
ふなおか薬局
【波動調律】朝イチのご予約はニュースキャンのお客様でした。今日も笑顔倍増だよね〜
【ニュースキャン】
ハッシュタグ
月別アーカイブ
「むしゃなび」はこちらの皆様に支援して頂いています
人気の記事
-
05/02(日) 【アパホテル室蘭ランチバイキング】雪月花で食べ放題バイキング

イベント
「ブログ」カテゴリーのおすすめ記事
-
2025/07/02(水) 生ビールイベント復活です!!!
ホテルマンの幸せ
0
-
むしゃなび編集部
0
-
2025/01/30(木) あいつとの32年間の空白を埋めるために(2)
kayaker
0
-
2025/05/17(土) めちゃ美味ドーナツに出会う
ホテルマンの幸せ
0
-
心の伊達市民 第一号
0
2
ブログに関する
特集記事
-
農業は化学&科学だ! 〜尾川農園的マネジメントとは? 尾川 圭延・佳奈夫妻を訪ねて
別海町の酪農家に生まれ、中学生までは早起きして親の仕事を手伝う毎日。 家族でどこかへ出かけることすら出来ない。 あまりの大変さに、“ 絶対に農家にはなりたくない “ と、サラリーマンの道を選び、営業マンとして忙しい日々を送る圭延さんでした。 一方、地方回りで忙しく、1週間に2日くらいしか家に帰ってこない夫を待つ妻 佳奈さん。 佳奈さんは当時医療事務の仕事をされていました。 そんな尾川夫妻が伊達への移住を決め” 就農する “ と決めたのは13年前のことでした。 農業の道を選んだ理由とは? 「いったい何故、そんなに嫌いだった農業の道を選んだのですか?」 「別海に住んでいた両親はすでに酪農を引退し、今は弟子屈町に住んでいます。そこへ遊びに行った時、家庭菜園を楽しみながらのんびりとスローライフを楽しんでいるのを見た時、なんだかとても良いなあって思えて憧れました。周りでも農的生活を見聞きする機会があり、農業への興味が湧いて来て、転職を考えるようになりました。両親の生活を見て来た上でそう思ったので、できる気がしたんですよね。」 「まあ、圭延さんはよいとして…。佳奈さんはそんな旦那様の提案に抵抗はなかったのですか?」 「私自身も夫の親の姿を見て、土や野菜に触れながら生活する暮らしはいいなあと感じていました。それに農業ならば一緒に仕事ができるので嬉しかったんです。でもね、理想と現実は違っていました 笑 喧嘩もずいぶんしました。」 そもそも農業をやりたくて伊達に来たわけではないという尾川夫妻。 「サラリーマン時代、営業でこの辺りも回っていました。その時も感じたのですが、伊達の気候の良さにはいつも驚かされていました。東の方から車を走らせてくると、伊達市に入った途端晴れているということが良くあります。知り合いの学校の先生も” 退職後に住むなら伊達だ “ という話をよく聞いていました。全道各地を転々とする学校の先生の言葉には信憑性があります。そして、伊達が農業の町であることも知りました。その時に、自分の想いと伊達とが繋がりました。” ここで就農したい! “ と。」 ついに『伊達に移住して農業を仕事にする』と決意した圭延さん。 伊達市の農務課へ向かいました。 ところがその時は、移住も就農もあまり勧められなかったそう。 けれどもそんな反応に怯むことなく、農業についていろいろ調べた圭延さんは〜 「調べれば調べるほどできる気がしていました。でもお金を貯めなければ!と札幌の家を引き払い、まずは洞爺湖温泉街の寮がある職場を探し、二人で8ヶ月間働いてお金を貯めました。いきなり伊達に移住せず、洞爺湖温泉に行ったのは正解でした。そんな僕らの真剣さを知り、伊達市の農務課の方はその後親身になって相談に乗ってくれました。」 さて、ご存知かもしれませんが、農業はなりたいからと言ってすぐに出来るものではありません。 認定新規就農者になるためには、1年間の修行を経なければならないのです。 「研修期間は、土起こし・肥料撒きなどの畑作りに始まり、農業全般一連の作業を親方に付いて学びます。もちろん学ぶ中には「作業」だけでなく、経営についても学ばせていただくわけです。思いだけでは食べていけません。経営が上手くいってこそですからね。」 1年間の修行を終えた尾川夫妻は、牧草地を手に入れました。 “ 自分にも出来るような気がする” という想いをついに現実に繋げました。 尾川農園的マネジメントとは? 尾川農園の経営スタイルは考え抜かれていました。 ・一年中収穫できるように、ビニールハウスでのみ栽培をする。 ・作る野菜の数を極力絞り込む。 ・出面さんは雇わず二人でできる範囲で行う。 ・土との対話を常に行う。 「2011年5月から始めたのですが、収益は経験値と共にどんどん上がっていきました。わずか1~2年で “ 大丈夫だ “ と実感しました。安定した生活は思った以上に叶えられ、住宅も購入することができました。ところが3年目に連作障害を出し、そこからは随分と「土」に悩まされました。土のECやPHを頻繁に測り、農家を始めて5年くらいで土の扱いを変えました。連作障害への不安は結局事業開始後9年間くらい続きました。そんなこんなで、理想としていたスローライフとは段々かけ離れていきましたね 笑 」 ビニールハウスの栽培は、天候に左右されることなく収穫することができます。 一年に6~7作もできるというのは、北海道としては画期的なことです。 伊達市では、150種類を超える種類の野菜を作っていますが、特に、冬でも葉物野菜が道の駅に並ぶ地域は他にはあまりありません。 尾川農園では、切れ間なく作物が育ち出荷できるように、ハウス毎・作物毎にタネを蒔く時期や植え付けの時期をずらしながら栽培しているそうです。 「チンゲンサイは1月上旬から11月半ばまでが栽培〜収穫期。そのほとんどを市場に出します。コマツナと水菜は道の駅のみ販売。夏場の2ヶ月は少しだけオクラも作ります。」 「種類をかなり絞り込んでいらっしゃるのですね。」 「はい。手法的にはほとんど修行先の親方のやり方を真似しています。その農家さんはしっかりと経営が上手くいっていらっしゃいますから。やはり生活ができるということが大前提です。だから、人を雇わなくても二人で出来る範囲で、無理をせずに確実に利益を生める方法で営むというスタンスをとっています。野菜の種類を絞り込むというのもその一つです。」 「さきほど連作障害への不安も語っていらっしゃいましたね。全くの素人的質問ですが、同じ野菜ばかりを作るということはそのリスクが高まるということはないのでしょうか?」 「一般にはそう言われています。ですので、『これが良い』と言われる色々なやり方も試しながら、土と肥料のバランスにはとても気を配っています。同時に、僕の中での「土のマネジメント」は、いかに土の良さをいかに壊さないかに尽きると思っています。畑ではない土の中は、多様な微生物たちが絶妙なバランスを保って存在しています。例えば森は何も手を加えなくてもほとんど毎年同じものが生えてきますよね。」 ものすごく納得します。 化学的見地に立ち、いかに地力を壊さないようにするかを考えて土に向かう圭延さんの姿勢に、農業者の日々の努力あってこその美味しい作物なのだと認識新たにしました。 この夏の異常な暑さにより、多くの農家は作物の出来が悪く苦戦を強いられました。 けれども、尾川農園のハウス栽培の葉物へのダメージは少なかったそうです。 ハウス栽培のみを選択したことが功を奏した今年の異常気象だったようです。 「今年はあまり被害を受けませんでしたが、同じ作物でも毎年出来が違います。大切なのは常に化学目線で作物を育て、科学的にマネジメントすることだと思っています。当たり前のことですが、作物は土の栄養を吸い上げています。収穫した後は土に足りなくなった成分を補わなければいけない。ある時から、” 土作り “ という表現が僕の中でしっくりと来なくなりました。土を本来持つ力に戻す、言い換えれば土の良さを壊さないのが一番大切だと考えるようになりました。でもまあ、今でもトライアンドエラーの繰り返しです。研究し続けたいです。」 面白いエピソードを伺いました。 「だて道の駅でのチンゲンサイの販売が終了した11月末、お客様から1本の電話が掛かって来ました。” もうチンゲンサイ出さないの?うちの鳥が尾川さんのチンゲンサイしか食べないのよね “と言われたんです。聞いてすぐは “え? 鳥? “ って、正直釈然としませんでした。でも、冷静に考えたらすごいことだと気づきました。舌が敏感な生き物がうちのチンゲンサイを安全で美味しいと認識して食べてくれているわけですから。嬉しかった。ネタも出来ましたしね笑」 素敵な話です。 鳥の真似をして生で齧りたくなりました。 「最後に今後の展望を聞かせていただけますか?」 「事業を拡大したいとかは全く考えていません。現状をできるだけ維持したい。そして新しい人がどんどん続いて伊達で農業を始めて欲しいと思います。そのためにも何らかの仕組みがあるといいなと思います。現在、新規就農研修者の受け入れ先が高齢化で減少してしまい、新規就農がここ数年止まった状態です。たとえば学生の農業体験受け入れなどもできる仕組みがほしい。体験をきっかけに若い人が農業を職業選択のひとつに考えてくれたら嬉しいです。」 「決して裕福な暮らしをしているわけではありませんが、今まで僕らがしてきた選択は間違っていなかったと自信を持って言えます」と圭延さん。 「農業が好きです。最初に話した “ 農家ならば二人で一緒にできるから嬉しい “と言ったこと、やっぱり優等生みたいで恥ずかしいから書かないでね。」と佳奈さん。 こんな素敵なお話し、書かないわけにはいきません♡ ごちそうさまでした! ありがとうございました〜! ―尾川農園情報― 代表 尾川 圭延 住所 伊達市弄月町75-9 電話 0142-25-2125 Instagram :https://instagram.com/oga_farm0501
Rietty
0
-
-
-
終わりなき研究をしつづけるために〜谷藤貴昭さんの『チョコレート研究室』
店を継ぐ決意とチョコレート ごはん処「たにふじ」は室蘭の有名な老舗です。 主力商材は仕出し弁当。 もちろん、店内でお食事をすることも出来ます。 さて、北見のパティスリーで8年間パティシエとして活躍をされていた谷藤貴昭さんは、2021年9月にお父様が営む「たにふじ」を継ぐ決意をして帰郷されました。 今回は、ごはん処「たにふじ」の三代目 谷藤貴昭さんを取材させていただきました。 ただし、お話を伺ったのは和食の料理人としてではなく、bean to barを手掛けるパティシエとしてでした。 そう、貴昭さんは「たにふじ」を継ぐ決心だけではなく、チョコレート研究室を室蘭に立ち上げるために帰郷したのでした。 挑戦したかったチョコレートは、カカオ豆からチョコレートまでを一貫して手掛ける製法のbean to barチョコレート。 様々な産地から原料を仕入れ、カカオ豆という原点からオリジナルのチョコレートを製造されています。 オリジナルチョコレートとの出会い 高校卒業後調理師専門学校に進学した貴昭さんは、在学二年間のうち一年間は調理の勉強を、一年間は製菓の勉強をしました。 そして、卒業後は北見のパティスリーに就職、持ち前のコツコツ気質が徐々に頭角を現わし、1年に1度開催される国内最大規模の洋菓子コンクール「ジャパン・ケーキショー東京」では、銅賞の受賞するほどにパティシエとしての腕をあげていきました。 ところが、順調にスキルを磨いていた頃、コロナが蔓延し始めました。 「今年もコンテストで頑張ろう!と思っていた矢先のことでした。全精力を注ぎたいと考えていたのですがエントリーは叶いませんでした…。でもその時、そのエネルギーをお菓子に関わる何か未知のことに向けたい!!と、気持ちを切り替えることにしました。それがチョコレートでした。」 コロナだからと凹まず、エネルギー転換をする。 全てのことにおいて、その転換が出来た人が成功を手にしているような気がしています。 「当時お世話になっていたパティスリーのオーナーシェフが、フランスのチョコレートメーカー『カカオバリー』が行なっていた、オリジナルチョコレートを作れるサービスシステム(オ・ル・ノワール)の提供を受けていらっしゃいました。そして、店独自のチョコレートを作っておられたことに強く影響を受け、チョコレートに大きな興味を持つようになりました。」 それは、パティシエとして扱う素材の一つ、チョコレートが特別なものに見えた瞬間でした。 けれども貴昭さんは、オーナーの真似に止まりませんでした。 自分のオリジナルチョコレートを作りたい! 「カカオ豆からチョコレートを作るbean to barに挑戦しよう!」 そう考えた貴昭さんは、” 将来は親の店を継ぎたいこと “ “ どうしてもbean to barに挑戦したいこと “ をオーナーシェフに相談をしました。 すると、理解をしてくれたオーナーシェフは、店の厨房を貸してくれ、同時経営をしていたカフェの一角で販売することを認めてくれました。 こうして夢への第一歩を歩き出した貴昭さんは、オリジナルチョコレートのブランド名を「チョコレート研究室」としました。 「ところで、なぜ、『研究室』と名付けたのですか?」 「カカオ豆からチョコレートへと加工する『bean to bar チョコレート』に挑戦したいと思ったものの、当時はそのやり方を全く知りませんでした。そこで『bean to bar チョコレート』の数少ない実践者(全国でも少ない)に教えていただいたり、独学をするなどして工程を習得していきました。同時に『チョコレート検定』にもチャレンジをしてカカオ豆の知識はもちろん、チョコレートの歴史なども学びました。カカオ豆の香りや味わいは、産地によって全く違います。それが、焙煎具合や洗練時間、副材料によって複雑に混ざり合った結果、芳醇な香りを作り出すことができます。学んでも学んでも、本当に奥が深い世界で、日々研究をし続けなければなりません。だから研究室にしました。」 なるほど…。 地道な努力を続けようとする、貴昭さんの決意の現れなのですね。 「たにふじ」に工場を作る! さて、帰郷した貴昭さんでしたが、「たにふじ」には製菓スペースがありませんでした。 保健所の許可を得るためには、料理をする厨房とは別に工場を作らなければなりません。 そこで、ご両親の許可を得て、亡くなった御祖父様の寝室を工場にさせてもらうことにした昭貴さんは、2022年4月、クラウドファンディングで資金を集めることにしました。 そして見事に資金集めに成功。 元寝室が、念願の工場に生まれ変わりました。 「室蘭にオープンされて5ヶ月ですね。チョコレート研究室を通して皆様に伝えたいことがあれば聞かせていただけますか?」 「実は、現在日本に入ってきているカカオ豆の産地はそのほとんどがガーナ産なのですが、カカオ豆は産地によって香りやテクスチャーが全く異なるのです。その違いを含めてチョコレートや産地に興味を持っていただけたら嬉しいです。それと、カカオ豆農場で働く人々の労働環境などを考えて、可能な限り正当な取引をしようとすると実はとても高価であることに気づきます。そういうことも含めて、チョコレートについての認識を新たにしていただき、チョコレート研究室を通してチョコレートの価値を上げていきたいと考えています。」 取材させていただき、チョコレートの社会問題をも含めたその深い歴史と、魔力とも言える魅力に満ちたbean to barに惹き込まれました。 そして、bean to barに取り憑かれた貴昭さんが、コツコツとひたむきにチョコレートと向き合う姿に、原点を知る人の真の魂を見た気がしました。 本物との出会いに感謝しながら、ショコラとコーヒーのジュレを堪能させていただきました。 ―チョコレート研究室情報― ※ 公開初日に「貴昭さん」のお名前を間違えて公開してしまいました。誠に申し訳ございませんでした。
Rietty
0
-
ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
0