
ホテルマンの幸せ
札幌ドームに行きました♪
先日久々に『札幌ドーム』に行ってきました♪
日本ハムVS東京ヤクルトスワローズの試合観戦です☆

過去にも5回位札幌ドームには野球観戦に行きましたが、私は札幌円山球場時代からヤクルトスワローズの応援には行ってましたね☆
ライトスタンドに移動した直後に得点が入り『東京音頭♪』を一緒に盛り上がりました♪

子供のころからずっとヤクルトスワローズを応援してきました♪
その後レフトスタンドのにも移動して『稲葉ジャンプ』をした時に稲葉選手がスリーランホームランを打ちました♪
その後は内野指定席(スターシート)に戻り観戦しました☆

ベンチの真上で2列目なのでかなり近い席でした♪
本来は決められたゲートから入り決められたシートでの観戦なのですがそこは私♪
ゲートの係員さんに『そこを母さん!頼むっ♪』って感じで球場の6カ所で観戦してきました♪
自由人☆
私が子供の頃は男の子は90%以上好きな球団の野球帽をかぶっていましたね☆
女子は広島カープの帽子が多かったですね♪
赤だから☆
私もこの札幌ドームで野球の試合をした経験があります♪
それは某病院グループ(現在は硬式の社会人チーム)の創立30周年記念のイベントでした☆
その『対戦相手』に私のチームが選ばれたものでした☆
理事長の始球式で始まったこの試合♪
相手のメインイベントなのでバスをチャーターして関係者の皆さんの応援までいるのです☆
私のチームはただの『対戦相手』ですから応援はゼロです…。
もちろん大人ですのでこの試合の意味はよくわかっています…。
相手の創立30周年記念イベント!
地元ではもちろん有名な病院の強豪チーム!
始球式はその病院の理事長!
札幌ドームの数十万する使用料も全額相手チーム(病院)持ち!
そしてこれは何の大会でもなく相手チームのイベント試合!
こんな状況でも私と北島 篤さんは『負ける野球なんて出来ない!』
と言い始める始末……。
そんな篤さんが私は大好きです♪
監督は5回くらいまで全力で行け!その後は状況を見よう!お前らも大人なんだからわかるだろ!
で5回まで3-1でこちらがリード♪
結局私と篤さんの熱い魂が他の選手達にも伝染してしまい最後まで全員が本気でやってしまいました♪
3-2で私達の勝利♪
監督は『俺の立場を考えろ!!』と最初は怒ってましたけど、やっぱり監督も野球界の男です☆
って言ってもそんな事出来ねぇ~~か!って笑ってましたね♪
せっかくの札幌ドームでの試合ですよ♪
わざと負ける野球をするくらいなら家でビールでも飲んでた方がいいですからね☆
この勝利は気持ちが良かったですね☆
相手もまさか負けるなんて考えてもいない様子でしたからね☆
だから負けるんですけどね♪
『わざと負ける野球をしました』
なんて事を鵡川高校野球部監督『佐藤 茂富』(ゴリ)に言ったら今でも絶対にぶん殴られますね♪
私は野球の時はかなり『攻撃的』な人格になりますので、最初っから勝つ気満々でしたけどね♪
懐かしい想い出です☆
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【あの人に会いに】表現を愉しむ [ 村井裕介さん / 洞爺 ]
Love & Peace な好青年。 自然にありのままに、穏やかに。 けれど、どこか静かに自分を内観してる。 陰と陽、内に秘めた熱さ。 【あの人に会いに】vol.3 3人目の今回は、 ROUGH LAUGH Coffee の 村井 裕介 さんです。 一歩ずれていたら、全く違った道を 全く別人のように歩いていたかもしれない、 そんなストーリーを伺いました。 『人生このまま終わるのか?』 裕介さんは登別市出身。高校卒業後は美容師を目指して専門学校に進みます。しかし、なんと1週間で辞めてしまいます。始まりからパンチの効いたストーリーです。 「辞めた理由を色んな人に聞かれるんですけど、わからなくて。まあ明らかに無理だなって。でも1週間なんで、ハサミも持ってないんですけどね !!」 札幌に引っ越して家具も一式揃えたのに、引き返すという思い切りの良さ。 「自分に嘘がつけないっていうのは子供の頃からありました」 専門学校を辞めたあとは登別の実家に戻り、工場で働き始めます。 「働いて、結婚して、車買ってマイホーム建てて……っていうのが”普通”の環境で」 日々淡々と、真面目に働きました。しかし1~2年ほど経った頃、『人生このまま終わるのか?』とふと思うようになります。 「働いていて『これじゃない感』というか……」 転職や、やりたいことを考え始め、ハローワークに通いましたが、そこに興味のある求人はありませんでした。 「仕事も辛くて、行きたくなくなって、鬱みたいな。今みたいに外に出ることも少なくて、ずっとスマホ見て、求人見たりSNS見たり、夜更かしして。テラスハウス(当時大人気だったテレビ番組。夢を追う若者たちのシェアハウス生活を映し出していた。)見て、『俺もやりたいことが見つかれば……』とか思ったり」 夜更かしにスマホで質の悪い睡眠、抜け出せない負のループ。そんな生活を続けていると、身体に不調が現れ始めます。 「めまいが半年くらい続いちゃって。脳外科も行ったけど、何も悪くなかった」 看護師である彼女に、自律神経では?と言われ、心の不調に気付きます。 「その時は”自律神経”という言葉すら知らない。『自律神経 直す』とかググって……夜更かししながら (笑) 」 夜中にスマホが教えてくれた答えは、皮肉にも ”朝日を浴びる”。 「めまいが辛いから、もうやるしかなかった」 『早起き』から流れが変わった 早起きして、朝日を浴びて、深呼吸。 そして朝読書。 朝に心が整う気持ち良さ。 自分を悦ばせられることを体感し、朝型のライフスタイルにシフトしていきました。 「自然のリズムで暮らしたら、普通に自然になるじゃないですか。そしたら働きながらでも良くしていけるなって。早起きして本読んでから仕事に行けば、良い感じなんじゃないって。土日は休みなんだから、お出かけして、楽しく過ごせばいいんじゃんって。本当に普通の、当たり前のことなんですけどね」 転機が訪れたのは23歳のとき。 急遽、沖縄へ移り住むことを決めます。 「彼女から『沖縄に住みたい』と結構本気で伝えられたのがきっかけで。最初はビックリ。でも次の日には、良いかもな……と思うようになって。それで3日後にはもう、会社辞めます、って。沖縄が好きだったし、旅や移住に興味はあったので……」 興味があったとは言っても、北から南への大移動、更に長い間辞められなかった会社の辞職、とても大きな決断です。そうと決めたら早い!専門学校を1週間で辞めたという冒頭の話が思い出されます。 いざ沖縄へという時も、思い切りの良いエピソードが。「飛行機高くない?お金そんなに変わらないなら、車で行っちゃおう!って。日本縦断しました」 今だから見える 地元・西胆振 のポテンシャル 2人は沖縄で1年ほど暮らしたのち、”なんとなく自然と” 北海道に戻って来ました。 裕介さんの現在の主軸は、農業・スノーボード・珈琲の3本。 夏はひたむきに農業に打ち込み、 冬は目一杯スノーボードを愉しみます。 スローライフ、自給自足、自然の近くで暮らすライフスタイルに惹かれていた裕介さん。自然な流れで農に携わるようになりました。 巡り巡って地元に戻って来た裕介さん。今、この地域に可能性を感じていると言います。 「西胆振で生まれ育って、沖縄に住んだり、日本縦断の旅で色々見てきたけど、結局ここに帰って来てる。これはひとつ強みだなと思ってます」 田舎出身者の良くある話、裕介さんも例に漏れず、地元は ”何も無いところ” だと思っていました。しかし一度外に出て戻ってくると、西胆振のポテンシャルが見えるようになりました。 「海も山も、湖も、活火山もあって。ちょっと車を走らせれば世界的なパウダースノーがある。これって凄いこと」 今まで当たり前すぎて気付かなかった豊かさ。大人になり珈琲や農の世界にも出て、新しい繋がりもどんどん広がっていきます。Uターン勢の今後が楽しみです。 珈琲は表現のひとつ 「早起きを始めてからは、全部 ”きっかけ” とか ”理由” とかがなくて、自然な流れでそうなってきた」と語る裕介さんにとって、珈琲も自然と極めていったものの一つ。農に携わる傍ら、イベント等で珈琲を淹れたり、地域のお店に自家焙煎の珈琲豆を卸したりするようになりました。 「珈琲もスノーボードも、”表現”。音楽と同じような感じ。楽しくて歌っちゃうのと同じ」 『ROUGH LAUGH Coffee』は店舗は持たず、不定期でイベントに出店しています。アーティスティックであり、職人気質でもある裕介さんの、”表現”としての一杯を味わいに、ぜひ立ち寄ってみてください。珈琲片手にゆるりと語り合えるような心地の良いイベントが多いので、肩の力を抜いて楽しめるはず。 イベント出店情報は、『ROUGH LAUGH Coffee』インスタグラムをチェック! ______________________ \直近イベント情報/ ●6月21日(金) 「夏至のたそがれ」麻麦カフェ(ルスツ) ● 7月6日(土) ニセコでイベント出店予定 ● 7月12日(金) 麻麦カフェ営業日(ルスツ) [ 月1程度で出店中!] ※ 詳細はインスタグラムにて @roughlaugh_coffee.creation
misaki
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布でつづる千羽鶴 [1000PEACE / 室蘭・札幌]
布をつなぐ、人をつなぐ、命をつなぐ。 今、室蘭からじわりじわりと広がり始めている集団アートの動きがあります。 ひとつひとつ”はぎれ”を手で縫って作られた、ハートをくわえた小鳥たち。ハート部分には参加者の名前やイニシャルが刺繍されています。これをタペストリーに縫い付けていき、どんどん集まっていくと…… 月へ向かうことりの群れが描かれた、巨大なタペストリーとなります。完成目標は1,000羽、長さ14m相当です。 ”月は星座と違って、世界中のどこから見ても同じ形だから”、”欠けて見えなくなっても、必ず光が戻るから” 、このデザインにしたそうです。 このプロジェクトの名前は「1000のことり」。布でつづる千羽鶴、アートによる平和の意志表示です。政治的なスローガンや言葉は一切使わず、”ころさないで”の一点で、そしてサイン(イニシャル・マークも可)の刺繍だけで、1,000人が繋がります。このタペストリーは完成後、「非戦」を求める場に飾られます。サイン参加者が使用することも可能だそうです。 ひとりひとりの想いが込められたパッチワークの美しさにエネルギーを感じます。現在、北は札幌、南は佐賀県まで参加者がいるとのこと。平和に心をよせるアートの波が、ゆるやかに広がっていっています。 今年20周年を迎える 『1000PEACE』 『1000PEACE』は、「戦争は昔話じゃない。現在進行形のリアルだ。お金も、地位もない、無名の自分にできることは何?」と感じた人たちが集まってできた有志団体です。 「未来の世代につながる具体的な行動をしている個人や団体を応援する」のが活動内容。対象は、国外・国内を問わず、忙しい日常の中で自分たちにできることをしています。活動内容は、その都度集まった人たちで自由に考え、話し合って決めます。 戦後60年の年であった2005年7月、募金を集めイラクの水支援に送ったことが始まり。そして今年20周年を迎えます。主に札幌を拠点に活動していましたが、今は室蘭に拠点が移っています。 直近では、パレスチナのこども達の心のケアの一環として、「パレスチナへのことり」プロジェクトもありました。北海道パレスチナ医療奉仕団の後発隊メンバーに「日本からのお土産」を託そうと、2024年10月~12月の間に子どもが描いた絵とカードを集めたのです。しかし現地の状況が緊迫し渡航を断念。次の渡航がいつになるかはわかりませんが、集まった169枚の絵はそれまで大切に保管されるとのことです。日本のこども達の絵とことり達がパレスチナのこども達に届く日が早く来ますように。 『1000のことり』に参加するには 1000PEACE には公的な事務所がないため、代表個人の連絡先が問い合わせ先となっています。「自分も参加したい」「ことりを預かって周りに声をかけるよ」という方がいらっしゃいましたら、下記問い合わせフォームよりお問い合わせください。 ~『1000のことり』参加の流れ~ ①お問い合わせフォームから『1000PEACE』と繋がる ▶直接お会いできる方 ②好きなことりセットを選ぶ ③参加シートにお名前を記入して戻す(ご自身で刺繍してもOK) ④片方のことりは自分のものに! ▶遠方の方 参加ハガキに記入していただき、後日、片方のことりが届きます。 実はことり達は双子で、1セット2羽になっており、片方は参加者が貰えるんです!ことりのハートにサインを縫って終わりではなく、このタペストリーがどこかで飾られるとき、自分のことりを探せるというワクワクが残されるのです。その場で終わりとならない、日常で忘れてしまいそうなときに思い出させてくれることりが近くにいてくれるのも大切ですね。ご興味を持たれた方は下記リンクよりお問い合わせください。 ~参加希望、お問い合わせはこちらまで~(筆者が代表の方をお繋ぎします。)
misaki
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原体験に導かれて〜好きを極めた永遠の鉄道少年 横山靖樹氏
原体験 「父親に連れられて、今はなき室蘭機関区に蒸気機関車を良く見に行っていました。たしか2歳頃からだったと思います。当時は90%が貨物か客車を引っ張る機関車で、間近で聴く警笛の音に驚き、父の膝の上でビクッと飛び上がった記憶があります。」 そう語り始めたのは室蘭市舟見町ご出身の横山靖樹氏。 今回の主人公です。 数年前に伊達市役所を退職し、今は室蘭で週数日の仕事を請け負っていらっしゃるそう。 全く知らずに取材を申し込んだのですが、実はその世界の専門誌に登場する有名なモデラーとライターさんでもあることが発覚! なんとも恐れ多いことをしてしまいました。 ですが、とても気さくに丁寧に取材に応じてくださった横山靖樹氏でした。 「12歳になると鉄道模型に夢中になりました。二年間で貯めたお年玉1万1千円で初めて買ったのは金属モデル16番セット(日本規格のJゲージともいう)のBタンクと呼ばれるものです。だいたい6時間くらいで作ったかな…。当時はプラモデルがとても流行っていましたが、僕が作る鉄道模型は真鍮でできています。ですから、父からハンダ付けの道具を借りて作りました。今でもその時の模型は電源・レールともに保管してあります。」 わ! いきなり専門用語が出てきました。 Bタンクって何? 鉄道模型ってプラモデルとは違うんだ! 電源ということは動くの? これはお話に付いていけない予感…。 けれども靖樹氏は優しい口調で丁寧に説明してくださいました。 「Bタンクというのは動輪が二軸あることです。16番(Jゲージ)というのは実際の大きさの1:80の大きさと機能を表すものです。特徴としては加工がしやすくキットが豊富で精密にできます。つまり、より本物に近いものができる。精密に作ることができるので、1:80の大きさとパワーで本物っぽく動かすことができるのです。動かない鉄道模型は僕の中では認めていません。」 鉄道模型には強いこだわりがあるようです。 優しさの中に頑固さを見た瞬間でした。 鉄道模型への想いが熱い!! こちらも模型です。 雪煙を上げながら走るこの列車のカラーは国鉄色と呼ばれるオレンジ色です。 市役所現役時代から所属していた鉄道模型クラブの仲間同士の合同運転会などで、 情報交換やアドバイスをもらい技術を上げていったと言います。 なるほど! 文頭の画像は特別なものではなく、大きさは色々でも全て精巧に動くように作られているというわけです。 模型作りにどんどんハマる靖樹氏でしたが、子どもにはとても高価なのでそう簡単に買えるものではありませんでした。 ある日、中学生になった靖樹氏は鷲別機関区へ行きました。 「その頃は緩かったというか、車庫入りしている機関車に乗せてくれたり、警笛を鳴らさせてくれたりして、今でいう『体験』を通したさり気ない教育をしてくれたんです。」 結果、この時の体験は靖樹氏を『撮り鉄』の道へと駆り立てました。 北海道の蒸気機関車を撮りたい! 靖樹少年、ついに『撮り鉄』の旅を始めます。 「中学生の頃は学校の長期休みを使用しながら、日帰りで出掛けていました。カメラはお年玉で買いました。でも、ジュラルミン製のカメラバックと三脚は父が買ってくれました。」 「高校生になり、宿泊しながら撮りに行くようになりました。とは言っても、夜行列車を利用した車中泊です。いままで一度だけ遠軽の旅館に泊まったな。カメラは当時日給が高かった母方の親戚の酒屋のバイトをして一眼レフを手に入れました。室蘭は急な坂が多いでしょう。坂の下で車から荷物を下ろし、上り坂を担いで行くんです。キツかった…。」 「ところで、撮り鉄時代の面白エピソードや、車中泊や駅泊で困った思い出などありましたら教えていだけますか?」 「高校生時代からひとり旅を許されたのですが、予備フィルムやカメラ、列車時刻の確認、移動切符手配など、周到な準備で出かけるようにしていました。厳冬期 -25℃の道東の朝の出来事なんですが、メガネの金属製ヒンジがポロリと折れてしまいました。ツルの一つはかろうじて耳にかかっていましたが、直ぐずれて間抜けな顔に…。カメラファインダーも覗けず難義しました。メガネの予備を持たなかった失敗談です。また、あるお盆近くの日の出来事です。北見方面の長さ600m程の有名な怪談トンネルを訪れたのですが、トンネルの先は絶好の撮影スポットなので是非とも撮りたいと思っていました。信号所の職員さんに蛍光灯を点けてもらい、帰りもお願いしたのですが、帰りの約束の時間になっても蛍光灯は点かず辺りは真っ暗。職員さんは約束を忘れてしまっていたんです。山間はもう真っ暗でしたが、ダイヤを確認し勇気を振り絞りいざトンネルへ。そこで体験したのは超怪奇現象でした…。真っ暗なトンネル内で何度も転び、真っ黒になって信号所に助けを求めたところ、『あっ 忘れていた! また出たの!? しょっちゅうあるんだよね〜!』って…。今思い出しても寒気がする出来事です。」 「トンネルでの出来事は気になりますが、きっと、苦しい作業の末に亡くなられた成仏できない霊が彷徨っているのでしょうね…。勇気を振り絞って中に入った靖樹少年すごすぎます ^^;」 「また、こんなこともありました。夏の駅での野宿の時です。当時は、駅ホームの待合室では寝ていいよ、っていうのは結構ありました。でも夜中に貨物列車がゴウゴウと通過するのでその度に目が覚めます。でも屋根付きは良かった。特に雨の日。次の朝は蚊に刺され顔がむくんでいましたが笑 昭和の駅員さんはおおらかでした。」 「駅ホームの待合室泊…。実は筆者にも経験があります!今は締め出されちゃいますね。」 車中泊で全道各地の蒸気機関車を撮るようになった靖樹少年は、「もっと技術を上げて良い写真を撮りたい!」「自分で現像をしたい!」という思いから、高校では写真部に入部しました。 一度決めたらまっしぐら。 「現像のための暗室は自宅の一室に毛布をかけて作りました。家中酢酸の匂いがしていました笑」 カメラや鉄道にハマりながらも陸上部を掛け持ちし、短距離走が得意だったとも言います。 文武両道だったというわけですね。 〜というか、じっとしていられないタイプ? 自宅では模型を作り、外ではカメラを担いで蒸気機関車を追いかける日々。 そんな靖樹少年に辛い転機がやってきました。 国鉄の合理化です。 昭和50年代に入り、走る途中で水や石炭を補給しなければならない蒸気機関車は、真っ先に合理化のターゲットとなりました。 そしてついに、通常営業運転としては全国最後になった室蘭本線の蒸気機関車は消えてしまいました。 「被写体がなくなってしまい本当に気落ちしてしまいました。ディーゼルには興味がなかったので撮る気にはなれなかった。当時『赤ブタ』と呼んでいた機関車は撮りたい対象ではなかった。今となれば撮っておけばよかったと思いますが…。貨物車も、昭和の時代にはタンク車があったり、木材を積んだ貨車があったり、引っ張られている貨物車がバラエティーに富んでいたのですが、いまは画一化されたコンテナになり、それらさえも見ることがなくなってしまいました。」 「模型鉄」再開と新たな展開と その後しばらくして結婚。 そして子育ての時期。 「約15年間は鉄道から離れていました。けれども、札幌へ出張するたびに本屋へ行っては専門誌3冊を捲り、『またこの世界に戻りたいな…』という想いを膨らませていました。いつかは再開したいと思いつつも、再スタートの一歩を踏み出せずにいた僕の背中を押す記事を、ある日専門誌に発見してしまいました。自分が中学生の時よりも模型が数倍精密になっていたのです。それを知った時、俄然と模型作りをしたくなりました。実はちょうどその頃、超過勤務の給与を多くいただいていた頃で、それを原資にすることで再開することを決意しました。上の子どもが高校生の時でした。」 聞いて驚いたのが真鍮製機関車模型の価格。 なんと、1台20万円〜50万円くらいするそう! 何しろ、全てが本物の1 : 80なのですからその位はしてもおかしくないわけです。 ですから模型作りよりも家庭経済を優先させた靖樹氏の判断は当たり前と言えば当たり前でした。 「それは『我慢した』という感覚でした。」 15年ぶりの模型鉄再開はさぞかし嬉しかったことと思います。 さて、再開をした靖樹氏は鉄道模型を作るだけでなく、模型とジオラマの融合を始めました。 そして、仲間を集めて倶楽部活動も始めました。 先ほども少し触れたご自身が会長を務める「北軌道倶楽部」です。 「現在20名ほどの会員がいます。年代は40代から60代の方々。実は自分のような人間がいるのが不思議なくらい裕福な方が多いです。模型は高いですからね。その仲間で2~3ヶ月に1回くらい例会をしています。会でしていることと言えば、持ち寄った模型を走らせて酒の肴にして語り合う。そんな会です。」 どうやら想像以上にマニアックな会のようです。 「ところで、新たな展開としてジオラマも手掛けるようになったようですが、ジオラマも真鍮製なのですか?」 「真鍮も使いますが、ジオラマの材料のほとんどはお菓子の空き箱などのボール紙です。コルク板、発泡スチロール、集成材やプラスティック加工用のスプレーなども使います。他に使う材料は…、選ぶのがちょっと恥ずかしいのですが、100均のコスメパーツです笑。」 「え!? 化粧品ですか?」 「はい。たとえばネイルパーツなどをよく使います。」 つまりオリジナルの世界なのでキットでは作れないというわけです。 それではここで鉄道模型とジオラマの世界をとくとお楽しみください。 いかがでしょう? 細かい作業が苦手な筆者には、神業すぎて、素晴らしすぎて写真だけでもコーフンします。 もちろんこれらは靖樹氏のコレクションの極々一部です。 現在、車両のみで300両はあると言います。 それらは全て自宅納戸に保管されているそう。 「どれも皆素晴らしいですね!ところで、いま一番作りたいものは何でしょうか?」 「ジオラマでは鉄橋です。河川に架かる橋は鉄道車両と一体になる風景です。橋梁製作、法面の(植物)作成、河川表現等ジオラマの世界では高度な技術を駆使します。今、橋でも難しいリベット組立の魚腹ガーダー橋梁を使用したジオラマ製作を行なっています。」 最後に鉄道模型車両とジオラマ風景を融合させることの魅力を語っていただきました。 「まず、作ることそのものが魅力です。そして、ジオラマと融合させることで自分が育ってきた北の街の昭和の風景を再現することができる。あの頃の時代は戻らないけれど、自分で作ることでいつでも手の届く存在として側に置くことができる。まあノスタルジーですね。北軌道倶楽部のアジトにはレイアウトを考えた線路が常時敷かれた状態になっています。そこに人や樹木や草地や川や土手など風景を加えていくことで、想像の世界が広がっていきます。そうそう、今、会で『樹木ひとり一本運動』というのに取り組んでいます。一人一人が樹木を作り森を育てています。ジオラマの環境整備ですね。皆んなで作ることで、会員同士が交流し合い、切磋琢磨し合って、技術レベルも上げていきたいし、より素敵な模型とジオラマの融合の世界を作っていきたいと思っています。その過程が魅力です。若い人も増やしていきたいな。」 そして、実は「撮り鉄」も復活していました。 「撮り鉄はデジカメ時代になって復活しました。銀塩カメラ時代は現像して見ないと画像の確認ができませんが、今は出来をその場で確認できるのでとても便利で良いと思います。今でも車中泊の撮影旅(放浪の旅とも言う)を許してくれる嫁さんには本当に感謝しています。もちろん、キチンと1日一度安否報告はします。列車撮影、車中泊等全ての面でちゃんとコンプライアンスは厳守していますので、昔のようなエピソードはありません。でも、列車の遅れ、運休は昭和より多いですね。安全を考慮するとそうなるのかもしれませんが、『鉄道魂』と言うものが現場から消えかかっているのでしょうか…。時代は変化しているという事をつくづく感じます。」 永遠の鉄道少年靖樹氏は、終始にこやかに物語を話してくれました。 「どこかで常設展示していただきたい気持ちはありますが、車両1両が何十万円もする物ですし、輸送中壊れやすいジオラマもありますのでそう簡単なことではありませんね。」 是非「だて歴史文化ミュージアム」に横山靖樹コーナーを作って欲しい! 切に願います!
Rietty
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“窯の前の最期” を夢見て〜パン職人 武田 浩一氏の歩んだ道〜
今回の主人公は、『boulangerie ibox 弄月店』の店長でパン職人の 武田 浩一さんです。 浩一さんは山口県出身の55歳。 見かけも感性もとても若々しいお方です。 2023年4月OPENされた『boulangerie ibox 弄月店』は国道37号線の道路沿いにあります。 『社会福祉法人タラプ』を母体にしたこちらのお店は、構想2~3年を経て誕生しました。 そこに店長兼パン職人として抜擢されたのが浩一さんでした。 浩一さんは『ibox』に入社して12年、そしてパン職人としては30年のキャリアをお持ちです。 イラストレーターを目指していた若かりし頃のおはなし 「実は、若い頃はイラストレーターを目指していました。」 と、取材は唐突なお話から始まりました。 「え?フリーのイラストレーターですか!? 若い頃からパン職人を目指していたのではなかったのですね!」 「はい。僕は幼稚園の頃から内気で、新聞の折り込み広告の裏が白い紙を見つけては、絵ばかり描いている子でした。山口県の高校を出てから、18歳で東京の美術系の専門学校に入りました。友達と切磋琢磨をし、新しいものは何か?今は何を求められているのか?を常に探求しながら、プロへの道を模索していました。コンテストにも頻繁に応募していました。入選したりもして、そこそこに評価をしていただきましたが、それだけでは食べてはいけないよな…と、中途半端な自分に限界を感じ始めていたのが24歳頃でした。」 「未練はありませんか?」 「昔の仲間が活躍しているのを見ると、“もう少し頑張ってやっていればよかったかな…”とパン職人に転向したことを少し悔やむ瞬間もあります。いまでも家では時々絵を描きますし、そうそう!ここの店の看板の絵も、幟の絵も、必要に迫られて描きました笑 当時の絵はほとんど処分してしまいました。断ち切るためにね。でもね、正直後悔しています笑」 「もったいない!とっておけばこのお店に飾れたのに!」 「笑 そうですね。あの頃は『アンディ・ウォーホル』『バスキア』『キースヘリング』など、ニューヨークで活躍していたストリートアーティストに影響されていました。 なんていうか、ポップアートの世界って80年代のサブカルチャー的な音楽とも繋がっている。そういうものに刺激を受けながら、「いま、一番新しいものはなんだ!」と、プロのアーティストを目指す友人たちと語ったり、試したりするのが楽しかったですね。」 パン職人として立つと決心したこと イラストレーターの道を諦めようと考えていた浩一さん。 ある日、パン職人の募集広告に目が止まりました。 「いきなりパンですか?」 「はい。パンと絵との間に共通点を感じました。絵は白い紙にゼロからモノを作り出す作業です。そしてパンも同じく何もない作業台に粉を乗せるところからモノを作り出す作業です。どちらも『ゼロから作る』というところが共通していました。」 「なるほど〜。だから抵抗なくこの世界に入れたわけですね。」 パン職人としては2年おきくらいに店を変え、その店の良いところを学んでこられました。 例えば、東京の自由が丘では、全国展開をしているパン屋で働いたそうです。 「様々な形態で店を出している会社でしたが、僕がいたところは粉から作る店だったのがラッキーでした。そこには10年いました。その後、大好きな湘南地域の鎌倉・葉山・藤沢・逗子などの有名店でパン作りの技と歴史を学びました。鎌倉ではチーフを任されていました。」 「湘南が大好きだった浩一さんが何故、北海道にやって来たのですか?」 「たまたま山口の実家に一時帰省していた時、自由が丘のパン屋でお世話になった人に声を掛けられたのです。『いい話があるよ』って。それがiboxのパン職人を募集しているという話でした。その人は伊達市出身の人でした。」 縁とは不思議なものです。 山口県出身の湘南好きな人が、最初にパン修行をしたところで出会った人に誘われて、今は北海道の伊達市にいるのですから。 『boulangerie ibox 弄月店』店長としての浩一さんがが目指す店とは iboxのパンは、今まで修行して来たパン屋のベスト版的なパンだと言い切った浩一さん。 「いろいろな嗜好の方に美味しいと感じていただけるようにバラエティーに富んだラインナップになっています。でも強いこだわりは『本物であること』。例えば、クロワッサンならばフランスの伝統的な技法とレシピで作っていますし、バケットもベースはメソポタミア時代から続くフランスの伝統を大切にした作り方ですし、フォカッチャならばイタリアの伝統的なレシピと技法で作っています。伝統と歴史を大切に、決して色褪せない本物を追求しつつも、やはり地域性も大切にしなければいけないと考えています。それぞれの伝統を重んじながら、どれだけ地域仕様にアレンジできるかが勝負どころです。そして、美味しいということを一番大切にしたい。」 思いがけず壮大なお話が飛び出し、すっかりのめり込んでしまった筆者でしたが、究極の答えにストンと納得してしまいました。 ものすごくシンプルで真理であると思いました。 「材料にこだわる」「地元食材を使っている」「健康にこだわる」「添加物は使わない」というお話は今まで色々なところで伺ってきました。 当然、この言葉の背後には「だから美味しい」と続くのだと思いますし、素晴らしい理念だと思っています。 ところが 『美味しいということを一番大切にしたい』 という答えを、ストレートに伝えてくれた飲食店さんは意外と少なかったことに気づきました。 よく考えれば当たり前の台詞に、目から鱗の気持ちになった筆者でした。 伝統と歴史を重んじる浩一さんの姿勢は 『長年受け継がれて来ているものは美味しいからだ』 という実感と自信の表れなのでしょう。 「boulangerie ibox 弄月店」はね、 街の中で人の集まる中心にiboxがあるといいなと思っています。 だから、月一で『ふくろう市』というタイトルで イベントも開催しています。 店の知名度をもう少し上げたいですし。 それとね、 パンも美味しいけれど珈琲もめちゃくちゃ拘っていますよ! 恵庭の「珈琲きゃろっと」という店の物なのですが、 豆はもちろんのこと、マシンのセッティングもすごいこだわりようです。」 確かに、マシンの珈琲でこれだけ美味しいものは正直経験したことがありません。 本当に美味しい! 「それと、弄月店ができる前、だて道の駅に出店したことも大きかったです。あそこは食材が実に豊富に揃っているので選ぶのが楽しい。基本は地産地消です。でも『美味しいこと』にはこだわるので、地元以外のものも取り入れます。」 浩一さんが迎えたい最期とは 「どんなお爺ちゃんになりたいですか?」 と質問してみました。 「お爺ちゃんになれば、たぶんここは退職をしているから、その時は自宅のパン屋で仕事をしながら死にたいな。ある日、パンを焼いていたらね、タイマーが鳴るんです。でも僕は動かない。そのことに気づいた弟子が覗き込むと僕は死んでいる。最後に焼いたパンを取り出し、弟子たちがみんなでそのパンを食べる。みんなでってところが大事。そんなストーリーが僕の中では出来上がっています。」 泣きそうになりました。 その姿が映像で浮かんだからです。 そして、イラストレーターの道に今でも未練を感じていると語っていた浩一さんはもうそこには居ませんでした。 最期はパン職人として死にたいと語りました。 良かった…。 心からそう思いました。 取材の間中、絵本を捲るような物語をお聴きし、歩んでこられたその道を振り返りながらも、しっかりと最期を見ているお姿とパンが重なりました。 浩一さんが捏ねた全てのパンを味わってみたくなった筆者です。 ―boulangerie ibox 弄月店 情報― 〒052-0013 住 所 伊達市弄月町59-35 定休日 月曜日(不定休あり) 電 話 0142-82-8310 E.mail takeda.kouichi@tarap.org
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