
心の伊達市民 第一号
世界の各国大使が日本に着任すると、必ず信任状捧呈式という儀式が皇居で行われる。
そこで天皇陛下に「信任状」を捧呈するのである。
各国大使は東京駅から皇居まで出迎えがある。その時は自動車か儀装馬車かを選べる。
ほとんどの大使夫妻は「儀装馬車」を希望するそうだ。
4月17日に2つの国の大使が着任して、儀装馬車で皇居に向かうと宮内庁のHPで発表があった。この発表はたった2日前なので、なかなか目につきにくい。
急な発表なので、最近は見逃すことばかりだ。以前はもっと早くから発表していたのだが・・・。今回は前日に何気なくチェックしたら出ていたので、他の予定をキャンセルして写真撮影に向かった。時間は東京駅から午前10時過ぎに1回目の出迎えで、30分おいて2回目の国の大使を出迎える。
しかし、残念ながら「どこの国の大使か?」の発表は無い。
私の調べた限りでは1回目はアメリカの実業家で、元ポルトガル大使のジョージ・グラス氏ではないかと思った。
私は信任状捧呈式の予定を事前に知りたいので、「外務省ホームページ新着情報」に登録している。しかし残念ながら、今回の信任状捧呈式の予定の知らせは無かった。
翌日になり新着情報が送信されて来て、その中に信任状捧呈式の結果のお知らせが出ていた。それによると新任大使はアメリカ大使ではなく、「カザフスタン共和国」と「トルコ共和国」の大使であった。
なぜ事前に知らせないのだろうか? テロを恐れているのかもしれない。
広場の左側には早くから黒塗りの車が停まり、その国の大使館関係者が待っているのが見える。この日は予定より10分ほど早く、儀装馬車列がやって来た。
広場はロープで囲われて、一般人はロープの外から見るようになっている。
馬が驚くので、フレッシュ撮影は禁止である。
儀装馬車列の大使夫妻が乗る馬車だけが、東京駅南口の「貴賓玄関口」に入った。
しばらくして、大使夫妻を乗せて儀装馬車群は動き出した。
東京駅前の広場を静かに皇居に向かって、行幸通りを進んで行く。
聞こえるのは、馬の蹄の音だけだ。せわしない時代にあって、なんとも優雅な光景である。
儀装馬車に付いて調べてみたら、『儀装馬車には1号から4号まであり、明治の終りから昭和の初めに製造された。儀装馬車4号は外国からの特命全権大使が新任に当たり、天皇陛下に信任状を奉納する儀式の際に、大使送迎に使用している。送迎に馬車を使用している国は、世界的に見ても英国やスペインなど数カ国である』。
1日に2回の信任状捧呈式があるので、30分後にはまた東京駅に迎えに来る。
馬車列の経路であるが、次のようになっている。
(往路)東京駅→行幸通り→和田倉門交差点→皇居外苑→皇居正面→宮殿南車寄せ
(復路)宮殿南車寄せ→皇居正面→皇居外苑→和田倉門交差点→行幸通り→東京駅
信任状捧呈式の内容は分からないが、割合に簡単なようだ。
東京駅を出て行った馬車列が、30分もしない内に戻って来るからだ。
今回、使われた儀装馬車4号の概要は次のようになっている。
『大正2年に国内で製造。船底型割帆、漆塗で車体胴は海老茶色、重量1098 Kg、全長4.51m、幅1.9m、高さ2.2m、2頭曳の座敔式、4人乗り』。
馬車列が来る前にロープの外で私が待っていたら、外国人観光客を案内しているガイドの日本人女性に質問された。
ガイド『なにかあるのですか?』
私 『間もなく皇居から儀装馬車列が来るのです』
ガイド『それは見る価値がありますか?』
私 『滅多に見られないので、絶対、見た方が良いです』
彼女は案内している観光客に私からの説明を教えていた。馬車列が来た時には、彼らは大喜びだった。そして終った時にはお礼を言われたのである。
(おまけの話)
信任状捧呈式は毎回1日2回、行われる。
午前10時過ぎと10時30分過ぎに、儀装馬車列は東京駅にやって来る。
新任大使を東京駅に送ると、馬車列は一度、皇居に戻って行く。
私は「戻りの馬車に次の新任大使を乗せれば、もう一度来なくて済む」と考えるが、それはしない。合理的であっても、マナーに反するのだろうか?
下の写真を見て「変だな?」と気が付いた人は、神経が細かい。
答えは「右端に白い軽トラックが写っている」である。(静止画のみ)
答えの白い軽トラックは、馬の落とした糞を片付けて運ぶための車である。
馬車列が去ると、慌ただしく清掃係が出て来る。これは馬の落とした糞を片付けるためである。そこで私は疑問を感じた。『なぜ馬は歩きながら糞が出来るのか?』
これをネットで調べてみた。なんでもネットには出ている。
「馬は馬房の中では止まって糞をしている。外にいる時は、歩きながら、走りながらでもする。これは進化の過程で捕食者である肉食動物から逃げるために備わった能力ではないかと考えられる」とあった。「なるほどなー」と、感じ入った次第である。
1回目の送迎が終り、馬車列が皇居に戻って行った。
これで交通規制が解除されたら、なんだか変な音がした。
そちらを見たら、大手町方面から5台のマリオカートが走って来た。
いい年をした外国人オヤジがぬいぐるみを来て、カートに乗って嬉しそうに私に手を振った。私は神聖な日本文化を堪能していたのに、これでぶち壊しになってしまった。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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功罪(Y)