
心の伊達市民 第一号
【東京国際フォーラム】★
JR有楽町駅の東京駅寄りの「国際フォーラム口」を出ると、目の前に「東京国際フォーラム」がある。この建物は国際公開コンペが初めて日本で行われ、設計者はラファエル・ヴィニオリに決まった。
彼はウルグアイで生まれアルゼンチンで育ち、ニューヨークを拠点とする建築家である。
ガラスの巨大な吹き抜けホールは「船」を題材にしていて、船の骨格のような内部が特徴となっている。
1997年1月に開館となったので、新しいようではあるが、もう30年近く経っている。
この建物が出来る前はここには、現在は新宿に移転した東京都庁があったのを私は覚えている。
本には載っていないが、私が推薦するビルも併せて(★印)紹介する。
中央に広場があり、建物は左右に分かれて建てられている。
建物の1階は吹き抜け構造なので使われていないが、地下一階で2つの建物は繋がっている。中には7つのホール、展示ホール、33の会議室、店、レストランなどがある。
毎年ここでソフトバンクGの株主総会が行われるので、かなり前だが孫社長の話を聞きたくて1度だけ参加したことがある。
東京駅方面の入口から入ると「太田道灌」の像が立っているが、これは東京都庁の時代からのものである。2021年の東京オリンピックの時には、ウエイト・リフティングの競技会場として使われた。
1階広場には毎日、キッチンカーが出て賑わっているが、ここでは私は食べない。
近くに行き付けの「うどん屋」があるからだ。
また広場に大道芸のギタリストが出ている時は、私は彼の演奏に聞き惚れてしまう。
時々、「東京国際フォーラム・イベント」をネットで検索して、興味があり無料の場合は出掛けて行く。暑い日はこの中は涼しいので、休んでいる人を多く見掛ける。
【新東京ビル】
私は有楽町の新国際ビルB1にある、床屋「ニュートーキョー」に通って15年くらい経つ。その前を通り過ぎて、200メートルくらい行った左側に「新東京ビル」がある。
このシリーズを始めて気が付いたが、レトロになった建物などはなぜか「ニュー」とか「新」が頭に付くようだ。
他には可笑しいのは今は「ビルディング」と書くが、この頃のビルはみな「ビルヂング」と書いていた。
いまでもよく見ると古いビルでは、「ビルヂング」のままの表記も見ることが出来る。
ここは大規模リフォームを境に「ビルディング」となった。
ここは1963年に大規模リフォームを行ったが、その時は『岩戸景気がもたらした輸入の増加により国際収支が悪化。政府は「建設投資調整協議会」を設置し、不要不急の一定規模の建設投資を抑制する方針を示した。・・・』
『三菱地所は、本建替え案を含む丸の内の改造は、駐車場設置・丸の内仲通りの拡幅による交通対策や、地下に東京電力の変電所を設けるなど公益に資するとして、建設省住宅局と協議を重ねた。・・・』
『その結果、三菱21号館部分の建設を延期することで工事継続の了承が得られた。1961年11月15日に地鎮祭を挙行し工事は大成建設により施工され、東側を上にしたL字型の建物として1963年6月にに竣工した』とある。
私は度々、このビルの2階に休みに行く。
その理由の1つに2階にはフォトギャラリーがあり、壁沿いに多数の写真が展示してありその下のベンチで休めるからだ。1枚目の写真で分かるが、1階から見上げる2階には多くの写真が飾ってあるのが見える。このビルで働くサラリーマンが、いつも何人かはここで休んでいる。
ビルのオーナーは三菱地所で、この会社の考えで『オフィスワーカーだけでなく、すべての来街者に開かれた楽しめるビルを目指して、2階以上のエレベーターホールにラウンジスペースを設けるとともに、各階で異なるコンセプトや過ごし方が楽しむことができるフロアデザインに生まれ変わらせている』。
2階の吹き抜け部分の天井のステンドグラスのデザインが私は好きで、ここから見下ろす1階の景観も素敵である。大企業の余裕を感じる。
【東京交通会館】★
有楽町駅前にもレトロな「モダン建築」がある。それは「東京交通会館」である。
私もここへはパスポートの申請で、何度か足を運んだ覚えがある。
ここもご多分に漏れず新橋同様に戦後のどさくさで、闇市から発展した立ち飲み屋、寿司屋などの木造店舗がひしめく「寿司屋横丁」と呼ばれていた。
都市の美観、防災の点からも好ましくなく、整理と再開発が行われることになった。
「寿司屋横丁」の1軒の寿司屋が最後までごねて問題を複雑にさせ、解決が先送りにされていた。
それをなんとか解決し、三菱地所と東京都交通局の出資で「㈱東京交通会館」が設立され、1965年9月に地上15階、地下4階の建物が竣工したのである。だから今でもこのビルの2階には、東京都の「パスポートセンター」があるのだ。
【有楽町ビル & 新有楽町ビル】
都バスで有楽町に行くと、ビックカメラの向かい側にバスが止まる。
この後ろに建つのが「有楽町ビル & 新有楽町ビル」である。
有楽町ビルは1966年竣工、地上11階、地下5階で、新有楽町ビルは1967年竣工、地上14階、地下4階のSRC構造である。
どちらのビルも1965年の証券不況や、1963年に建築基準法が改正されたことからビルの「駆け込み着工」は相次ぎ、賃貸オフィスは供給過剰となり、竣工時にはオフィスフロアが3分の1しか埋まらなかった。
解体工事前は1階にはオリエンタル・ホテルのカフェがあり、いつも入店待ちの行列が出来ていた。いまはこのビルは解体工事中でシートで覆われていて中が見えない。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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