心の伊達市民 第一号

新橋のどこかで、壁に貼ってある「アド・ミュージアム」の広告を見た。
家に帰るには新橋からならBRTの乗るので、ミュージアムの場所が汐留なので寄ってみることにした。


会場は「カレッタ汐留」の中にあり、私は初めて来たが常設館らしい。
こんな施設が以前からあるとは、全く知らなかった。
入口に行ったら、入場は無料だが「予約制」と書いてあった。




        江戸時代の「アド」。 左から「床屋」、「両替屋」、「あめ屋」


中を覗いたら、ほとんど見学者はいなかった。
そこで係の女性に『予約をしていないのですが、入れますか?』と聞いたら、『どうぞ』となった。
入口横で氏名と連絡先電話番号を記入して、入場が許された。
これはコロナ感染者が出たら連絡する為のようだが、今はもう不要なのでは?




        ニセモノを退治する本家の「そめいさん」ポスター


このミュージアムでは時々、展示物を入れ替えているようで、いまは企画展「元気が出る広告」を28日までの予定で開催中であった。ホームページに館長の挨拶文があり、「私達が普段なにげなく接している広告。人間の持つ普遍的な面白さ、愛おしさを表現してきたたくさんの広告は、人の心を動かすアイディアの宝庫です。


過去の広告アーカイブはもちろん、本ミュージアム独特のテーマでの企画展を通してクリエイティビティの未来をみなさんと一緒に考えていきたいと思います、世界でただひとつの広告ミュージアム、アドミュージアムを心まで楽しいんでいただけたら幸いです」とあった。




   
          「三越」は当時は「三越呉服店」だった。


入口を入ると、「日本の広告史」のコーナーで、江戸時代から広告があったことが分かる。
ピーター・ドラッカーに「マーケッティングの原点は日本の江戸にあり」と言わしめた江戸時代の広告は現在のタレント広告の原点だそうだ。


館内は「写真撮影OK」というのが、ブログに取り上げるにはありがたい。
江戸時代の最初の広告は現在のようなものではなく、「なに屋」か分かるように木彫りのマークだった。





       「カルピス」は昔は右から左へ読む。


先に進むと、段々と絵が広告になって来るのが分かる。
浮世絵風のタッチの絵で、「文明開化の音がする」と解説されている。
可笑しいのは既にその頃には「ニセモノ」の広告があったようで、「正本家そめいさん」という広告があり、「類似品の出回りに注意」を促している。


「そめいさん」というのは、どうやら「煎じ薬」のようである。
店のシンボルの天狗がニセモノを投げ飛ばしている絵柄が面白かった。




            「SHISEIDO]


先に進むと外国の影響が表れて、絵の中に外国人が登場して来る。
その頃の日本人は、外国から来る文化に憧れていた様子が覗える。
「カルピス」の広告も洋装の日本女性でハイヒールを履いているが、まだ人物はタレントではなく絵で表されている。


「滋養強壮」も「カルピス」も、いまと逆の左から右へと文字が書かれているのが時代を感じさせる。
三越はまだ「三越呉服店」と表示されていて、「復興工事完成 四月七日 開館」となっていた。




         戦時中のプロパガンダ・ポスター


更に進むと太平洋戦争の最中で、政府のプロパガンダの広告となる。
「進め 一億 火の玉だ」とか、「撃ちてし やまん」など、私の子供の頃に聞いたことがあるような言葉が出ている。その先からは戦後の時代で、私には懐かしく、馴染みのある広告となる。


「男は黙って サッポロビール」など流行ったなー。原始人がマンモスの後に付いて行く、日清カップヌードルの「hungry?」も懐かしい。無料でかなり楽しめる。後期高齢者に最適のアド・ミュージアムだった。




      懐かしいポスター「男は黙ってサッポロビール」




(おまけの話)
「銀座百点」という毎月発行の小冊子がある。これは銀座の名店と言われる店に行くと置いてある。
その中に「セイコー・ミュージアム」の館長の対談が出ていた。
私はいつも銀座に行っているくせに、セイコー・ミュージアムのことを全く知らなかった。


「セイコー」は言わずと知れた日本の時計メーカーで、銀座4丁目角の和光はグループ会社である。
和光のショーウィンドーは時々、展示物が入れ替わるが、私はそれを見るのを楽しみにしている。




          「セイコー・ミュージアム」(銀座)



和光から有楽町方面に向かい、3つ目の路地を入った右側が「セイコー・ミュージアム」だった。
こんないい場所にあるのに、私は今までなぜ気が付かなかったのだろう?
ホームページを見たら、ここも入館は予約制だったのですぐに申し込んで早速、行ってみた。
10時30分の開館と同時に入ったので、見学者は私だけだった。





     時計部品を加工する旋盤(いまでも動く)



1階から6階までがミュージアムで、それぞれの階にテーマがある。
私は初めて知ったが、創業者の服部金太郎さんは1892年に会社を興し柱時計を作った。
ところが1923年9月の関東大震災で、会社も工場も全て焼失してしまった。


お客さんから預かっていた修理依頼の腕時計1500個も焼失してしまったが、会社再建後、全てのお客に新品の時計を届けたという逸話が書いてあった。これで一挙に信用が付き、その後の発展に繋がった。
やはり大成する人は、やることが凡人とは違うようだ。色々な時計の歴史も学び、良い見学であった。





       私の子供の頃に実家にもあった柱時計


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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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