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紫禁城

北京市内、有名な天安門をくぐって北へ進むと、故宮の正門に相当する「牛門」に突き当たります。現在は「故宮」と呼ばれているのが、かつての「紫禁城」です。1406年、明の永楽帝によって建てられました。以後、明と清の歴代24人の皇帝の宮殿として使われました。ラストエンペラーも幼少期はいた訳で…。

東西に約750メートル、南北に約960メートルの広大な敷地は、およそ10メートルの城壁と約50メートルの幅の濠で囲まれ、大小合わせて70以上の宮殿が完全な形で残されています。

この紫禁城で、血塗られた行動に走ったのが、清朝末期に絶対的な権力を握った西太后ですわ…。

西太后は、満州旗人の家に生まれて、少女の頃から飛びぬけて美しかったらしいです。その美貌が時の皇帝の目に留まって妃候補に選ばれ、帝の子供をもうけます。帝に后はいたんですが、子宝に恵まれなかったから、国内から美女を集めて愛妾としたのさ…。

その後、帝が熱病におかされると、西太后は帝が昏睡状態に陥る寸前に尋ね、自分の幼い子供を後継者に、自分を摂政に指名することに同意させ詔書を作らせた…。

これによって、同治帝が皇位を継いで、彼女は摂政として絶大な権力を手中に収める事に成功した。ただ、帝の死は西太后しか近づいていないので、彼女が息の根を止めたのではないか?とも言われています。

同治帝が17歳になって妻を迎えると、西太后はいったん帝に政権を引き渡した…。ところが同治帝は2年後に天然痘にかかって亡くなります。その死も「殺せ!殺せ!殺してしまえ!」が口癖だった西太后の仕業だったのではないか?とみられています。

と同時に、身ごもっていた后に「夫を本当に愛しているのなら、夫について死んだとしてもおかしくない」と迫り、服毒自殺に追い込みます。もし、お腹の子が男の子なら、息子を失った西太后は実権を失う事になるからで…。

そして、同治帝の後継者として、自分の妹の子を即位させ、その反対者はことごとく追放したそうです。また、その光緒帝が優しい東太后になついているとみるや東太后まで殺してしまう…。

この西太后が絶対的な権力を握った50年間は、数々の残忍な行為が繰り広げられた場所が紫禁城、今の故宮で、呪いと怨念は今でも続行中なのではないでしょうか…?

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