
心の伊達市民 第一号
【鉄砲洲神社の例大祭】
5月は鉄砲洲稲荷神社の例大祭であるが、今年は「陰祭」なので、神輿の渡御は無い。
でも行くところも無いので、5月1日に行ってみた。
ところで「鉄砲洲」とは奇妙な名前なので、調べてみた。
すると『隅田川の河口西岸で東に佃島があり、西は築地である。鉄砲洲の名称はこの地がが砂州であった1624年頃、幕府の鉄砲方の井上氏・稲富氏により大筒の試射場が置かれたことに由来する』とあった。古くからの地名には歴史があるので、全国的に簡単に「中央区」などの名前を使用しないようにして欲しいものだ。
鉄砲洲稲荷神社の歴史を調べてみたら、『生成太神(いなりのおおかみ)は1554年に始まる足利義輝の治世に形成された、京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)である。平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り・・・』
『万有の命を行かし成したまえる大御親生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものである。その後、埋め立てが進み現在の京橋辺りに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子宗敬者の願いによって、新しい海岸であった現在の新京橋へ遷座し八丁堀稲荷神社と称した』。
『室町末期に徳川幕府が開かれていよいよ埋め立てが進み、1624年、これまた氏子宗敬者の願いによって今日の鉄砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎を築いた。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御遷座の地に湊があったからである』
『江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物質は鉄砲洲の湊に入って来たため、鉄砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお「冬至開運祈願祭」に授与する「金銀富貴」の神札は日本中の人々から俳戴されている』。
本殿正面の両側には、立派な狛犬が控えている。
この狛犬の作者も分かっていて、昭和11年5月に奉納石工の山口金太郎、相田松太郎、若山菊松の3名で制作した。この形はいわゆる護国系の型の狛犬達というそうだ。
そこへ警察官がやって来た。私は「警察官もお参りするんだー」と思って見ていた。
するとその警察官は「賽銭箱」を熱心に覗いていた。
どうやら賽銭泥棒がなにか仕掛けでもしていないかと、調べているのだろう。
狛犬の左手には、「二宮金次郎」の像が立っているが、最近は「二宮金次郎」は、あまり人気がないようだ。
その理由は「児童の教育方針にそぐわない」、「子どもが働く姿を勧めることはできない」、「戦時教育の名残という指摘」、「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」などがある。
最近の二宮金次郎像が座った理由を「歩きながらスマートフォンを操作する行為を肯定しかねない懸念や、歩いて本を読むのは危険だなどという市民の声も聞き座像にした」と、寄贈した団体代表のコメントがあった。
私の関係しているベトナムの会社は、ホーチミン市の本社に正統派の「二宮金次郎」の像がある。日本で嫌われて、ベトナムで安住の地を求めたか?
本殿の右手に水桶が積み重ねられている。
そして手桶には「六番組」と書かれている。これが何かを調べてみた。
なかなか分からなかったが、やっと分かったのが次のような説明だった。
「江戸消防記念会」という名の組織があり、会の概要は『今からおよそ三百余年前の享保3年(1718年)徳川幕府八代将軍吉宗の時代、時の町奉行大岡越前守忠相の唱導で「いろは四十八組」の町火消が江戸に誕生し・・・』
『さらに翌年、本所・深川に南・北・中の十六組が生まれました。第一区六番組が「す組」です。神田明神の「い組」から始まって、時計回りに「ろ組」、「は組」となって「す組」が最後になります』とあった。
境内には区内唯一の富士塚がある。これは富士山の熔岩を用いたもので、頂上には「末社鉄砲洲富士浅間神社」が鎮座している。
この鉄砲洲富士浅間神社は1790年に築造され人気が出た。「江戸名所図鑑」や歌川広重の「絵本江戸土産」にも登場している。
この富士山は東京でも色々な神社にあり、富士山へ行けない人のためのもので人気があった。現在は登山口の鳥居の前に、「危険なので登山禁止」の札が立っている。
我が家の近くでは「浜離宮恩賜庭園」の中にもある。
日本人は富士山が大好きなので、全国的に富士山を使ったものが多くある。
「富士見通り」など、その代表例である。
(おまけの話)
今年の例大祭は「陰祭」なので、神輿の渡御は無い。
その代わり、陰祭の時でも神社の神楽殿で「子供歌舞伎」は行っている。
今年は5月5日(月・祝)が公演日だったので、開場時間の午後1時に間に合うように出掛けて行った。
すでに20人以上が並んでいた。1時になり、公園の方から子供歌舞伎の一行がやって来た。狭い境内はギューギュー詰めで、最初に山本区長の挨拶があった。
1時30分になり「口上」を小学5年生の女の子が行ったが、長いセリフを見事に述べた。
中央区は江戸時代から芝居の街として知られていて、江戸歌舞伎の発祥の地である。
その文化を継承するべく、平成19年に「子供歌舞伎」が旗揚げされた。出演者は区内の子供から公募され、大人達は「新富座連中」として、三味線・唄・お囃子を担当している。衣装・大道具・振り付けは本職に依頼している。
今回は第17回 鉄砲洲稲荷神社例大祭奉納公演で、演目は3本である。
1本目の演目は「寿式三番叟」で、舞がメインであった。小学3年生と4年生の2人の男の子だった。
2本目は「義経千本桜」で、静御前は中学1年生の女の子、佐藤忠信は小学校6年生の男の子だった。「兄の頼朝との不和に悩む義経は、このまま自分といては危険だからと、愛しい静御前を残して京を離れる場面」を舞踊仕立ての一幕で演じた。女の子は中学1年生ともなると、色気さえ出ていた。
しかし入場前から立ち続けて1時間15分も経った頃、足が痺れて立っていられなくなった。やむを得ず立ち見の場所を離れたが、境内は観客で動きが取れず、外に出るのに苦労した。でも貴重なものを見せてもらった満足感が残った。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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