桜や蓮の花の時期でもないのに、上野公園に行った。
ネット情報で5月15日に上野公園内にある「彰義隊墓所」で、第156回法要が行われると知ったので行ってみることにしたのである。墓所は公園を入ってすぐの「西郷隆盛像」の後ろにあるようだが、私は見たことが無かった。

「彰義隊」という名と多少の知識はあったので、この機会に「彰義隊」に付いて調べてみて上野の歴史散歩をしたのである。


不忍池では蓮の葉が出て来た。



「彰義隊」に付いて簡略に書くと『幕末期の1868年、江戸幕府の征夷代将軍であった徳川慶喜の警護などを目的とした渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊である。江戸幕府より江戸市中取り締まりの任を受け、江戸の治安維持を行った。しかし戊辰戦争の一環である上野戦争で明治政府軍に敗れて解散した』という歴史上の事件である。


「西郷 隆盛像」



【西郷隆盛と勝海舟による江戸城総攻撃の中止】
『江戸城では主戦派と恭順派に分かれ、激論が戦わされた。慶喜は当初、抗戦の意思であったが、その後、恭順の意を表して江戸城を出て、上野寛永寺に入って謹慎の意を表した』

『新政府軍の総督府参謀の西郷隆盛は、3月12日、江戸高輪の薩摩邸に入り、旧幕府軍総裁の勝海舟と会談した。江戸城の明け渡し、慶喜の隠居、水戸での謹慎などが決り、江戸城総攻撃は中止された』。


 愛犬「ツン」



『一方で「江戸城無血開城」を不満とし上野寛永寺に立て籠って抵抗する彰義隊がいた。これを上野戦争と言い、最大の激戦地となったのが、寛永寺の正門に当る「黒門」である。西郷隆盛の指揮する薩摩藩の精鋭部隊は黒門口から正面突破を図り、彰義隊は寛永寺本堂へ退却した。団子坂の防衛線も新政府軍に破られて、挟み撃ちとなり彰義隊は壊滅した』。


  上野「寛永寺」



少し歴史の勉強をしてから上野公園に行ったので、最初の西郷隆盛像も今までとは違う感じで見た。上野の西郷隆盛は和装の着流し姿で、愛犬(ツン)を連れて立っている。
しかし鹿児島の西郷隆盛は、私は見たことがあるが軍服姿である。
なぜこんなに違うのだろう?

その理由は「原型は当初、陸軍大将の盛装だったが、名誉回復がなされたとはいえ、一度は明治政府に叛いた逆賊とされた人物を軍服姿にすることに反対があり、いまの姿になった」そうである。


「黒門」(寛永寺)



彰義隊が上野戦争の激戦で玉砕した場所は、上野寛永寺の「黒門」である。
そこで私は黒門も見に行った。しかし黒門にはなにも歴史を示す説明版は無かった。

そろそろ彰義隊の法要の時間が来るので、墓所の方へ歩いて行った。
墓所の前にはテントが張られ、中に関係者や僧侶が続々と入って行くのが見えた。
僧侶の人数は30名はいそうだ。関係者と僧侶の人数は同じくらいだった。


「彰義隊」の墓



墓石に刻まれた銘は「戦死者の墓」で、山岡鉄舟の筆によるものだそうだ。
彰義隊は明治政府にとっては逆賊なので、墓にその名を顕すことが憚られたためにこのような銘になった。
法要の開始時間になり、中から雅楽の演奏が聞こえて来た。続いて僧侶の読経が続く。

テントの中に入らない関係者らしき人達がいたが、彼らは会員になっていないのかもしれない。今回の歴史散歩で、幕末の歴史の面白さを再確認した。
中学の歴史の先生が年表だけでなく物語を教えてくれたら、もっと早くから歴史に興味が持てたと思う。


 小雨のテントの中で法要が始まった。



(おまけの話)
【月の松】
せっかく上野公園に行ったので、公園内の他の歴史を見て廻った。
最初は寛永寺「清水観音堂」の「月の松」である。
これは1631年に東叡山寛永寺を開山した天海大僧正が京の清水寺に倣って建立した。

「清水の舞台」の前に配されているのは、歌川広重も浮世絵に描いた月の松である。
琵琶湖に見立てた不忍池を眼下にする風流な景観になっている。


 「月の松」(清水観音堂)



【上野大仏】
この大仏は以前は「釈迦如来坐像」だったが、関東大震災に至るまで度重なる罹災により損壊し、胴体も戦時の金属供出で失われた。現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている。それで「もうこれ以上は落ちない」と受験生の験担ぎとして、パワースポットになっている。場所は「上野精養軒」の近く。


「上野大仏」



【お化け灯篭】
「上野大仏」を奥に進むと、「お化け灯篭」がある。
これは佐久間勝之が上野東照宮に奉納した、巨大な石灯篭である。
私は「お化け」というほどのもではないと感じたが、日本三大灯篭として数えられているそうだ。

私の育った家には、この半分くらいの高さの同じような形の石灯篭があったのを思い出した。


 「お化け灯篭」


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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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