■謎が深まる消えた町を行く(1)
この町に来て、時々話に出るのが『オーケー』という言葉である。 私は当初はこれはローマ字のOKだと思っていた。
ところがこの字は『黄渓』と書くことが分かった。
伊達市に住むK社長は子供の頃、この黄渓で育ったという話を私は何回も聞かされた。聞くも涙の物語である。
そこで私は今は閉山となっているその黄渓に行ってみようと思い立った。
黄渓にあったのは硫黄鉱山であり、国策会社の北海道硫黄?が経営していたが、昭和48年に閉鎖されたと聞いた。
その黄渓は壮瞥町にあるので、元壮瞥市役所職員のHさんをガイドにお願いした。午前9時に岩倉果樹園駐車場に集合する。
参加者は私とHさんと、子供の頃に住んでいたという築炉屋のKさんの3人である。
オルフレ峠近くまで車で行き、そこからは徒歩で山道を行く。15分くらいで少し広い場所に出る。
茂った木々の間から、僅かに建物や基礎のコンクリートの跡が見える。古い写真を出して見比べるが、全く分からない。
そこで、また先に進む。300メートルくらい行くと、更に広い場所がある。
ここがバスの終点だった場所ではないかと想像する。
写真を見ながらもと来た道を戻る。
先ほどの場所で、壊れている建物のブロックの残骸を見る。
私は『入口らしきものが前面に2ヶ所ある。これはトイレか風呂に違いない』と言うと、Hさんは写真と見比べて、『これは共同浴場だ』と言う。
どうやら間違いない。それから判断して、上の方に見える残骸は黄渓小学校に違いない』と、次から次へと残骸が判明する。
推理小説を読むよりよっぽど面白い。
最初に私が思っていた場所はバス停ではなく、工場の事務所の跡地であった。この話は1回では書き切れないので、『続く』としたい。
(おまけの話)
黄渓で生産されていた硫黄は主にマッチの軸の先に付いていたあれである。
その硫黄も石油時代が到来し、石油精製の際の不純物として大量に出て来るようになって、鉱山から掘り出す硫黄は競争力がなくなり衰退して行く運命だったのを黄渓で働くみんなが知っていた。
昭和47年にその黄渓で大火災が発生し、工場設備は全焼した。
当時のことを知っている人に聞いたら、早朝に工場の一番下のベルトコンベア付近から火が出て、その火は瞬く間に硫黄が残っているゴムのベルトコンベアを伝わり上に駆け上り、下から上まで火の海だったそうだ。
ところが、すぐに工場設備を新規に設備したのに、翌年には鉱山を閉山している。これは経営的に考えると理に合わない。なにかそこにあるように思った。
私は放火ではなかったと考えたが、それでは閉山するのに再建するのも変である。
謎は深まるばかりだ。