
心の伊達市民 第一号
零細投資家の私にも、持ち株の会社からは株主総会の案内状が届く。
都内の開催の場合は暇人の私は出掛けて行くが、わずかの持ち株なので隅の方で小さくなっている。昔は総会に出席すると、株数に関係なく帰りにお土産をくれたものである。
しかし「地方の株主に不公平である」という理由から、最近はお土産のある会社はほとんど無くなった。私が株式投資をする理由は、何歳になっても社会に参加していたい気持ちと、経済に関っているとボケないと信じているからだ。
2年ほど前に「youtube」を見ていたら、驚くような映像があった。
「脳は損傷すると再生しない」というのが医学界の常識だそうだが、それを覆した6年前の患者の映像だった。X社の開発した薬を脳内に注入されたアメリカ人女性が、全く動かせなかった腕を動かせるようになった。
私は不幸にして脳損傷で寝たきりの人が、歩けるようになったら素晴らしいと思った。
ウクライナとロシアの戦争で、脳損傷をした兵士も大勢いるだろう。
この映像が出た時には私はまだ知らなかった会社で、資料によると1株100円の株式が1万3000円近くになったようだ。だがテスト治療では成功したがなかなか製品化の技術が伴わず、その後、株価は400円台まで下落した。
私がその会社のことを知ったのが、その動画公開の4年ほど後だった。
そこでその会社のことを調べてみたら、株式公開後10年連続で毎年巨額の赤字を出し続けていた。これではいつ会社が倒産してもおかしくないが、私はこの素晴らしい技術が世に出ることを願った。
なんとか私にも買える株価だったので、少しだけ投資してみた。
世界初の薬であるし他家細胞を使うので、癌化の恐れもあり厚労省は製造許可に慎重であった。その後、会社の努力の成果が実り、この4月に厚労省から製造の仮承認を得た。
厚労省の仮承認を得たからといって、すぐにはこの薬は世に出ない。
この後に「規格試験」、「特性解析」の合格を得て、やっと条件付きで発売となる。
なにしろ世界初だから、決められた病院で治療を行いながら各種データを集める必要がある。これにかなりの年月が必要かもしれない。
それで効果が認められれば、保険適用となるはずだ。
そうなればアメリカをはじめ世界で、この薬が採用されるだろう。
この薬は成人骨髄液由来の間葉系間質細胞を加工・培養して作成された他家細胞であるから、安全で大量生産が出来る可能性を秘めている。
4月23日に日本橋で開催された株主総会は厚労省の仮承認が出た直後だったので、会場の雰囲気は明るかった。みんな持ち株で利益を得ている人ばかりなので、嫌がらせの発言も無い。社長は今後の会社の発展に付いて、かなり前向きな発言をしていた。
会長の話で参加者から拍手が出たが、株主総会での拍手は初めて見た。
この日本で生まれた世界初の「薬」だけは、なんとか世界のビジネス面でも成功して欲しい。私の生きている間に、この会社が世界で活躍する会社になっているのを見たい。
京都大学の山中伸也教授が2012年にノーベル賞を受賞したが、それは「iPS細胞」を発見した功績である。
その後、京都大学からはiPS細胞を使った創薬に関する会社が、続々と生まれている。
しかしバイオ創薬のスタートアップは様々なハードルを越えなければならず、すぐには利益を生まない。
場合によると、資金面、技術面で多くがとん挫してしまい、成功するのは10社に1社くらいではないだろうか?
日本では京都大学の他に、慶応大学・北海道大学などが成果を上げつつあるようだ。
今までにも日本で発明・開発しながら、残念ながら世界市場を奪われてしまった工業製品の例は沢山ある。
(おまけの話)
株主総会の帰りに東京駅八重洲口まで雨の中を歩き、大丸デパートに行った。
それには目的があり、ドジャースで活躍する大谷翔平選手の記念ユニフォームが展示され、販売価格1億円で抽選販売するとニュースになったからである。
そのユニフォームは販売元の説明では『2024年4月26日に行われたトロント・ブルージェイズ戦で、大谷選手が第7号ホームランを放った際に実際に着用していたものです。 この本塁打によって、大谷選手はデーブ・ロバーツ監督が持っていた「ドジャースにおける日本生まれの選手の最多本塁打記録」に並び、話題となりました』とあった。
大丸は高層の2棟に分かれたデパートである。
とりあえず遠い方に入って、8階売り場に行った。店内を探したが「1億円」のユニフォームは無かった。「それではもう一方の建物だな」と思い1階まで降りて、別の棟の8階へ行ったがやはり無かった。
適当な売り場の店員に聞いたら、『あの奥のBOSSではないか?』と言われたので行ってみた。やはり無かった。仕方ないので1階までまた降りて、インフォーメーションに行って聞いた。
その結果だが、この棟の10階だと言われた。なぜ私は8階と思い込んでしまったのだろう? 認知症が少しずつ進んでいる。
10階の売り場に行くと、「CALTLA」という囲まれた売り場にユニフォームが飾ってあった。大勢の人が見に来ていて撮影など出来ないと思っていたが、ほとんどお客はいない。
ガラスケースに入れられたユニフォームは、裏から見えたので「SHOHEI 17」と書いてあった。
前に廻ると「Los Angeles」と書かれていた。カラスケースの下の方に「1億円」と札が出ていた。1億円で買いたい人はどのくらいいるのだろう?
少し離れた場所に、「ICHIRO」のサイン入りユニフォームも飾ってあった。
こちらの値段は60万円で、やはり人気が金額に現れている。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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影の主役を選んだ人 『dj_hatass=畑吉晃』にプロ魂を見た
12月28日はディスクジョッキー(DJ)の日 皆様、12月28日は「ディスクジョッキー(DJ)の日」だということをご存知でしょうか? ラジオでのDJ活動の第一人者であり、ラジオ人気長寿番組「オールナイトニッポン」の最初のパーソナリティである糸居五郎さんの命日にちなみ、日本では12月28日は「ディスクジョッキーの日」として制定されています。 日本でDJという言葉がメジャーになったのは、ラジオでMC+曲をかけるというスタイルからだと言われています。 ということで、今回の主人公はDJ歴30年、MC無しの音だけでフロアを盛り上げてきた『dj_hatass』こと畑吉晃さんです。 畑さんは1969年生まれの53歳。 DJの世界との出会いは20歳くらいの頃だそうです。 年代的にはちょうどディスコブーム後半の頃になります。 黒服の人に誘われてこの世界に 畑さんの将来を決定づける出会いでした。 その中には、今でも一緒に活動をしている先輩DJの中居さんや、室蘭唯一のクラブ『Red Hill』の竹内さんもいました。 そしてもう一つ、衝撃的な出会いとなった音楽が “ハウスミュージック”と"テクノミュージック"。 それは、これまでに感じたことのないほどの興奮と感動を与えてくれたと言います。 ところで〜 そもそもDJって?と調べてみました。 DJの歴史 第二次世界大戦中から脈々と水面下で培われていた「曲をかけて踊る」という文化。 1960年、ニューヨークにLe ClubというナイトクラブがオープンしたところからDJ文化の原型が誕生していきました。 ただその頃は、曲を繋げるのではなく、1曲が終わったら次の曲をかけるというスタイルでした。 そして1969年、アメリカのニューヨークで、2台のレコードプレーヤーを使って途切れることなく曲を流すというスタイルが生み出されます。 そして1970年代、世間ではディスコが大流行しました。 また、1980年代後半から1990年台にかけてアメリカやヨーロッパなどでレコードプレイヤーを使って音楽を提供するディスコやダンスホール(以後クラブ)が人気となりました。 その空間で選曲し、切れ目のない音楽でフロアを盛り上げていたプレイヤーがいつしかDJと呼ばれる様になります。 そしてDJの演奏スキルやテクニックの向上とともに、DJが使用するレコードプレイヤー、ミキサーなどが進化していくのでした。 現在のDJスタイルとしては、アナログDJ・CDJ・PCDJなどが一般的だそうです。 ・ アナログ(レコード)DJとは、昔からの定番スタイルで、曲の繋ぎを考えながらレコード選びをし、音の厚みで勝負するスタイルです。 ・ CDJとは、多くを持ち運べないというレコードのデメリットをCDの普及により解消し、PCやCDレコーダー、メモリースティックなどの駆使によって音源の呼び出しも容易にプレイが出来るスタイルです。 ・ PCDJとは、より効率的であることを優先した先に生まれた技術です。持ち運びの出来る楽曲量の多さと、音源入手の手軽さにより、現在は主流のスタイルになっています。 「持ち運び」の利便性がKeyで進化していったスタイルの違いですが、結果、利便性だけではないメリットとデメリットが生じたようです。 音楽のジャンルによっては、アナログに勝るスタイルはなかったり、PCDJをやるにはPCや機材の知識が必要になったりとそれぞれに高度な知識とスキルを必要とされます。 怠らぬキャリア積み上げ このような歴史を持つDJですが、畑さんはこれらどのタイプでも対応できる実力をお持ちです。 素敵! フロアに出ていなくても勉強を続けるとは、まさにプロ魂です。 この時は室蘭のチーム対苫小牧のチーム。 お隣にいらっしゃるのが先輩DJの中居さんです。 チームの入場曲や得点が決まった時の『ゴールホーン』も畑さんたち、DJチームのオリジナルMIXだそうです。 その甲斐もあり、この日は見事に勝利! 「ところで、他にはどんなところでDJをされているのですか?」 楽しそうに話す畑さんでしたが、少し神妙な面持ちにも…。 ブログの最後に畑さんのSNSアカウントを掲載しています。 「DJに関するご相談はそちらからどうぞお気軽に!」とのことです♪ 意外な本業とは さてところで。 実は畑さんの本業は、ジオパーク推進協議会の職員さんです。 そして、筆者もとてもお世話になっている『洞爺湖有珠火山マイスター制度』の担当者でもあります。 とても優しく、みんなに頼られる兄貴的存在です。 そして事務所にいらっしゃる時の畑さんはDJとは全く別のお顔です。 なんと! それは意外! 畑さんが言うには、火山マイスターの皆さんが一生懸命に勉強したり、講師活動をしたりしている姿にとても感動して触発されたのだそう。 そうか…。 共通項はそこなんだ! 正直に書けば、取材をさせていただく前、事務所にいらっしゃる畑さんとDJをされている畑さんは全くの別人だと思っていました。 どちらかが裏で、どちららかが表。 でも、裏も表もどちらも素敵だなあと。 ところが違いました。 畑さんはどちらも表でした。 舞台に立つ人たちを裏方で盛り上げることに喜びを感じる人だったのです。 なるほど…。 確かに思い当たります。 畑さんは本当に話すのが苦手でいらっしゃいます。 何かを発表される時、「原稿なしでは話せません」と恥ずかしそうにします。 そして超棒読み…^^; ところが、一旦機材の前に立つと活き活きとした表情で、機材を自由自在に操り、音で意気揚々と皆様に語りかけ、フロアを盛り上げていきます。 ジオパーク推進協議会の職員さんのときとのギャップがスゴい! 人生の終わりまで『影の主役』を 「ところで、畑さんにとってのDJの魅力ってどんなところでしょうか?」 『影の主役』に喜びを感じるところ。 言い換えると、決して出しゃばらず表現して、場を支え盛り上げるところ。 とても畑さんらしいなあと思います。 「それでは最後に。” dj_hatass “として、将来どうありたいと考えていますか?」 ” dj_hatass =畑 吉晃 ”は、人生の終わりまで『影の主役』を望み、大好きな曲で送って欲しいと願う、DJのプロでした。 ディスコ全盛期を生きながら一度もディスコのドアを開いたことがない筆者ですが、人生初のディスコは” dj_hatass “に踊らせていただこうと思います。 [Instagram] https://instagram.com/dj_hatass?igshid=YmMyMTA2M2Y= [Facebook] https://www.facebook.com/profile.php?id=100005068364809
Rietty
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