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[2009.04.16]
■45年はあまりに遠い
以前にも時々、書いているが、私は45年前にニューヨークに渡り世界博覧会の会場の中にあった日本館でバスボーイとして働いていた経験がある。 
その話は長くなるので、以前のブログをクリックして参照して欲しい。 
 
日本に戻ってからは、一緒にNYに行った仲間の中で面倒見の良いO君がズーとその時の同窓会の幹事をしている。そのO君から連絡があった。 
ニューヨーク世界博覧会から45年経つ。次の50周年は高齢化が進み、もう出来ないかもしれない。だから45周年記念の同窓会を開きませんか?』とあった。 
 
1964年当時のアルバム 


それで、4月11日に有楽町の外国人特派員協会で同窓会が開かれた。 
当時、一緒にNYに行った仲間は和・洋食コック、ウエイトレス、バーテンダー、ウエイター、マネージャー、理髪師、美容師、そして我々バスボーイ(15人)を含めて総勢で250名くらいだったと思う。その中の47名が参加した。 
 
外国人特派員協会 
 
日本に戻ってからは、私は飲食業の世界からは遠ざかっていたので、バスボーイ以外はあまり付き合いが無かった。 
だから、中にはよく覚えていない人達もいる。 
 
中でも、伊達市の町興しに縁があるK女史は相変わらず若くて元気がいい。そんな中で私が一番懐かしかった人は、一緒にNYに行った床屋のNさんであった。 
彼は私の頭を刈った後に、スプレーで形を決めるのが好きだったなー。 
 
記念撮影 
 
45年もお互いに違う世界で人生を歩んで来た人達ばかりなので、45年はあまりに遠い。それでも楽しく昔話をして盛り上がった。ジジババには昔話が一番である。 
 
よく『1年なんて、あっという間に過ぎてしまう』なんて言うが、それは若い頃の話で、引退したオヤジには『1年はなかなか過ぎない』。でも、45年はあっという間に過ぎてしまった。 
 
(おまけの話) 
23年くらい前のことだが、私は自分のルーツを知ってもらう為に家族を連れてNYに行った。そして、私の住んでいたクィーンズ地区のFlushing のアパートを見せた。 
 
そこは私のそれからの考え方も変えてしまった青春時代の思い出の地である。 
その頃の私は、すぐ近くのダンキン・ドーナツで朝食を食べ、たまには有名な野球選手だったジョー・ディマジオの店でスパゲッティを食べたのである。 
 
家族を案内した頃は、まだ当時とはそんなに変わりはなかった。『アメリカって、あまり変わらないんだなー』と感じて帰って来たのである。 
その後も何回かNYには行ったが、FLushing には寄っていない。 
 
ところが、今年の2月にO君は仕事の関係でNYに行っていたらしい。その時にFlushing に行ったと報告があった。 
『地下鉄は25セントのトークンから、2ドルの札に変わっていた。Main streetはまるで中華街、Northern Blvd.に突き当たった途端に韓国のハングル文字が氾濫。ダンキン・ドーナツも、ジョー・ディマジオの店も、よく通ったボーリング場もありませんでした。』と書いて寄越した。 
 
アメリカも45年も経てば変わらない方がおかしい。 
今年はオバマ大統領が、この閉塞感を変えてくれるか? 
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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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