ブログ閉鎖中の話題(2017年5月15日)  【終戦記念日に寄せて】(2022.8.15)

今年も間もなく、終戦記念日の8月15日がやって来る。
そこでもう一度、歴史を振り返るために中央区の図書館で「パール判事の日本無罪論」を借りて来て読んだ。

以前にもパール判事の本を読んだことがあるので、これで2冊目だが、この本はかなり詳しく東京裁判について書いてあり非常に参考になった。
最近でこそ東京裁判のことを批判することが出来る時代になったが、少し前までは禁止はされていなかったが話題にしても非難された。


「パール判事の日本無罪論」・・・★★★★


東京裁判を裁く側の構成国はアメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中華民国(現在の台湾)、オランダ、フィリピン、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド(11か国)でそれぞれ1名の判事を出した。
裁判長はオーストラリア人のウェッブ、首席検事はアメリカ人のキーナンだった。


開戦時の日本首相「東条英機」。・・・・絞首刑。


マッカーサー元帥は東京裁判を始めるに当って、裁判所条例(チャーター)を作った。
これをパール判事が問題としたのである。
マッカーサーが国際法で禁止されていた「事後法(遡及法)」を採用したからである。

「法律無ければ刑罰無し」が近代法で、パール判事は「これでは勝者による敗者への復讐である」と断じたが、裁判では彼の意見は採用されず無視された。


靖国神社にある「パール博士顕彰碑」


東京裁判は1946年5月3日から2年半の年月を掛けて行われたのである。
起訴容疑は「平和に対する罪」、「戦争犯罪」、「人道に対する罪」の3件からなっていた。
被告は28名で判決は裁判中に病死2名、精神病で1名を除く25名が有罪となり、その内の7名が死刑だった。


顕彰碑に書かれたパール博士の言葉。


パール判事は「平和に対する罪、人道に対する罪などは事後法であり、この裁判は不法である」と1275ページもの日本無罪論を展開したが、裁判後も連合国により公開は禁止されたのである。
この中でパール判事は「戦争は犯罪か?」、「人道に対する罪というなら、アメリカによる原爆投下は許されるのか?」、「戦勝国も同様に裁かれるべき」と述べている。


厚木飛行場に降り立った「 ダグラス・マッカーサー」


この問題はあまりに難しく法律家でも様々な意見があるので、私などが軽々と意見を述べるべきではないと思うが、パール判事の意見が真っ当に思える。

靖国神社にあるパール判事の顕彰碑に書かれた彼の言葉は重く、胸を打つ。
「時が熱狂と偏見を和らげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剝ぎ取った暁にはその時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」


東京裁判全景。


「東京裁判」は正式名は「極東国際軍事裁判」 といい、戦勝国が敗戦国の日本を裁いたのである。この裁判の不法性と欺瞞を告発した男が、11人の連合国判事の中でただ1人いた。それがインド人判事のラダ・ビノード・パール判事だったのである。


被告席の日本軍指導者たち。


(おまけの話)
東京裁判は世界中の歴史家の間では、かなり研究が進んでいる。
現時点では「東京裁判は誤りだった」が主流になっている。(中国、韓国を除く)
それを裏付ける大きな理由に、後にマッカーサーは米議会で証言に立ち「日本が第2次大戦に赴いたのは、安全保障の為であった。東京裁判は誤りであった」と述べている。


東京裁判が行われた場所が保存されている。

防衛省内・市ヶ谷記念館入口(2017年5月に撮影)


また東京裁判の判事だったキーナン主席検事は裁判5年後に「東京裁判は感情論に過ぎた」と新聞に投稿している。また、オランダのレーリンク判事、フランスのベルナーレ判事、ウェッブ裁判長も揃って「あれは行き過ぎだった」と述べている。

米国の上院議員のフルブライトは「原爆投下などの日本に与えた残虐行為に対する悔恨の印として、私は対日フルブライ留学生制度を始めた」と述べている。


東京裁判が行われた場所が保存されている。


パール判事はその後も何度か、招待されて日本を訪れている。
その時に日本側の主催者が挨拶で「東京裁判の際には、日本に同情的な意見書をありがとう御座いました」と述べたことに彼は怒り、「同情などしていない。私は法の正義の為に戦ったのだ!」と言ったそうだ。 

この話を本の中で読んで、「立派な人だなー」と私は思った。
私はそんな立派なこともせず、人生を終えようとしている凡人である。


日本が主戦場にした大東亜の戦略会議用の地図。


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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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