■木毎寺は「梅」の字の分解
6月6日の日経新聞に「失われた江戸を求めて」という題で、明治期に活躍した絵師「小林清親」の浮世絵が出ていた。 清親の作品は文明開化の東京を描いた作品で知られているそうだが、彼の浮世絵は見たことがあるような気がするが名前までは憶えていなかった。
「梅宮神社」(小林清親)・・・雨を白線で表現している。
彼の作品は【光と影に浮かび上がる印影豊かな浮世絵版画は「光線画」とも呼ばれ、「最後の浮世絵師」と言われた。その代表作である「梅若神社」の絵】と解説が載っていたので、興味深く読んだ。
梅宮神社というのは墨田区にあるようで、今は「木毎(もくぼ)寺」の中にある。「木毎」というのは「梅」という字を分解したのだそうだが、なぜ分解したのかまでは分からない。
江戸時代の歌川広重は雨を「黒線」で表現している。
コロナ騒動以来、3蜜を避けなければならないので、なかなか行けるところが無い。そんな時に梅宮神社の浮世絵を見たので、「ここなら3蜜とは関係ないだろう」と思い、早速、出掛けて行ったのである。
住所を調べたら現在は化粧品で有名となったKANEBOの前身の、鐘ヶ淵紡績の発祥の地である墨田区墨田2丁目(旧町名は鐘ヶ淵)にあった。
木毎寺の入口は公園から入る。
「木毎寺のホームページ」によると【木母寺は平安時代中期の貞元2年(977)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
当寺に今も伝わる梅若伝説は平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります】
「梅宮念仏堂」
【この伝説を元にして、後に能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、
役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました】と書いてあった。
伊藤博文書(明治24年6月)
寺に纏わる話が面白いし、能や浮世絵にも登場しているとなると、「見に行かねば!」と思ってしまうところが私の軽薄なところである。
都バスで東京スカイツリーで降りて、東武鉄道伊勢崎線の「鐘ヶ淵駅」で降りる。駅で降りて思い出した。
かなり前だが、5月の鯉のぼりの写真を撮りに来たことがあった。
その時は「木毎寺」のことは知らなかった。
寺の門を入ると、大きな霊安堂が目立つ。
駅から徒歩10分くらいで、東白髭公園に着く。その中に木毎寺があることになっている。あまり手入れの良くない公園内を進むと、右手に大きな霊安堂のような建物が見えて来た。
そこが木毎寺で、中に入ったら、敷地はあまり広くない。
目立つのは霊安堂と、大きな石碑である。
沢山の石碑があるが、説明書きが無いのでよく分からない。
浮世絵を見られるわけでもないので、一回りして外に出た。
今回もそうだったが、「期待外れ」という場所は多いものである。
「顔は人間、胴体は蛇」(説明書きが無いので、なんだか分からない)
(おまけの話)
この日は東京に初めて「真夏日」が訪れた。
気温は31度であるが湿気は意外と少ないようで、日影に入れば気持ちが良い。
ところが駅から木毎寺まで日影が無いので、ジリジリと太陽が照り付ける。帰りも駅まで歩き、電車で2駅先の「曳舟駅」で降りた。
フードコート(東京スカイツリー)
そこから東京スカイツリーまではすぐなので、歩くことにした。
歩き出してすぐに気が付いた。近くないのである。
そしてバカみたいだが、降りる駅を間違えたことに気が付いた。
私の降りるべき駅は「曳舟」ではなく、「押上」だった。
「押上」は「曳舟」で「東京スタイツリーライン」に乗り換えるのだった。
ソフトクリームが美味しかった。
今さら戻るのもシャクなので、そのまま歩き続けた。
東京スカイツリーは目の前に見えているのに、暑さのせいか遠く感じる。やっとの思いで東京スカイツリーに着いて、転がり込むようにレストランに入った。
暑さと疲れで食欲が無く、ざるそばを食べたが半分くらい残してしまった。その後に食べたソフトクリームが、なんとも美味しかった。
この暑さの中で、万歩計は1万歩を越えていた。でも、全然痩せないのは困りものだ。
「そらまち」とスカイツリー、バス停から見たスカイツリー。