
ホテルマンの幸せ
昨日の休日。
おはようございます♪
昨日葉っぱフミフミと2人で荷物運びのお手伝いをしてきました。
3往復の作業を終えた後、遅いランチタイムで伊達市内にある「突撃ラーメン」に行きました。
突撃ラーメンの辛いラーメンが大好きなのでそれを食べに行ったのです。
仕事の日には辛いラーメンで汗をどっぷりかいてしまうので休日じゃないと食べられないのです。
で、醤油にしようか…とか味噌にしようか…などと話していて「チャーハンも食おうぜ!!」とかウキウキしながら行ったら…
15:30過ぎだったので『準備中』の札がかかっていました…
ガックシ…。
で、気持ちを前向きに『ならそば順に行って天丼とそば大盛りで食おうぜ♪』と言いながらそば順に行くと…
『準備中』の札がかかっていました…。
15:30過ぎだったからです…。
休日の『Wガックシ』でした…
なので絶対に準備中じゃないイオンの中に入っている『ケンタッキーフライドチキン』に行きました。
もう2回分のガックシの分まで食ってやりました!!

ツイスターとポテト2個づつと味比べ3ピースづつとアイスなコーヒーです☆
あっと言う間に食べてしまったのです…
これじゃ普通~~~~~のランチなので2回分のガックシの分まで至らないのです!
なので…
敵にやられて敵を撃つマンガのイメージで…
(てきとかたきって同じ漢字なんですね!!)
『これは…、閉まっていた突撃ラーメンの分だぁ~~~~~っ!!』
パクっ♪
『そしてこれは…閉まっていたそば順の分だぁ~~~~~~っ!!!』
パクっ♪

って感じで追加で同じ味のツイスターとチキンを食べました…☆
超お腹一杯になってしまいました。
で、葉っぱ兄さんに『うどん食って帰るか?』と聞いたら…
『イヤぁ~~~~~~~~っ、お腹キツいっス!!!』とめずらしく断わられました…☆
まだまだ修行が足りんなぁ~~と思いました。
そんな昨日の休日でした…☆

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“ 一直線の縦糸 ” 〜 「手ぬぐい工房 さくら」代表 咲良あき の生き方
待ち合わせ場所を訪れると、華奢でたおやかな女性が立っていました。 その立ち姿が手ぬぐいを染めるという作家さんのイメージと重なり、「きっとあの方だ!」と直感したのですが…。 取材はまさかの展開になっていきました。 『手ぬぐい工房 さくら』代表の咲良あきさんは、2020年8月1日に洞爺湖が見える町に移住し、2021年11月には工房を開かれました。 すごいスピード感です。 「ただただ好き!というだけで突っ走ってきました」。 それまでの18年間は大阪で接客業に就かれていたそう。 最前線での接客業を退いた後は、運営・人事・教育などを担当されていたそうです。 まさにキャリアウーマンとして奔走されていました。 「順風満帆で活躍されていたように見えますが、なぜ、そのお仕事を辞めて洞爺湖へいらしたのですか?」 「ほかにどうしてもやりたいことがあったのです。ところが、会社を辞めた直後の世界的なコロナ禍。その時はその道を断念せざるを得ませんでした。洞爺湖に移住したのは、仲間が先に来ていたからです」。 「ところで、その、どうしてもやりたかったことって何ですか?」 「250kmのレースです!」 「え?え〜っと…それは、車のレースですか?」 「いえ、テント以外の1週間分の食料や装備、水を背負って走る自給自足のレースです。1週間で250kmを走ります。 会社を退職した時に目指していたのは2020年4月にアフリカのナミブ砂漠で開催されるレースでした」。 その突拍子もない答えに、目が点になりドギマギする筆者…。 詳しくお聴きするうちに、『手ぬぐい』とはどんどんかけ離れて行ってしまいそうになりました。 そしてさらに、筆者の混乱に追い討ちをかけるようなお話も飛び出しました。 「21歳の時にうつ病を発症し、その後は癌、バセドウ病になりました。 大病をし、治療を受けながら仕事を続ける中で気づいたのは、『明日が当たり前にあると思ってはいけない』ということでした。やりたいことがあってもやらない理由を探し、今度にしよう!と後回しにしていたことが多かった…。 だから、病気がわかった時、命あることへの限りない感謝と共に、『やりたいと思ったらやる』『会いたいと思ったら会う』と心に決めました。そんな時に『250kmアドベンチャーレース』の存在を知りました。 『このレースに出たい!』と瞬間的にそう思いました。強い想いはそれを引きつけると言いますが、その後、まさにそのレースに挑戦している人と出会ってしまったのです」。 そんなまるで一話のドラマのような出会いを経験し、主治医からレース出場の承諾書をもらい、トレーニングを重ね、咲良さんはニュージーランドで行われたレースに出場を果たしました。 けれども結果は、レース2日目でタイムアウトによるリタイアをしてしまいました。 →その時の様子をドキュメンタリー映画「LIFE TREASURE 2」で観られます。(現在期間限定でYouTube にて無料公開中) https://www.youtube.com/watch?v=v5i6MBXc4Zw&t=4042s そして、リベンジをしようと目指したナミブ砂漠大会がコロナ禍により中止。 世界情勢など様々な理由が重なり、未だ再挑戦できていない状況が続いていると言います。 「それにしても病気が完治しない状態でなぜ、そのような過酷なレースにチャレンジしようと考えたのですか?」 「そのレースの存在を知った時、『元気になってこのレースで走りたい!』と1%ワクっとした気持ちを感じた自分に正直になりたかった。と同時に、その頃は自分の病気を人生の汚点だと思って生きていたので、私の挑戦が誰かの勇気に繋がるとしたら是非とも挑戦したいと思いました」。 あまりにも壮絶・壮大すぎて、お話しについて行くのに必死でしたが、次第に咲良さんと筆者の共通点・共感点が増えて行くのを感じていました。 「若い頃は一人旅が好きでした。手ぬぐい好きになったのはその頃です」。 訪れる先々で手ぬぐいを購入することが、 旅の一つの大切な目的にもなっていたそう。 「竹富島が大好きでよく通っていました」。 海好き、島好きも共通点です。 「はじめて手ぬぐいに出会ったのは2016年に瀬戸内国際芸術祭を訪れた時でした。 もともとアートには興味がありました。ただ、そこで手ぬぐいを手に入れたのは良いのだけれど、一体どうやって使うの?買ったけど私本当に使うの? そんな自問もあり、手ぬぐいの使い方などについて色々調べたりしていました。 ところがいざ使ってみるど、使うほどに洗うほどに柔らかく優しい肌触りになっていく。 そんな手ぬぐいがもう可愛くて可愛くて!すっかりとその魅力にはまってしまいました。集めた手ぬぐいは100枚くらい。それらの手ぬぐいたちは、その時の旅の記憶が蘇る愛おしい存在であり、ホッとする存在になっていきました」。 「なるほど。手ぬぐいとの出会いはわかりましたが…、なぜそれが作家への道へと進んで行かれたのですか? 全く異業種のご出身なのに…」。 「洞爺湖に移り住んだ時、いつもの旅先のようにお気に入りの手ぬぐいを探す中、洞爺湖の手ぬぐいはまだ買っていないということを友人に話したら、『自分で作ればいいじゃない?』 と言われました。なるほどそうか!やってみよう!となったのです」。 「え?そんなに簡単にやる気になったのですか?」 自らを猪突猛進型と認める咲良さん。 ここでも、やりたいからやる!となったわけです。 「先の計算ができない性質なんです笑 思ったら一直線だから」。 ああ…。 なりふり構わず。 計算せず。 一直線に突っ走る。 なんだか筆者と同じ匂いがすると思ったのは、どうやらこういうところだったようです。 染めについて並々ならぬ努力で独学をし、着実に実力を伸ばしてきた咲良さんは、ワークショップなどで講師活動も始めました。誰かに何かをレクチャーすることは、前職時代に培ったスキルでした。 内容が変わっても、楽しくわかりやすく伝えるスキルは共通していたのでしょう。 「染めの技術は学べたとしても、デザインセンスはそう簡単には育ちませんね。 何か芸術的なバックボーンをお持ちなのですか?」 「アートには元々興味がありましたので、手ぬぐいとの出会いの場となった瀬戸内国際芸術祭を訪れたわけです。 実は子供の頃からバレエをしておりまして、仕事としてジャズダンスのダンサーだった時期もありますし、ネイリストだった時期もあります。 もしかしたら芸術的に表現することの素地はあったのかもしれません」。 染めの原料は、環境に優しいベンガラを用いているそうです。 仕入れ先は、地元大阪。 生地もまた大阪から浴衣にも使用されている、手ぬぐい生地の『特岡』を用いているそうです。 「きめ細かい織り目が特徴の生地です。けれども使い込むほどにどんどん柔らかく優しく育っていく素材なのです」。 手ぬぐいが育つ。 素敵な言葉です。 なるほど。 手ぬぐい作家としての顔。 250kmレースのランナーとしての顔。 それぞれについては理解できましたが、今一つそれを繋ぐ糸が見つからず、さらに取材を続けさせていただきました。 …というよりも、咲良さんの生き方に強い興味を覚え、 もうすでに取材の域を超えていた筆者でした…。 すると、再び壮大なテーマを口にされた咲良さん。 「私、子どもの頃から『平和』にものすごく興味がありました。 小学生の時にイランイラク戦争が起こり、戦争や平和についての新聞の切り抜きを集めていた記憶があります。 その理由の一つには、学校が平和教育に熱心な学校だったこともあります。 今は、残された人生は平和に繋がることにも関わりたいとも考えています」。 またもや新たな情報に混乱する筆者…。 と、ここで、これまでの咲良さんのお話しを整理してみました。 ・病に向き合った20年間 ・旅を通した手ぬぐいとの出会い ・手ぬぐいの糸が手繰り寄せる旅の思い出 ・命への感謝と賛歌 ・平和への祈りを手ぬぐいに託す活動 ・当たり前ではない明日と今日への感謝 ・アート活動としての自己表現である染め ・誰かの勇気に繋がるならばと挑戦した250kmレース 取材中、急いで頭の中で整理し終えた後。 あ! 見えた! そう感じた瞬間がありました。 それは、咲良さんがバックの中に持参されていた ご自身が染めた普段使いの手ぬぐいに触れさせていただいた時でした。 その手ぬぐいは、横糸、縦糸がしっかりと織られているパリッとした『特岡』の生地で作られていました。 咲良さんが言うように、きっと洗うほどに肌に馴染んでいくのだろうと想像できる触り心地でした。 指への糸の感触を確かめた時、縦横直線の糸が織りなす手ぬぐいそのものこそが “ 咲良あき” だと気づきました。 一見器用そうに見える多才な方ですが、病気がちな華奢な体で、何にでもまっすぐ命懸けで取り組んできた1本1本の縦糸そのものが” 咲良あき “ であり、それぞれのシーンで彼女を支えてきた人々は横糸そのものであるということを。 一枚の布となったときの、そのしなやかさと、芯の強さ。 そして染めるという技法でさらなる命と愛を吹き込まれた『さくら工房の手ぬぐい』こそが ” 咲良あき “ なのだということを。 そして、それはきっと、真っ直ぐに平和に繋がっていくということを。 触れさせていただいた手ぬぐいから感じ取っていました。 最後にあきさんはこう話してくれました。 「平和についても命についても、 当たり前の未来はないと手ぬぐいを通して伝えたいですし、対象がなにであっても『大切』にする心を手ぬぐいを通して伝えたいと考えています。 染める時にはその一枚一枚を手にしてくださる方に寄り添えますようにと祈りを込めています」。 丁寧な語り口調で話してくださった1時間。 心が洗われたような取材の時間となりました。 ―手ぬぐい工房 さくら 情報― 代表 咲良あき(さくらあき) Instagram https://www.instagram.com/sakura.tenugui オンラインショップ https://sakurahappy.thebase.in/ [起業講座について準備中] ホームページや名刺・チラシなどの作製、イベント出展やワークショップ開催方法、起業するためのマインドが学べる『ハンドメイド作家さん向けの起業講座』をドキュメンタリー映画「LIFE TREASURE 2」監督・プロデューサー小泉雅央と共に準備中。 *開催日程など詳細は【手ぬぐい工房 さくら】のInstagramでお知らせ予定
Rietty
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川のほとりの癒しのお花屋さん “青葉“
こちらは気門別川のほとりにあるお花屋さん「青葉」さんです。 20年前から変わらぬ可愛らしい笑顔で店主の知子さんが迎えてくださいました。 今の場所に引っ越されて8年目。 2001年にオープンされた時は山下町にお店を構えていらっしゃいました。 その時はまだお勤めをされていたので、そのお休みを利用し、土日のみの営業だったと言います。 素敵なランプは、おそらく洞爺湖のglaglaさんの作品。 「若かったからできました。」と、当時を振り返る知子さん。 でも、それだけではない起業への強い想いを感じました。 同時に、ものすごい努力だったのだろうと想像します。 壁をさり気なく飾りたい方に~ 人気の多肉植物や、可愛らしい花瓶も並びます。 「お花屋さんというお仕事は、実は子供の頃からの夢ではなかった。」というお話しには驚きました。 一旦は札幌で就職をなさった知子さんは、一念発起してお花を学ぶ学校へ通い始めました。 「その時もなんとなく花かな~という程度だった。」と。 学校卒業後は、お花屋さんに就職。 3年間の実践的な修行が始まりました。 初めはそれほど強い思いでお花の道に入られたのではない知子さんが、とても厳しいお花の仕事を経験されてからどんどんのめり込んでいったというストーリーが、私にはとても興味深く聞こえました。 「今日はお花が少なくて…。」 とおっしゃった知子さん。 お互いを引き立て合う様なラインナップで素敵です! きっと、3年間は自分自身の本気を試す期間だったのだと思います。 もちろん、知子さんは本気でした。 というより、どんどん本気度が増していきました。 だからこそ、お勤めがあるにもかかわらず、お休みの日にお花屋さんになるという大胆行動を起こされたのだと思います。 窓の向こうには川が流れています。 右端が空いているのは筆者が連れて帰ったからです ^^ ハンショウヅルという植物を購入しました。 「川が好きだからこの場所を選んだ。」とおっしゃる知子さん。 “青葉”の店名の由来も尋ねてみました。 「洞爺湖畔の仲洞爺あたりの道が大好きなのです。 木のトンネルが続いていて、そこからの木漏れ日を感じたり木々の隙間から見える洞爺湖の水に癒されたり。 だから、緑にまつわる名前にしたかったのです。」 なるほど~! あの道をイメージしてのお名前だったのですね! とっても納得してしまいました。 そんな理由もあって、“青葉”さんでは、お花はもちろんですが枝物やグリーン系のラインナップに力を入れていらっしゃるのだそうです。 確かに、店内はカラフルというよりも緑色が多いです。 いかにも、緑のトンネルがお好きな知子さんらしい♡ 緑好きなお客様にもとても喜ばれているそうです。 これは、“青葉“さんならではの大きな特色ですね。 面白い植物も並びます。 育て方も相談に乗ってくれます。 シダ類! 涼しげです。 そして。 「“コロナ禍なので、おうち時間を明るく過ごしたい“ とお花を買いに来てくださる方が実は増えているのです。 そのお気持ちが本当に嬉しいです♡」 という素敵なお話も飛び出しました。 「ゆくゆくは、アンティーク雑貨と植物を組み合わせた商品も作っていきたい。」 と、今後への想いも語ってくださいました。 アンティーク好きとしては本当に楽しみです。 最後にこのお店を通して、皆様にお伝えしたいメッセージはありますか? とお尋ねしました。 「こんな時だからこそ、植物の癒しの力を感じていただきたくて、気軽に入れる雰囲気作りを心がけています。 雑貨も置いていますので、お気軽にご入店いただけたら嬉しいです。 そして販売するだけでなく、アフターケアのことなどお花の相談所的な感じでいろいろご相談いただけたら嬉しいです。」 取材時もちょうど、お花の寄せ植え相談に訪れたお客様がいらっしゃっていました。 大滝の方の手作り葉書です。 ハンドメイド作家さんの作品も並びます。 どの花よりも輝いていた知子さんの笑顔でしたが、とっても恥ずかしがり屋さんなので写真はパスでした ^^ 実は、筆者が最後に気づいたことがありました。 それは、”青葉”さんの心地良さは、自然の中にいる状態に近い雰囲気だからだということ。 きっと、自然好きなオーナーの知子さん・植物たち・店舗・雑貨全てが作る空気感なのでしょうね。 川のほとりの “青葉“さんは、全てが癒しの空間でした。 青葉 住所 伊達市錦町15-2 電話/Fax 0142-21-1112 Open. 10:00~18:00 Close. 月曜日 http://aoba-flower.exblog.jp ※配達で不在の場合もあります。お出かけ前にはお電話でお確かめください。 ※ 記事の内容は取材時の情報に基づいています。(取材2021年)
Rietty
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ブナの森の中にある小さな菓子工房 aimer -エメ- [ 黒松内 ]
自然とつながるおやつ aimer -エメ- は、ブナの北限といわれる黒松内の森の中にある菓子工房です。 真っ白な世界の中にぽつんと佇む可愛らしい小屋。中に足を踏み入れると、暖かくてほっこりしました。美しい木々の雪景色を眺めながら、心にも身体にもやさしいおやつを頂くことができます。 おやつは全て植物性。乳、卵不使用、更にオーガニックで、アレルギーの方も安心して頂けます。 玄米ケイク[ガトーショコラ]を頂きました。クランベリーがマッチした、ふわふわしっとりなケーキ。玄米からできているとは想像できませんでした。 メニュープレートには、「自家栽培の自然農法による玄米がベース」と書かれています。なんと、店主自らお米を作っているというのです! 店主の杏紗(あずさ)さんにお話を伺いました。 杏紗さんが手にしているのは、森から採ってきた”松ぼっくり”。この中から松の実を取り出し、おやつにも使います。 「お花とか木の実とか葉っぱとか、なるべく自然の中から採ってきたものを取り入れるようにしています。そのまま入れたり、上にのせて焼いたり」 「最初は全てに手が回らなかったので、まずはアレルギー対応、次に自分で米を育ててそれを使う、そして今、自然のものを取り入れるという段階にきています」 『自然が好き』がベース 「自然が大好きで、自然ありきの自分の人生という感じです」 お店を始める前は、製菓に携わっていたわけではなく、自然環境調査の会社で事務をされていたという杏紗さん。 「元々は(お菓子作りに)自信もスキルも全くなかったんです。でも健康的な食には昔から興味があったのと、子どものアレルギーというモチベーションのみで、ここまでやってきました」 「上の子がアレルギーで。お米がダメだったので、離乳食もキヌアとかアマランサスのおかゆからデビューしたんですよ。セレブ離乳食でした。(笑)」 お子さんは卵、小麦、ゴマ、さらには魚や米まで、ありとあらゆるものがアレルギーだったそう。お子さんのために、お菓子作りを始めたことがきっかけとなり、工房をオープンするまでに。2018年4月に七飯町大沼で活動を開始しました。 「大沼はとても良いところでしたが、さらにワイルドな環境で……と思っていたんです。容赦ない厳しさと相まって、深く美しい自然に囲まれながら暮らせるような場所を探していました」 水が綺麗で森がいっぱいというイメージがあった黒松内に1年半ほど通い、今のお店の場所を見つけました。 「森の中にあるということを大事にしたかったんです」 2023年の春分の日、念願叶い森の中に工房兼店舗がオープンしました。夏は緑が美しく、誰もが「良い場所……」と呟いてしまう素敵な風景。外の席でおやつタイムを楽しむこともできます。 おいしいの先にある豊かさの本質 ”からだにやさしい、おいしい、だけではない おいしいの先にある 豊かさの本質を感じられるような おやつを通じた暮らしをお伝えしていきます” 『おいしいの先の豊かさの本質』を見つめる杏紗さんが手掛けるのは、おやつだけではありませんでした。aimerには”ひつじ会員”なるコミュニティが存在します。なんと、お店に羊が現れるのです! 去年の夏、積丹の牧場から羊が4匹やってきました。数か月間、工房の横の草地でのびのびと暮らし、地域の人たちはふれあいを楽しみました。秋になり、可愛がられた羊が出荷されていきました。羊はお肉となって工房に戻り、杏紗さんの手で、丁寧に調理されました。そうして”aimer ひつじの謝肉祭” が開催されました。多くのひつじ会員が集まり、大人も子どもも羊料理を楽しみました。 「羊は、自分たちで食べて終わりってことではなく、地域の人とのコミュニケーションの一環なんです。地域の方々と関わり合うきっかけでもあり、生き物の命について考えるきっかけでもあり……」 杏紗さんは、出荷の日は涙が止まらず仕事が手につかなかったといいます。 食と命について考え続ける、aimerのひつじのストーリーは続いていくようです。”ひつじ会員”に興味がある方は、ぜひお店で聞いてみてくださいね。 「小さいお店だけど、これからもいろんなことを考えながら、仕掛けていきたい。来年はまた違う事を始めているかもしれません」 黒松内の道の駅から車で3分! お店の場所は人里離れた森の中と利便性の良い場所ではありませんが、自然を愛する人々、コアなファンがどんどん増えていきます。店主自ら生産者となり、さらに黒松内の自然の豊かさも詰め込まれたおやつ。アレルギーの人もそうでない人もみんなで一緒に、妥協なく美味しいものを食べられる、その喜びを感じられるお店です。 自然の中にある工房の美しい景色は、四季折々変わっていきます。店頭販売が大好きだという杏紗さんとお話しに、お店まで足を運んでみてくださいね。 森の中と言っても道路沿い、冬道でも安心です。 黒松内の道の駅から車で3分程度です。 自然とつながるおやつ aimer -エメ- 住所:寿都郡黒松内町字白井川4-81 電話:090-2056-3206 Instagram:aimer_hokkaido
misaki
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「B5(シ)の声を絶対に出すんだ!!」 カッコつけないカッコ良さ 声楽家 加藤亮子の諦めない生き方
今回の主人公は加藤亮子さん。 声楽家としての軌跡を追いました。 お話を伺ったのはグランドピアノが置かれたご自宅でした。 窓辺にはウルトラマンがいました。 棚には亀さんたち。 大きな窓からは空と海と夕陽が見えました。 「ウルトラマンは子供の時から好きで、特にウルトラセブンが好きです。お話が今見ても深いんですよ。怪獣とかも何故地球を攻撃するのか?とか。人間同士の信頼を無くせば勝手に滅んでいく…とかね。」 ふむふむ…。 なるほど…。 「亀は何かゆっくり可愛い。水の中を気持ちよさそうに泳ぐ様子、卵を産むときの様子、陸亀の孤高感、なんとも言えないのですが好きなんです。」 物語のプロローグは音大受験失敗から 小さい頃から音楽好きだった亮子さんが大好きなテレビ番組は、『ミッチと歌おう』(放送1963~1965年)でした。 これは、アメリカNBCの人気ミュージカル・バラエティー番組をNHKで放送したものです。 指揮者のミッチ・ミラー率いる26名の男性コーラスグループで、「クワイ河マーチ」や映画「史上最大の作戦」のテーマソングは日本でも大ヒットをしたので、筆者も覚えています。 そしてもう一つの番組は、『アンディウィリアムスショー NHK』。 便利な時代です。 オンデマンドで視聴することができました。 今観ると、とってもオシャレで温かくて面白くてカッコいい。 https://www.youtube.com/watch?v=mFPID7igH1c なるほど〜。 ストンと来ました。 なんとなくオシャレでカッコいい亮子さんのルーツがわかった気がしました。 さて、小学生だった亮子さんの元にある日ピアノがやってきました。 なんと、酔った勢いでお父様がピアノを買ってきたと言うのですから驚きます。 そしてお母様の勧めでピアノを習い出したのでした。 音楽家への道の第一歩でした。 ピアノ科を目指していた頃 「ピアノは高校三年生まで習っていました。音大を目指していたのですが残念ながら落ちてしまいました。ピアノは決して嫌いではなかったのですが、人前で弾くのは本当に苦手でした。本番になるとアガってしまうんです。」 通っていたピアノの先生は、受験に失敗した亮子さんに遠藤道子先生を紹介しました。 「当時、遠藤先生は札幌ショパン協会会長をなさっていて、ピアノの先生としては3本の指に入る怖い方と有名でした。だから、受験のためとは言えもう怖くて怖くて…正直嫌々でした。」 通い出してみれば案の定怒られてばかり。 「私からしたら『あの人上手いな〜』と思う人でさえ、ものすごく怒られているのですから、本当に怖い…。」 そしてとうとう。 「あなたみたいな生徒は初めてです!!!」 と、言われてしまいます。 今までの生徒さんは、直線的にどんどん上手になっていくというのに、亮子さんの場合は波がありすぎる曲線だったらしく、とうとう先生は呆れてしまったのでした。 ところがその怖い先生は、何故かとても亮子さんを可愛がってくれました。 しかも亮子さん本人にはまったく自覚がない可愛がり方。 それというのも、他の生徒さんには見せないプライベートな一面を亮子さんには見せていたのだそうです。 それは、他の仲間が「信じられない!」と驚愕するエピソードでした。 きっと、怖い先生に対してもガードや壁を作らない、お茶目で素直でカッコつけない亮子さんが愉快で面白かったのだろうと、筆者は勝手に想像しています。 「けれどもレッスンはとにかく容赦無くて…。初めから『あなたはピアノが下手!基礎からやり直し!!』と言われ、ソルフェーズの指の基礎練習の猛特訓を受けていました。ところがある日、その勉強中にピアノではなく声を褒められたのです。なんと、『あなた、声は出るわね!声楽科に転科しなさい!』と勧められてしまったのです。」 ついに、亮子さんにとっての転機がやってきました。 声楽家としての門を叩くことになったのです。 声楽科への転向 短大ではカナダ人の先生に声楽を学び卒業をした亮子さん。 なぜか小学校教員の道を選びます。 「10年間、教員として勤めました。子どもたちから『先生っていつも歌ってるね♪』と言われていました。自覚はなかったんですけどね。そんなこんなで、あんなに頑張って学んだ声楽から20年くらいブランクがあり、気づいたら40歳を過ぎていました。」 声楽から遠ざかっていた亮子さんに再びスイッチを入れたのは、娘さんのピアノの先生でした。 それはちょっぴりお調子者(失礼…)の素質が見えるエピソードでして…。 ピアノではあんなに人前でアガってしまうのに、なぜが歌ではアガらないとい亮子さん。 「ちょっと歌ってみたら?」 とさり気なく誘われてイタリア歌曲をいきなり歌ってしまいました。 「超楽しい! まだイケるかも♪」 スイッチオン! そしてこんなことも。 誘われて、小さな教会でTUBEの曲をノリノリで歌いました。 「めっちゃ楽しい!!」 そう。 久しぶりに人前で歌ったことが着火剤となってしまったのです。 これらがきっかけで声楽家としての火が再燃。 やっぱり人の前で歌うことが本当に好きなのだと実感した瞬間でした。 そうこうするうちに自宅で歌を教える様になりました。 「声楽を学んだとは言え、20年以上もブランクがある中で、ただ歌うのが好きというだけで人様に教えるのは正直不安でいっぱいでした。自分はまだまだ下手だと思っていましたし指導法にも自信がありませんでした。もう一度学び直したい!と、教室を探したのですがなかなか見つからず…。諦めかけたころ、ようやく東園己先生と出会いました。55歳になっていました。」 歌は筋肉です!! ようやく素晴らしい先生と出会い、レッスンをしていただけることになり、いよいよ初レッスンという日、なんと亮子さんは雪まだ残る早春の道で事故を起こしました。 「中山峠へ向かう途中、車がドリフトして路外に飛び出してしまったんです。ところが、なんと細い木2本に支えられ、体は無傷でした。そして偶然通りかかった方にドアを開けていただき助かったのです。木に支えられたこと、偶然通りかかった方が助けてくれたこと、体も無傷だったことなど、運の良さを感じました。」 ハプニングからスタートしたレッスンでしたが、東先生との出会いも運が良かったとしか言えないエピソードがありました。 「最初のレッスンで言われたんです。『あなたは癖で歌っている』と。おまけに『その癖を直すには2〜3年は掛かる』とも言われました。そして、歌いやすくなるための “体の使い方” も徹底的に直されました。先生のレッスンはとてもわかりやすく、学生時代には理解できなかったことが30年経ってストンと腑に落ちました。もう必死で学びました。するとその効果あってか、直すのに2〜3年はかかると言われた歌い方の癖が1年で『直った』と言われました。嬉しかったです。」 体の使い方?とキョトンと驚く筆者に。 「歌は筋肉よ!!」と答えた亮子さんは、おもむろに筋トレ式発声法の仕方の一つを教えてくれました。 今年でレッスンに通い始めて14年になりますが、自分の発声に少しずつ自信が持てる様になった10年目の頃、亮子さんはある目標設定をしました。 それは〜。 「トスカの『歌に生き恋に生き』を歌いたい!!」 でした。 それにはB5(シ)の音が出せる様にならなければいけませんでした。 そしてそれは無謀とも言える挑戦でした。 ところが奇跡は起きました。 65歳になった亮子さんに奇跡の日がやってきました。 B5(シ)の音が出たのです。 それまで何度も口にしていた「私って怠け者だから。お尻に火がつかないとやらないの」という台詞の意味がわかりました。 亀さんのようにのんびりと構えながら。 本当の本気が出るまで力をためるタイプ。 まるでウルトラセブンがジュワッと変身する様に。 力むことなく。 カッコよく。 おしゃれ。 だから女性から見てもちろん、男性から見てもカッコよく映るのだと思います。 最後に次の目標を伺ってみました。 「二つあります。一つは死ぬまでにオペラのアリアをできるだけたくさん歌いたいということです。もう一つは完璧だとは思わないで常に高みを目指すということ。どちらも絶対に諦めたくないです。こんなもんだと思ったらだめだと思っているんです。」 いざという時にウルトラセブンになれるように。 亀の様に辛抱強く。 梅番茶で喉ケアをしながら。 今日も亮子さんは歌っています。 「声をかけていただければ、たとえ、たった一人のためでも、どこにでも行きますよ〜!」 声楽家 加藤亮子 情報 洞爺湖芸術館FB https://www.facebook.com/toyakomuseumofart 加藤亮子 FB https://www.facebook.com/ryoko.kato.9699 Instagram
Rietty
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チャンスは逃さない! 進化しつづける人 〜『グルテンフリー米粉のお菓子と雑貨のお店 ま〜の』代表 沖本洋子さん
今回はもしかしたら知らない方はいないくらいの有名人。 『ま〜の』代表 沖本洋子さんにお話を伺いました。 まずは『ま〜の』の歴史から …とその前に、『ま〜の』の由来から〜 ま〜の はイタリア語・スペイン語で「指」という意味。 そこから解釈して、「指先からひろがる世界のイメージ」で名付けました。 なんと、弟さんが洋子さんへのプレゼントとして、プロの方にお願いして誕生したお名前でした。 〜2009年12月創業時 “いつきても誰がきても楽しめる街の小さな雑貨屋“『ま〜の』〜 2009年12月創業時は雑貨屋さんでした。 雑貨は今も少し取り扱いされていますが、当時は受託販売も行っていました。 ですので、今よりずっと商品が多い店を切り盛りされていたのです。 とっても賑やかな店内。 多くの作家さんの作品を受託販売されていました。 店内をキラキラに飾るサンキャッチャーは洋子さんご自身の作品です。 こちらのサンキャッチャーのほか、ご自身も各種アクセサリーなどを制作する作家『ゆりりん』として活動され、近隣の各種イベントなどにも出没するタフぶりを発揮されていました。 『ゆりりん』作品の制作時間も確保しながら店舗の切り盛り。 そして二人の子育て。 その忙しさといったら、側で見ていても目を見張るほどでした。 常にアンテナがフル受信状態の『ゆりりん』さんは、誰よりも早くスイーツデコに取り組んでいました。 筆者が出会ったのはちょうどその頃のこと。 この人、夜も寝ていないのではないだろうか?と良く心配をしていました。 洋子さんの、あのパワフルさの原動力の全ては、どうやらお子様たちにあったようです。 どんなに忙しくても、親ってそういう姿を我が子に見せたいのですよね。 わかる。 わかる…。 筆者も遠い目…。 そして洋子さんには「必ず到達する!」と、確信に満ちた将来への展望がありました。 それは。 最も得意分野の『食』をテーマにした店にしたい! ということ。 どれだけ得意種目があるのだろう!!?と驚きますが、実はママになる前は調理師として活躍されていたのでした。 「本当は初めから『食』に取り組みたいという気持ちがありました。でも子育ても手を抜かずにしたかったので、スタート時はこのスタイルを選んだのです。」 そう話す洋子さんでしたが、スタート時のスタイルでも十分大変だったことは容易に想像できます。 「私、とことんやりたがり屋なんです 笑」 はい。 確かにそのとおりです!! 「とにかくなんでも手づくりは大好きです。子どもの頃からビーズやフェルト手芸は良くしていました。大人になって調理師として働いていた店で今のベースとなるような勉強をさせていただきました。そこは無添加の食材を使い、全て手作りで提供するレストランでした。また一方で、拘った本物の食材を使ったお菓子作りを8年間習っていました。また、室蘭の雑貨屋で5年間働いていました。思えば、子どもの頃からの『手づくり好き』がどんどん形を変えていき、今の形へのベースを作っているように感じます。」 〜2018年4月 “グルテンフリー米粉のお菓子と雑貨のお店 『ま〜の』”〜 店舗のスタイルを一新しました。 それが今の形態、グルテンフリー米粉のお菓子と雑貨の店へのリニューアルです。 そしてここにも物語が隠れていました。 「2016年、突如、いままで見たことないような水泡状の湿疹が腕に現れました。皮膚科に通い、薬を処方されましたが原因も分からず…。子育ても続いていたので、自分でなんとか治さないと!と、ファスティングも試してみました。同時に原因を突き止めようと、めちゃくちゃ調べました。『とことんやる』はこんな時も発揮しますから笑 その途中で、これだ!と行き着いたのがグルテンアレルギーという症状でした。さっそく小麦を抜く生活を始めてみました。すると、みるみる効果が現れ始めたんです。あんなに悩まされた症状がなんと3週間で治ってしまいました。 思えば当時、趣味でパン作りブームが起きていた頃でした。だから小麦断ちにはとても苦労しました。小麦が入っているものは調味料から全て台所から排除しました。でも当時この辺りにはそういう食品は売っていませんでしたので探すのにも時間がかかりました。」 原因を自分で突き止め、その原因を排除することで体内環境を変え、体質改善してしまう。 ここには短大の時に取得した栄養士としての化学的知見が生きていたのでしょう。 こうしてグルテンアレルギーを克服した洋子さん。 「きっと同じ症状で苦しんでいる人は多いはず。グルテンアレルギーのお客様が安心して楽しめる。アレルギーではないけれど、ここのお菓子は安心て食べられるし美味しい。そんなふうに思ってもらえるような店を作りたいと思いましたし、いよいよ『食をテーマにした店』にリニューアルする時だ!と思いました。」 そう思った時がチャンス。 チャンスは逃さない洋子さんです。 ちょうどお子様たちも手を離れ。 自分の体でもすでに治験済み ^^; 雑貨も思い切り減らし、受託販売もやめました。 「コンタミネーションで、材料にも拘りました。製品はもちろん小麦粉を使わず、全て米粉を使っています。また、砂糖はきび糖、乳・卵・ナッツ不使用製品もあります。ありがたいことに、今では道内各地、遠方からも買いに来てくださる方もいらっしゃいます。『自分の子どもに食べさせたいもの』、でも『あれだめこれだめ』と言ったり、極端に偏ったりすると長続きしないことも、グルテンアレルギーを持つ栄養士・調理師の立場からも提案したいです。近隣の方から遠方の方まで、訪れてくださるお客様のおかげで求められている実感を得て、今年秋頃を目標にネット販売も始めることにしました。」 品数も多いです。 やはり常に前進! 実体験がものがたり、専門家としてのスキルもあるので説得力あります。 さすが、とことんやる派☆ こうして『ま〜の』さんは創業14年目にして “グルテンフリー米粉のお菓子と雑貨のお店 『ま〜の』” としてリニューアルされました。 さて、これで満足しないのが洋子さん。 「実はね、これもやろうと思うんです^^」 嬉しそうに見せてくれたそれは、いかにも洋子さんらしいものでした。 「でもね。これはまだ書かないでね。」 どうやらしばらくは趣味として大事に育てたい様です。 ずっと走り続けてきた洋子さん。 子育ても一段落し、ようやくご自分の時間が持てるようになったということでしょうか。 とことんやりたがり屋の洋子さんが、その趣味をどこまで持っていくのか、こっそり注目したいと思います。 ―ま〜の情報― 室蘭市中島町 電話:0143-50-6433 Instagram
Rietty
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