
心の伊達市民 第一号
マンションを出て「今日はどこへいこうか?」と考えていたら、東京BRTが来たので飛び乗った。新橋駅前に行ってみたら、蒸気機関車の前にカメラの三脚が何台も立っている。なにかイベントがあるらしいが、なにかは分からなかった。
しばらくするとオレンジ色のシャツを着た人達が、荷物を運びこんで準備をしている。
こうなると最後まで見たくなる。幟が立てられた。見たら「参政党」と書いてあった。
その内にマイクのテストが始まり、「立ち合い演説会の開始は12時30分から」と伝えていた。まだ40分も待たなければならないので、その場を後にして銀座に向って歩いて行った。
いつものことだが時間が十分にあるので、この日は銀座にある4ヶ所のフォトギャラリーを巡ることにした。1ヵ所目は銀座4丁目交差点の「銀座プレイス」の6階にある「Sony Imaging Gallery」である。
ビルの1階はNISSANのショールームになっていて、いつも待ち合わせの人がいるところだ。エレベーターで6階に上がると、この日の展示写真は「日本大学芸術学部写真学科」の3人の教員の作品だった。見学者は1名だけだった。
作品の解説がSONYのホームページにあったので、家に帰ってからそれを見た。
『私ども教員は日本大学芸術学部写真科を卒業した同窓生であり、先達の師より厳しく基礎技術を学び、それを踏まえた上で自己表現を展開すべく写真表現を実践しております』と教員らしい真面目な記述があった。
見終って5階からエレベーターに乗ろうと思い、ボタンを押したがなかなか来ない。
その時、右側のドアが開いて人が出て来た。何気なく壁を見たら「当日でも予約に空きがあれば、その場でご視聴頂くことも可能です」と書かれていたので、ドアを開けて入り視聴を申し込んだ。
椅子に座り、音楽を流してもらった。係員の説明では1本で60万円だそうだ。
凄い音響だが、これは個人の家では防音工事がしていないと使えない。係員も退屈だから聴かせてくれたような気がする。
2番目に行ったのは、「リコー・アートギャラリー」である。
ここも4丁目交差点の角にあり、8階のギャラリーに行った。
入口で消毒・検温がありパンフレットを渡された。それを見たら、『2022年12月でリコー・アートギャラリーは閉館します』と書いてあった。
今回はその最後の作品展で、名和晃平氏の「Focus」を展示してあった。
最後の回で初めて知ったのだが、このギャラリーの展示作品はリコーの立体プリント機を使用した作品展だったのだ。
今になって思い返すと、どうりで難解な作品ばかりだった。
3ヵ所目は銀座1丁目にある「富士フォトギャラリー」で、ここはハイ・アマチュアが借りて展示会をする場所である。
会場費は1週間で15万円(+税)である。この他に展示写真はここにあるラボでプリントする必要があり、展示・撤去の費用も支払うと40万円くらいは必要である。
ここには3会場があり、2ヶ所の作品で前週に見た。
今回は一番奥の会場にある写真教室の生徒の作品展「志賀高原」であった。
熱心な生徒が多いらしく、厳しい季節の写真も多くあり、なかなか良かった。
次の「キャノン・ギャラリー銀座」に向かうために、銀座通りに出た。
信号が赤なので待っていたら、そこでゴーカートの一団がやって来た。
コロナ前は良く見掛けたが、最近になってまた出て来たようだ。
ほとんどの場合、若い外国人観光客で、オールインワンのような変なものを着ている。
以前は「マリオカート」と宣伝しビデオゲームのキャラクターの衣装を着て走っていたが、任天堂から訴えられて裁判で負けた。それ以降は「マリオ」は使えずに走っている。
4ヵ所目は銀座3丁目の「キャノン・ギャラリー銀座」である。
ここの写真展は非常にレベルが高いプロの写真展で、いつも感心して帰って来る。
今回は根本佳代子さんの「光を紡ぐ」であった。会場は全体に薄暗く、写真が目立つような展示になっている。
最近の傾向だが、無料の写真展では殆どの場合「撮影OK」である。駄目な場合でも「全体写真ならOK」が多い。写真展は「見てもらって、なんぼ」の世界だから、インスタグラムなどへの投稿も期待しているのかもしれない。
銀座という場所は私にはありがたい。時間を潰すための色々なイベントがあるからだ。
(おまけの話)
4ヵ所のフォトギャラリーを見終って、家に帰る前に銀座をブラブラした。
「銀ブラ」とは私のような暇人がやることで、ここから来ているらしい。
4丁目交差点で目立つのは「和光」のショーウィンドーである。
毎月、展示物を交換するので、「今月は何かな?」と期待してしまう。
向かい側の三越デパートのライオンもクリスマスが近いので、三角帽子を被っている。
1丁目方面に向かうと、松屋デパートがある。外壁一面になにやら貼ってある。
これが何を意味するのかは、ホームページを見ても分からなかった。
少し先の並びには「TIFFANY」があり、派手に「アンディ・ウォーホール」を打ち出している。
その先の「英国屋」はしばらく前に裏通りに移転し、そこはそのままになっていた。
だが今回の「銀ブラ」では、なにか工事が行われるようだと知った。
「木村屋のパン」の少し先に「GINZA 456」というスペースがある。
以前にここになに屋があったか思い出せない。
KDDIがスポンサーで、時々、色々な物を展示している。「息抜き場」みたいのようだ。
今回の展示物は「サッカー・ワールドカップ」の日本選手の、歴代のユニフォームだった。その先の「BVLGARI」では、年末が近づき例年のように巨大な蛇がビルに巻き付いている。銀座という街は、いつ来ても変化があり面白い。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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08/01(火) 原体験に導かれて〜好きを極めた永遠の鉄道少年 横山靖樹氏
原体験 「父親に連れられて、今はなき室蘭機関区に蒸気機関車を良く見に行っていました。たしか2歳頃からだったと思います。当時は90%が貨物か客車を引っ張る機関車で、間近で聴く警笛の音に驚き、父の膝の上でビクッと飛び上がった記憶があります。」 そう語り始めたのは室蘭市舟見町ご出身の横山靖樹氏。 今回の主人公です。 数年前に伊達市役所を退職し、今は室蘭で週数日の仕事を請け負っていらっしゃるそう。 全く知らずに取材を申し込んだのですが、実はその世界の専門誌に登場する有名なモデラーとライターさんでもあることが発覚! なんとも恐れ多いことをしてしまいました。 ですが、とても気さくに丁寧に取材に応じてくださった横山靖樹氏でした。 「12歳になると鉄道模型に夢中になりました。二年間で貯めたお年玉1万1千円で初めて買ったのは金属モデル16番セット(日本規格のJゲージともいう)のBタンクと呼ばれるものです。だいたい6時間くらいで作ったかな…。当時はプラモデルがとても流行っていましたが、僕が作る鉄道模型は真鍮でできています。ですから、父からハンダ付けの道具を借りて作りました。今でもその時の模型は電源・レールともに保管してあります。」 わ! いきなり専門用語が出てきました。 Bタンクって何? 鉄道模型ってプラモデルとは違うんだ! 電源ということは動くの? これはお話に付いていけない予感…。 けれども靖樹氏は優しい口調で丁寧に説明してくださいました。 「Bタンクというのは動輪が二軸あることです。16番(Jゲージ)というのは実際の大きさの1:80の大きさと機能を表すものです。特徴としては加工がしやすくキットが豊富で精密にできます。つまり、より本物に近いものができる。精密に作ることができるので、1:80の大きさとパワーで本物っぽく動かすことができるのです。動かない鉄道模型は僕の中では認めていません。」 鉄道模型には強いこだわりがあるようです。 優しさの中に頑固さを見た瞬間でした。 鉄道模型への想いが熱い!! こちらも模型です。 雪煙を上げながら走るこの列車のカラーは国鉄色と呼ばれるオレンジ色です。 市役所現役時代から所属していた鉄道模型クラブの仲間同士の合同運転会などで、 情報交換やアドバイスをもらい技術を上げていったと言います。 なるほど! 文頭の画像は特別なものではなく、大きさは色々でも全て精巧に動くように作られているというわけです。 模型作りにどんどんハマる靖樹氏でしたが、子どもにはとても高価なのでそう簡単に買えるものではありませんでした。 ある日、中学生になった靖樹氏は鷲別機関区へ行きました。 「その頃は緩かったというか、車庫入りしている機関車に乗せてくれたり、警笛を鳴らさせてくれたりして、今でいう『体験』を通したさり気ない教育をしてくれたんです。」 結果、この時の体験は靖樹氏を『撮り鉄』の道へと駆り立てました。 北海道の蒸気機関車を撮りたい! 靖樹少年、ついに『撮り鉄』の旅を始めます。 「中学生の頃は学校の長期休みを使用しながら、日帰りで出掛けていました。カメラはお年玉で買いました。でも、ジュラルミン製のカメラバックと三脚は父が買ってくれました。」 「高校生になり、宿泊しながら撮りに行くようになりました。とは言っても、夜行列車を利用した車中泊です。いままで一度だけ遠軽の旅館に泊まったな。カメラは当時日給が高かった母方の親戚の酒屋のバイトをして一眼レフを手に入れました。室蘭は急な坂が多いでしょう。坂の下で車から荷物を下ろし、上り坂を担いで行くんです。キツかった…。」 「ところで、撮り鉄時代の面白エピソードや、車中泊や駅泊で困った思い出などありましたら教えていだけますか?」 「高校生時代からひとり旅を許されたのですが、予備フィルムやカメラ、列車時刻の確認、移動切符手配など、周到な準備で出かけるようにしていました。厳冬期 -25℃の道東の朝の出来事なんですが、メガネの金属製ヒンジがポロリと折れてしまいました。ツルの一つはかろうじて耳にかかっていましたが、直ぐずれて間抜けな顔に…。カメラファインダーも覗けず難義しました。メガネの予備を持たなかった失敗談です。また、あるお盆近くの日の出来事です。北見方面の長さ600m程の有名な怪談トンネルを訪れたのですが、トンネルの先は絶好の撮影スポットなので是非とも撮りたいと思っていました。信号所の職員さんに蛍光灯を点けてもらい、帰りもお願いしたのですが、帰りの約束の時間になっても蛍光灯は点かず辺りは真っ暗。職員さんは約束を忘れてしまっていたんです。山間はもう真っ暗でしたが、ダイヤを確認し勇気を振り絞りいざトンネルへ。そこで体験したのは超怪奇現象でした…。真っ暗なトンネル内で何度も転び、真っ黒になって信号所に助けを求めたところ、『あっ 忘れていた! また出たの!? しょっちゅうあるんだよね〜!』って…。今思い出しても寒気がする出来事です。」 「トンネルでの出来事は気になりますが、きっと、苦しい作業の末に亡くなられた成仏できない霊が彷徨っているのでしょうね…。勇気を振り絞って中に入った靖樹少年すごすぎます ^^;」 「また、こんなこともありました。夏の駅での野宿の時です。当時は、駅ホームの待合室では寝ていいよ、っていうのは結構ありました。でも夜中に貨物列車がゴウゴウと通過するのでその度に目が覚めます。でも屋根付きは良かった。特に雨の日。次の朝は蚊に刺され顔がむくんでいましたが笑 昭和の駅員さんはおおらかでした。」 「駅ホームの待合室泊…。実は筆者にも経験があります!今は締め出されちゃいますね。」 車中泊で全道各地の蒸気機関車を撮るようになった靖樹少年は、「もっと技術を上げて良い写真を撮りたい!」「自分で現像をしたい!」という思いから、高校では写真部に入部しました。 一度決めたらまっしぐら。 「現像のための暗室は自宅の一室に毛布をかけて作りました。家中酢酸の匂いがしていました笑」 カメラや鉄道にハマりながらも陸上部を掛け持ちし、短距離走が得意だったとも言います。 文武両道だったというわけですね。 〜というか、じっとしていられないタイプ? 自宅では模型を作り、外ではカメラを担いで蒸気機関車を追いかける日々。 そんな靖樹少年に辛い転機がやってきました。 国鉄の合理化です。 昭和50年代に入り、走る途中で水や石炭を補給しなければならない蒸気機関車は、真っ先に合理化のターゲットとなりました。 そしてついに、通常営業運転としては全国最後になった室蘭本線の蒸気機関車は消えてしまいました。 「被写体がなくなってしまい本当に気落ちしてしまいました。ディーゼルには興味がなかったので撮る気にはなれなかった。当時『赤ブタ』と呼んでいた機関車は撮りたい対象ではなかった。今となれば撮っておけばよかったと思いますが…。貨物車も、昭和の時代にはタンク車があったり、木材を積んだ貨車があったり、引っ張られている貨物車がバラエティーに富んでいたのですが、いまは画一化されたコンテナになり、それらさえも見ることがなくなってしまいました。」 「模型鉄」再開と新たな展開と その後しばらくして結婚。 そして子育ての時期。 「約15年間は鉄道から離れていました。けれども、札幌へ出張するたびに本屋へ行っては専門誌3冊を捲り、『またこの世界に戻りたいな…』という想いを膨らませていました。いつかは再開したいと思いつつも、再スタートの一歩を踏み出せずにいた僕の背中を押す記事を、ある日専門誌に発見してしまいました。自分が中学生の時よりも模型が数倍精密になっていたのです。それを知った時、俄然と模型作りをしたくなりました。実はちょうどその頃、超過勤務の給与を多くいただいていた頃で、それを原資にすることで再開することを決意しました。上の子どもが高校生の時でした。」 聞いて驚いたのが真鍮製機関車模型の価格。 なんと、1台20万円〜50万円くらいするそう! 何しろ、全てが本物の1 : 80なのですからその位はしてもおかしくないわけです。 ですから模型作りよりも家庭経済を優先させた靖樹氏の判断は当たり前と言えば当たり前でした。 「それは『我慢した』という感覚でした。」 15年ぶりの模型鉄再開はさぞかし嬉しかったことと思います。 さて、再開をした靖樹氏は鉄道模型を作るだけでなく、模型とジオラマの融合を始めました。 そして、仲間を集めて倶楽部活動も始めました。 先ほども少し触れたご自身が会長を務める「北軌道倶楽部」です。 「現在20名ほどの会員がいます。年代は40代から60代の方々。実は自分のような人間がいるのが不思議なくらい裕福な方が多いです。模型は高いですからね。その仲間で2~3ヶ月に1回くらい例会をしています。会でしていることと言えば、持ち寄った模型を走らせて酒の肴にして語り合う。そんな会です。」 どうやら想像以上にマニアックな会のようです。 「ところで、新たな展開としてジオラマも手掛けるようになったようですが、ジオラマも真鍮製なのですか?」 「真鍮も使いますが、ジオラマの材料のほとんどはお菓子の空き箱などのボール紙です。コルク板、発泡スチロール、集成材やプラスティック加工用のスプレーなども使います。他に使う材料は…、選ぶのがちょっと恥ずかしいのですが、100均のコスメパーツです笑。」 「え!? 化粧品ですか?」 「はい。たとえばネイルパーツなどをよく使います。」 つまりオリジナルの世界なのでキットでは作れないというわけです。 それではここで鉄道模型とジオラマの世界をとくとお楽しみください。 いかがでしょう? 細かい作業が苦手な筆者には、神業すぎて、素晴らしすぎて写真だけでもコーフンします。 もちろんこれらは靖樹氏のコレクションの極々一部です。 現在、車両のみで300両はあると言います。 それらは全て自宅納戸に保管されているそう。 「どれも皆素晴らしいですね!ところで、いま一番作りたいものは何でしょうか?」 「ジオラマでは鉄橋です。河川に架かる橋は鉄道車両と一体になる風景です。橋梁製作、法面の(植物)作成、河川表現等ジオラマの世界では高度な技術を駆使します。今、橋でも難しいリベット組立の魚腹ガーダー橋梁を使用したジオラマ製作を行なっています。」 最後に鉄道模型車両とジオラマ風景を融合させることの魅力を語っていただきました。 「まず、作ることそのものが魅力です。そして、ジオラマと融合させることで自分が育ってきた北の街の昭和の風景を再現することができる。あの頃の時代は戻らないけれど、自分で作ることでいつでも手の届く存在として側に置くことができる。まあノスタルジーですね。北軌道倶楽部のアジトにはレイアウトを考えた線路が常時敷かれた状態になっています。そこに人や樹木や草地や川や土手など風景を加えていくことで、想像の世界が広がっていきます。そうそう、今、会で『樹木ひとり一本運動』というのに取り組んでいます。一人一人が樹木を作り森を育てています。ジオラマの環境整備ですね。皆んなで作ることで、会員同士が交流し合い、切磋琢磨し合って、技術レベルも上げていきたいし、より素敵な模型とジオラマの融合の世界を作っていきたいと思っています。その過程が魅力です。若い人も増やしていきたいな。」 そして、実は「撮り鉄」も復活していました。 「撮り鉄はデジカメ時代になって復活しました。銀塩カメラ時代は現像して見ないと画像の確認ができませんが、今は出来をその場で確認できるのでとても便利で良いと思います。今でも車中泊の撮影旅(放浪の旅とも言う)を許してくれる嫁さんには本当に感謝しています。もちろん、キチンと1日一度安否報告はします。列車撮影、車中泊等全ての面でちゃんとコンプライアンスは厳守していますので、昔のようなエピソードはありません。でも、列車の遅れ、運休は昭和より多いですね。安全を考慮するとそうなるのかもしれませんが、『鉄道魂』と言うものが現場から消えかかっているのでしょうか…。時代は変化しているという事をつくづく感じます。」 永遠の鉄道少年靖樹氏は、終始にこやかに物語を話してくれました。 「どこかで常設展示していただきたい気持ちはありますが、車両1両が何十万円もする物ですし、輸送中壊れやすいジオラマもありますのでそう簡単なことではありませんね。」 是非「だて歴史文化ミュージアム」に横山靖樹コーナーを作って欲しい! 切に願います!
Rietty
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Shinji