したのは青年団の活動で、洞爺湖周辺の村同士の対抗で、運動会やマラソン大会など、いろいろなスポーツで戦いの汗を飛ばし、応援に白熱したという。 
「富丘はマラソンが強くてね!」と、瞳を輝かせる。 
 
大変だったのは冬場。吹雪になれば集落はすぐに孤立し、何日も行き来ができなくなった。 
「寒くて寒くて。つらかったよ」 
それでも、富丘の地と、その頃の暮らしが今でも大好きだという。 
 
「部落みんなで助け合って生きてきたんだよ」と。 

 
その後、昭和47年(1972年)、 
田中角栄の「日本列島改造論」が叫ばれた頃は「どんな土地でも売れた時代」だった。 
どんな場所か知らずとも不動産として町の人がこぞって土地を買ったため、列島改造論の意に反するように、富丘の過疎は進んだ。住民が皆、土地を売って出て行ったからだ。 
富丘の、元からの住人は激減し、6軒となり、2軒となり、やがて平成になって田中さんの家だけになった。 
 
しかし同じく昭和47年、富丘を離れた者たちが集うようにもなった。 
それが「富丘友の会」の始まりだ。 
 平成に入ってから、自然環境の良さに魅かれた人などがポツポツと移住してきたため、現在では9世帯が点在している。山や森に囲まれているため今でも熊がいるそうで、会の数日前もこの焼肉会場のすぐ近く、放牧地のほうで、まだ新しい熊の足跡が見つかったそうだ。 
 

ということは、代々ここにいるのは・・・田中さんと、熊・・・・・。 
 

 
参 考 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
屯田兵制度    明治7年~明治37年 
洞爺湖周辺入植  明治20年頃~(西暦1887年) 
富丘入植1    明治43年頃~(西暦1910年) 
日中戦争     昭和12年(西暦1937年) 
第二次世界大戦  昭和14年(西暦1939年) 
終戦・富丘入植2 昭和20年頃~(西暦1945年) 
富丘過疎 住宅激減  昭和47年~(西暦1972年)列島改造論 富丘友の会発足 
富丘住民増加   平成以降 
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富丘 友の会(代表 田中義啓) 
北海道虻田郡洞爺湖町富丘85/電話 0142-82-5278 
 

※記事の内容は取材時の情報、証言に基づいています。(取材2016年8月~9月)

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