心の伊達市民 第一号

写真で見る東京(101)・・・蔦屋重三郎

NHKの大河ドラマ「べらぼう」を私は見ていないが、女房は自分の部屋で見ているようだ。試しに視聴率を調べてみたら、意外に低く12.6%だった。

山本区長の新年の挨拶にも、次のように登場している。 
『本年1月から放送される大河ドラマでは、江戸随一 の出版人、蔦屋重三郎の生涯が描かれます。日本橋の 通油町(現在の日本橋大伝馬町)に開いた書店「耕書堂」 を活動拠点として、山東京伝、喜多川歌麿、東洲斎写 楽などの・・・』

『作品を次々と出版した本区にゆかりのある人 物です。令和9年3月の区制80周年に向けてシティプ ロモーションの取り組みを推進している中、区民の皆 さまが地域の歴史文化資源の魅力を発掘・発信する契 機となりましたら大変喜ばしく思います』。 


  中央区が発行した「べらぼう」のパンフレット 



【ラッピングバス】
中央区では江戸バスという名のコミュニティ・バスを走らせている。
料金は100円だが、65才以上はパスを発行し無料である。
時々、このバスにラッピングをされているのを見掛ける時がある。

中央区の発表では『中央区では各所で「べらぼう」に関連したイベントや展示が行われていますが、PRの一環として「べらぼう」と「浮世絵」をデザインした特別仕様のラッピングバスが走っています。「江戸バス」は全9台ですが、その内の2台だけの特別仕様です』。


 ラッピングした「江戸バス」



【十返舎一九の墓】
中央区が色々と「べらぼう」を応援しているならと思い、観光協会のHPを見たら、「蔦屋重三郎特集」というサイトがあった。
それを見ると、蔦屋重三郎の中央区内の「ゆかりの場所」が出ていた。
そこで暇にあかせて、その中のいくつかを見て廻った。

私の住むマンションから一番近いのは、100メートルくらいの場所にある「十返舎一九」の墓である。十返舎一九は江戸時代の大ベストセラー「東海道膝栗毛」の作者で、彼の墓は真園山東洋院にある。その寺の門の外の横にあるが、なぜ境内ではないのか? 境内は狭く場所が取れなかったのかもしれない。

彼は駿府の武家に生まれ、1794年に江戸に出て作家になるが、下積み時代は蔦屋重三郎の家に居候していた。   


 「十返舎一九」の墓所と説明板



【酒井抱一の墓】
次に見に行ったのが、「酒井抱一」の墓である。
彼の墓は、なんと私の墓がある「築地本願寺」の境内にある。
正門を入ってすぐ右に行ったところにあるが、面白い形をした墓だ。
酒井抱一は江戸時代後期に活躍した画家で、いわゆる江戸琳派の創設者である。

姫路藩主酒井家の子として神田で生まれ、若い頃から俳諧や絵画に才能を発揮した。狂歌師として蔦屋重三郎と同じ 狂歌連に属していた。亡くなった後は築地本願寺に葬られた。ここには四十七士の1人である「間新六」は泉岳寺ではなく、「酒井抱一」の隣に墓がある。



【柳橋】(地下鉄「浅草線」で東銀座から東日本橋へ)
江戸時代には吉原へは舟で行くのが人気だった。舟の発着場が「柳橋」のたもとで、下を流れるのは神田川である。

この辺りは江戸っ子が舟から花火や月見を楽しむ舟遊びの場所で、芸者たちの芸を楽しむ花街であり、吉原への遊客が利用する舟宿や料亭などが立ち並んでいた。
柳橋から「猪牙舟(ちょきぶね)」と呼ばれる小舟に乗って隅田川を上り、山谷堀で舟を降り、そこから日本堤の土手を駕籠や徒歩で吉原に行った。

明治期には新橋と共に「柳新二橋」と称されていたが、柳橋の方が格が上とされ、新橋芸者は柳橋芸者が三味線を弾き始めるまで弾くことが出来なかった。
「柳橋」という橋が大人っぽい艶な印象を残すのは、その花街の歴史ゆえだろう。
現在は鉄の橋があるだけで、なにも艶っぽく無い。


  「柳橋」



【大安楽寺の牢屋敷跡】(柳橋から徒歩で小伝馬町へ)
小伝馬町の交差点近くに「大安楽寺」がある。ここは昔の刑場跡で、それを伝える碑が立っている。有名人では「吉田松陰」がここで処刑されているし、「平賀源内」は獄死している。 

平賀源内と蔦屋重三郎の関係は、まだ蔦重が出版事業に乗り出していない時、江戸の歓楽街・吉原で書店を開業したばかりの頃の話である。1774年、「蔦重」は吉原遊郭の案内書である「吉原細見」の編集者になっていた。

この吉原細見は妓楼の所在地や、在籍する遊女の名、遊び代などを掲載する情報誌であったので、付加価値を付けるために蔦重は有名人の平賀源内に序文を依頼したのである。
蔦重はなかなかの商売人である。


「江戸傳馬町牢屋敷跡」(大安楽寺)



【時の鐘】
「時の鐘」は「江戸傳馬町牢屋敷跡」の向かい側の「十思公園」の中にある。
大安楽寺を含むこの一帯は2600坪を越える江戸幕府最大規模の牢屋だった。
犯罪人を350~700人を収容でき、明治8年に市ヶ谷囚獄の完成により廃止となった。

この公園内に江戸城下の人々に時刻を知らせていた鐘がある。
鐘は高さ170センチ、口径93センチと大きい。
現在は耐震工事の為に仮囲いで中に入れないが、上部だけは見ることが出来た。


 「時の鐘」(十思公園)



【耕書堂跡】(時の鐘から徒歩)
耕書堂の1号店は吉原の中で、以前に吉原まで見に行ったことがある。
中央区と蔦重の直接的な関りは1783年、蔦重が33歳の時である。
江戸ナンバーワンの版元を目指し、「耕書堂」の新店舗を日本橋通油町に進出させた。

通油町は当時、常盤橋門から浅草橋門を東西に結び、江戸の中心地である本町を走る「本町通り」に面していた。その場所は現在の小伝馬町になる。
前回のブログで私は「耕書堂跡」を探し、この辺りを歩き廻ったが、ついに発見できなかった。今回は下調べを良くして行ったので問題なく発見できたが、ただ説明板があるだけだった。


「耕書堂跡」の立札



【歌川 広重の住居跡】(翌日に地下鉄「日本橋駅」から徒歩)
住居跡をネットで調べて、古い記事だが「歩いて行った人のブログ」を読んで出掛けて行った。

「歌川 広重」は江戸末期の浮世絵師で、詩情豊かな風景版画で名を成した。
代表作に「東海道五十三次」、「名所江戸百景」がある。
1849年から死去するまでの約10年間を、現在の京橋で過ごした。

地下鉄「日本橋駅」のB1を出て昭和通りを歩き、途中から中央通りに向かう。
その途中の大規模再開発の場所がそうなのだが、説明文など立っていない。
ビルの道路側の壁が壁面緑化になっていた。そこを歩いて行くと、途中に「歌川 広重の住居跡」という立派なプレートが埋め込まれていた。「歌川 広重の住居跡」は京橋のオフィス街の中にあるので、無いかもしれないと思っていたので嬉しかった。


 「歌川 広重」の住居跡(日本橋)



【末廣神社】(地下鉄で「日本橋駅」から「人形町駅」へ1駅)
人形町は明暦の大火まで「吉原」があった場所で、蔦重が生まれた「新吉原」に対して「元吉原」と呼んで区別されていた。

江戸時代の人形町エリアは、人形浄瑠璃の芝居小屋や、官許の芝居小屋である中村・市村の両座があって繁盛していた。蔦重も芝居を見て楽しんだろうと思う。

最後に「末廣神社」を取り上げてたが、資料によると『江戸初の遊郭「元吉原」の鎮守として宗敬された。明治3年の明暦の大火で、遊郭は浅草に移転した。その後も近隣4町の氏神として信仰されて来た』。(終り)


 「末廣神社」(人形町)

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コメント

  1. Shinji

    Shinji

    返信

    江戸時代の歴史がザクザクありますね。
    遊郭とか吉原、とか、性産業がおおっぴらにその存在を文化にまで確立させた江戸時代というのも、不思議なものだと思っています。本来、コソコソと他人に知られないように行く所のはずですよね。

  2. TUTAYA(Y)

    TUTAYA(Y)

    返信

    書店・「蔦屋書店」のお店の新らしい展開振りを見ていると、創業者の意向が面々と継続されていることがよく判ります。新興企業が僅か三代目や四代目で創業者の考えを忘れて伝統の大切さから遊離してしまったのを見るたびに悲しくなりますね。いつまでも新進気鋭精神を忘れない「蔦屋」であって欲しいのです。

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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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