久しぶりに北海道のネタを一つ…日本最北端の地・宗谷岬にほど近い宗谷公園に、「津軽藩兵詰合記念碑」と刻まれたモニュメントが建っています。その碑は何故かコーヒー豆を象った形状をしてまして…最北の地にコーヒー豆?と思いますよね?江戸時代末期、津軽藩士らが北方警備にあたった壮絶な歴史が隠されているそうで…。talisman

蝦夷地には和人とアイヌが交易を行う「会所」という拠点が各地に設けられていました。文化3年(1806)、ロシア海軍が樺太と利尻の会所を急襲するという事件が起きたらしいの…。ロシアの南下政策に危機感を抱いていた幕府は翌文化4年、蝦夷を直轄地とし、北方警備強化の断を下します。そして、最初に派遣されたのが、本州最北端の津軽藩士約230人だったようです。

「寒さに強いはず」と先陣を仰せつかったはずの兵たち…たださ、寒さは東北の比ではなく、多数の越冬死者を出したらしい…。翌年、交代要員として派遣された会津藩士たちも、状況は同様で、派遣総数1293人、宗谷には346人が留まったようですが、内50数名が死亡したとされています。敵はロシアではなく、酷寒だったようですね…。

死因の大半は、寒さや野菜不足による水腫病…。北辺の地に不慣れな和人特有の病とされた…。実は津軽・会津に先立つ享和3年(1803)に蘭学者の広川かいという人物が、コーヒーに水腫病に対する薬効がある事を発見していたんですよ…。

ほぼ半世紀を経た安政2年(1855)、幕府は再び津軽藩に蝦夷地への派遣を命じますが、今度はコーヒー豆を支給しています。「寒気を防ぎ湿邪を祓う…。黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでよくつき砕き、2さじほどを…」。箱館奉行が記した薬効と飲み方を指南した通達です…。

宗谷を舞台にした、コーヒーをめぐる悲しい歴史を秘めた物語…。平成4年(1992)、青森県内の喫茶店主らが、いつまでもその史実を伝えようと「コーヒー豆の碑」を建立したもので…。かたわらには、無念の死を遂げた藩士らの墓標も建っています。


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