■「鮟鱇のどぶ汁」
(2017年02月08日) 毎年、2月が巡って来ると思い出すことが3つある。
それは「女房の誕生日」、「鮟鱇(あんこう)鍋」、「H君のこと」の3つである。女房の誕生日は忘れると家庭不和になるので、年の初めに手帳に書いておく。
「あんこう鍋」は勿来(なこそ)にあった、今は閉店した加納屋の「どぶ汁」である。最後の「H君のこと」は2年前の2月に、勿来で交通事故で亡くなったことである。
「はとバス」に乗ったのは60年ぶりくらいか?
以前は毎年のように2月になると勿来に「あんこう鍋」を食べに行っていた。同級生のM君が勿来で大きな工場を経営しているので、よく誘われたからである。
いつも同級生の夫婦4組で小名浜スプリングスでゴルフをして、その後に食べたのが漁師料理の加納屋の「あんこうのどぶ汁」で、贅沢な鍋ものだった。
常磐自動車道を走るのも7年ぶり。
テレビ報道で「あんこう鍋」を見たら、どうしても食べたくなり、ネットで調べて衝動的に女房と娘を誘い「はとバス」に乗って、福島県いわき市に「あんこう鍋」を食べに行った。
浜松町のバス乗り場に行ったら、このツアーの参加者は45人乗りバスにたった16人であった。
福島県か「あんこう鍋」かは分からないが、あまり人気の無いコースのようだった。
常磐自動車道を「いわき湯本IC」で出る。
バスは常磐自動車道を進み「いわき湯本」で高速道から一般道へ降りる。そこから15分ほどで小名浜港に着き、近くの料理屋で「あんこう鍋」を食べる。出て来たあんこう鍋は私が期待していたものと違う。
鮟鱇の身は冷凍、具には白菜、シイタケ、ネギが入っている。
あん肝が上に乗っている。
加納屋の「どぶ汁」はあん肝と 味噌をよく煉り合せたものがスープで、その中に「あんこう」と蕪だけを入れる。水分は足さない。
「あんこう」はグロテスクだが美味しい。
これは私の思っていた「どぶ汁」ではない。不味くはないが、少しガッカリする。食後は小名浜港から湾内クルーズである。ウミネコの餌やりが売り物らしい。
船内で元漁師という船員が私に話し掛けて来た。
福島原発は小名浜港から70キロの距離だそうだ。H君が世界一周のヨットの旅に出た時に私が見送りに行ったヨットハーバーは、東日本大震災の津波で流されて今は無いそうだ。
一平式の「あんこうのどぶ汁」
小名浜港では3メートルの津波が襲い、全てが流されてしまったという。
その後の原発の放射能汚染で今でも福島県の漁業は操業自粛となっていて、毎月、モニタリングの試験操業だけを行っているそうだ。
だから「あんこう」も他県からの購入となっている。
漁師は試験操業だけで漁獲が無くても補償があるので、漁師魂が失われて行っているそうだ。
小名浜港の記念館には震災時の避難所の模型が飾られていた。
後ろの写真は実際の避難所の風景。間仕切りは段ボール。
気楽な気持ちで「あんこう鍋」を食べに行っただけなのに、思いがけず福島原発の後遺症を知り、「加納屋のどぶ汁と違うなんて言ってはいけない」、「都会の人に出来ることは被災地でお金を使うこと」と遅まきながら分かり反省したのである。
今年の3月11日で東日本大震災から6年が経つ。私達が今のマンションに越して来た日が3月10日だったので、その日をよく覚えている。
復興にはまだ相当の年月が必要であると感じた旅だった。
車窓からは被災者用の仮設住宅が見えた。
(おまけの話)
H君は高校時代からの友人で、「歩く姿勢が良い」ということが一番思い出される。その姿は痩せ形で背が高く、アメリカ兵がパレードで行進しているようだった。
彼は病気持ちで、肺に穴が開く奇病と、糖尿病に悩まされていた。
そして自分に厳しく、食後は必ずウォーキングで余分なエネルギーを消費し、同じ病のY君にも指導していた。
「金毘羅神社」
10年以上前に急に「俺は人生の思い出に、ヨットで世界一周の旅に出る」と言い出した時には驚いた。
それまで彼は全くヨットの経験など無かったからである。
その時からヨットの操縦技術の習得、世界一周の準備などを始めて、仲間4人で勿来の隣の小浜港から本当に出発して行ってしまった。
その後、事情が色々と変わり、5年の計画を2年で切り上げて日本に戻って来た。
小名浜港巡りのウミネコの餌やり。餌は「カルビー・カッパエビセン」。
それ以来、私の徘徊の良き友として、アチコチを一緒に歩き回った。
そしてその後、東日本大震災で福島原発が大事故を起こし、彼はボランティアとして作業員の宿泊先の勿来の隣の植田の旅館で雑役として仕事を手伝っていたのである。
その旅館の女将の酔っ払い運転の車の助手席に乗せられて追突事故で亡くなるとは皮肉なもので、私は大事な友を失い、2月には必ず「あんこう鍋」と共にH君を思い出すのである。(合掌)
「カモメ」ではなく「ウミネコ」。(鳴き声が猫のようだから)