
心の伊達市民 第一号
12月の最後に、これを本当に最後のブログとしたい。
暮れの迫ったある日に、都内の5か所を速足で廻った記録である。
どのように廻ったかが分かるように、電車とバスの経路を示してある。
「勝どき」ー(東京BRT)ー「新橋」-(都営浅草線)ー「浅草橋」
先ずは「浅草橋」に行った。少し前に読んだ本「自転車お宝ラーメン紀行」に、浅草橋のラーメン屋「幸喜」の話が出ていたからだ。
著者も「もしかしたら、もう閉店しているかも?」と書いていたが、まあそれでもいいと思って行ってみた。
場所は総武線の高架下と分かっているので、探してみたが見付けられなかった。
該当する場所には別の店が入っていたので、もう閉店したのだろう。
「浅草橋」-(都営浅草線)-「浅草」
次は「浅草」に行った。
ここで観光や歩き回る気はなく、上野に行くための都バスに乗るためである。
「上野松坂屋前」行きのバスに乗るのだが、1時間に3本くらいしか無かった。
まあ急ぎの旅でもないので、バス停で待った。
その時に懐かしいような音が聞こえた。最初は何だか思い出せなかった。
少し経って向かい側の歩道に「チンドン屋」が現れた。
まだこの商売が浅草では生き残っているのを知って、なんだか嬉しくなった。
「浅草」ー(都バス)ー「上野」
都バスを「上野駅前」で降りて、坂を上り上野公園に向かった。
結構、長い上り坂なので、足に来る。
上野公園に入ると、右側にある「国立西洋美術館」に長い行列が出来ていた。
そして気が付いた。「モネー睡蓮のときー」を開催中だったのだ。
その先にある少し小高い場所の銀杏が最盛期を過ぎて、地面いっぱいに黄色い絨毯のようになっていた。思わず私は自撮り写真を撮ったのである。
私の上野公園での目的は、東京都美術館で開催中の「総合写真展」を見ることだった。
入口の前には巨大なスチール製の鏡の球体がある。これは築地の「はとば公園」にあるものと同じだ。「はとば公園」の作品名は「my sky hole 92-6 水の情景」で、作者は「井上武吉」である。
写真展は広い3会場を使って行われていた。係員に聞いたら、1000点以上の作品が展示してあるそうだ。私のマンションの友人も以前に勧められるままに3点を出展したら、1点で5万円も掛かったそうだ。
写真は上手なものは少なく、1000点もあると家族のスナップ写真まで出ていたのは驚きだった。1000点×5万円=5000万円となり、ずいぶんと良い商売のように思えてならなかった。
「総合写真展」ではとても1000点の写真は見切れないので、途中で会場を出た。
そして上野の杜を散歩した。相変わらず、大道芸も出ている。
ポカポイ陽気で、中にはTシャツの外国人も歩いていた。
駅に向かう上野の杜にはまだモミジの紅葉が残っていて、それが逆光の中で輝いていた。
上野公園は桜の名所だが、桜が無くても平日なのに大勢の人が来ていた。
「上野」ー(都営大江戸線)ー「飯田橋」ー(東京メトロ東西線)-「九段下」
「上野御徒町」から大江戸線に乗って、「飯田橋」で降りた。そこから東西線に乗り換えて「九段下」に行った。
東西線は都営ではないので、料金が掛かる。遠回りすればシルバーパスだけでも行けるが、時間がもったいないので1駅で行ける東西線に乗った。日本武道館を左に見て進み、右に入ると広い自然公園となっている。
池の淵に植えられたススキが、光を浴びて光り輝いていた。
そのまま進むと反対側の出口に出る。道路の向かい側は皇居の「北桔橋門」である。
道路に出るすぐ手前を右に入ると、突き当たりが「旧近衛師団司令部庁舎」である。
右側は池で、左側には「」の銅像が立っている。
この銅像は「北白川宮能久親王」で、近衛師団長を勤めた人だそうだ。
ここはイチョウの木が何本もあり、地面は黄色い絨毯を敷き詰めたようだった。
銅像の前を通り過ぎると、すぐに「旧近衛師団司令部庁舎」の敷地になる。
「旧近衛師団司令部庁舎」には少し前に来たばかりであるが、今回は動画撮影のリベンジのためである。前回は動画を撮影したのだが、館内で開催中の「わざの美ー工芸が織りなす装飾の世界」を観賞する人が多かった。
やっと撮影した動画には人が映っているし、画像がブレブレだった。
そこで動画を撮るためにだけ、再度、ここへ来たのである。
幸いに人が少なく、まあまあの動画が撮れて良かった。
「九段」ー(東京メトロ東西線)ー「日本橋」
次に行くところは「日本橋」である。そこで九段下には戻らずに、「竹橋」まで歩いて行った。 日本橋は竹橋から東西線で2駅である。
三越デパートで開催中の「2024年 報道写真展」を見るのが目的だった。
毎年ここで開かれる報道写真展を、私は楽しみにしている。
今年の報道写真はパリ・オリンピックの写真が多かった。
他には能登半島災害、大谷翔平、日航機事故、天皇皇后ご夫妻のイギリス訪問などが多かった。この会場では写真撮影はOKだった。大勢の見物客で、あまりゆっくりは見られなかった。帰りは交通費の掛からないシルバーパスだけで、家まで帰った。
「日本橋」-(都営浅草線)ー「新橋」-(東京BRT)ー「勝どき」
*今回のブログが今年の最後です。みなさま、良いお年をお迎えください。
2025年は1月4日にブログを始めたいと、いまのところは考えています。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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継続は力なり(Y)