
心の伊達市民 第一号
やることが無い日だったので、「丸の内散歩」を計画した。
紅葉は最後を迎えているので、まだ東京駅のイチョウの木の葉が残っているか心配だった。イチョウの木は東京駅丸の内側の、皇居に向かう行幸道路の両側に植えてある。
マンションの前から都バスに乗ると、終点が「東京駅丸の内南口」である。
所要時間は約20分である。
コロナがぶり返したと言っても、重症化することがあまり無くなった。
亡くなる人の平均年齢は80歳を越えているそうなので、若者はマスクはしているが、コロナは恐れなくなった。
東京駅丸の内側の「東京駅」と彫られた石碑の前では、観光客が記念写真を撮っている。いまの時代でも、昔の歌謡曲にあった「東京だよ おっ母さん」は続いている。
大きなキャリーバッグをゴロゴロと音をたてて引っ張って行くのは、外国人観光客だ。
「ロッカーに預けりゃいいのに!」と思うが、最近はあれだけガランとしていたコインロッカーが満杯となっている。
東京駅前にはあまりイチョウの木は無い。
南口前に2本と、その先に続く「はとバス」乗り場に行く道にある。
また広場と行幸道路の間の所に、少しばかりのイチョウが植えてある。
それらの木は予想に反して、今が見頃であった。
広場の芝生には周りの木から落ちて来た、黄色と赤色の葉っぱの対比がキレイだ。
私は東京駅を背景に、緑と黄色と赤色の煉瓦の東京駅舎の写真を撮った。
でも観光客はそんな光景の写真は撮らない。
若い女性はジャンプした瞬間の写真を撮って、大はしゃぎだ。
行幸道路の方を見たら、ウェディング・ドレス姿とタキシード姿の男がいて記念撮影をしている。以前にこのことをブログに書いたら、いつも登場してもらう友人のYさんからコメントがあった。
『コロナ禍の為に結婚式を挙げられなかった孫娘は、フォトウェディングと称して写真による結婚式を挙げた。数日後に孫娘夫妻のみで、東京駅や皇居前でポーズをとっての写真撮影があった。他人が見ると恥ずかしいけれど、2人にとっては良い記念になったのだろう』。そうかー。色々と事情があるんだなー。
KITTEの裏通りに行くと、イチョウ並木が美しい。
そこに屋根の無い観光バスのスタート地点がある。このバスは「SKY BUS」と言うそうで、都内で良く見掛ける。寒い日でも観光客が乗っているが、風を引かないか心配になる。
少し前にも普通の観光バスだが、『東京秋色探し。浅草ビューホテルでバイキング』という看板を掲げたバスを見た。みんな元気に観光をして、日本経済を元気づけよう!
「丸の内散歩」はまだまだ続く・・・・。
(おまけの話)
丸ビルの地下一階に全自動調理器を導入したレストランがあるのを聞いていた。
今回の「丸の内散歩」で、その店に行ってみた。
午前11時30分に店に入ったが、お客は私の他に女性が1人だけだった。
私は半円楕円形のカウンターに座り、調理が見える場所を確保した。
この店はスパゲッテイ屋なので、私は「トマトソース」を注文した。
店の奥にガラス張りの自動調理器が見える。
でも良く見えないので、係の女性に頼んで近くに寄って見せてもらった。
スタートは右の方で、そこで麺を茹でている。それを鉄鍋に入れて左に移動すると、そこでソースが上から注入される。
そしてまた移動して、鍋がかなり高速で回転している。そして2分くらいだろうか? 鍋は左端に移動して止まる。すると調理師が鍋からスパゲッティを皿に盛り、ウエイトレスがお客のところに運んで来る。その時間は約5分である。
私は席に戻り、自動調理器で作られたスパゲッティを食べたら具材は茄子とハムだった。味は特に問題は無い。サラリーマン相手なので、量が多くて少し残した。
それより問題は具材の茄子が冷たかった。
私はお勘定の時に彼女に『茄子が冷たかった。具材によっては機械の調理時間を変えないといけないのでは?』と伝えた。
彼女は『申し訳ありません』と言ったが、たぶん茄子は冷凍されているのだと思う。
調理場は1人だけだったが、混んで来たら1人分ずつしか調理が出来ないようなので、かなり待たされそうだ。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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Rietty
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山本英次