
心の伊達市民 第一号
スーパーよさこい
ブログ閉鎖中の話題(2018年8月28日)
まだ夏の暑さが去らないが、それでも家にいられない私はイベントを探して徘徊している。
暑いからといって家にいれば、女房に昼飯の面倒を掛ける。
それが続けば女房は不機嫌になり、嫌われることは目に見えている。
長老のアドバイスである「年をとったら、女房との接触時間を少なくすること」を守っている私である。

「スーパーよさこい祭り 2018」
余程のことが無い限り、「平日は必ず出掛ける」、「週末の土曜、日曜のどちらかは家にいる」と決めているが、週末になにもイベントが無い時もある。それでも無理して出掛ける。
8月25日と26日の2日間にわたり、「原宿元気祭り・スーパーよさこい」というイベントがあった。
原宿の表参道と他数か所で、「よさこい」を舞うのである。

へそ出しルックで踊る。外国人も踊る。
「スーパーよさこい」とは何か?を説明するのは難しいが、知らない人の為に以下に簡単に解説してみる。
「よさこい」は高知県の民謡で、1954年に徳島の阿波踊りに対抗する形で高知商工会議所が踊りを取り入れて始められたのが「よさこい祭り」である。
これが若者に受け入れられて、年々、発展し、今では「よさこい祭り」は全国に広がっている。

街路樹から漏れる光で、写真もモザク状態。
一方、北海道でも「よさこい祭り」は非常に盛んである。
こちらは本場の「よさこい祭り」を更に発展させて、「YOSAKOIソーラン祭り」になっている。
「ソーラン」とは、北海道の日本海沿岸で盛んだった「ニシン漁」の時の掛け声で、「ソーラン節」である。
「YOSAKOIソーラン祭り」は1991年に当時、北海道大学の学生だった長谷川岳さんが仲間と始めたのがルーツである。

踊り手はみんないい顔。般若の半面のチーム。
私は伊達市に住んでいた時の8月に行われる武者祭りで、初めて「YOSAKOIソーラン」を見た。
踊り子はお揃いの派手な衣装で、鳴子を手にしている。
衣装と踊りを観客に見てもらう祭りなので、踊りが終ると観客に向かって「ありがとう御座いました」と言って全員が礼をするという珍しい祭りである。
各チームによって音楽も「ソーラン節」をアレンジし、衣装も自分達で制作し団体で舞いながら道路を進む。見ているこちらも、段々と興奮してくるから不思議だ。

踊り手は必ず手に必需品の鳴子を持って舞う。
いつもの悪い癖で、「スーパーよさこい」のことを書く紙面が少なくなってしまった。
JR原宿駅を降りたら、大勢の人達で大混乱だった。
「スーパーよさこい」を見に行く人だけでなく、明治神宮へお参りする人、竹下通りに行く若者で溢れていた。
私は午前10時から始まるNHK前ストリートへ向かう。
ここへ行けば、全国から参加した全てのチームの108チームの舞が見られるからだ。

踊り手は厚化粧なので、みんな美人に見えてしまう。
現場に着いた時はまだ見物客も少なく、好きな場所で自由に写真が撮れた。
しかし暑い。この日も気温が35度もあり風が全く無い。
踊り手たちは写真のような衣装で全身を包んでいるので、熱中症は大丈夫か?
みんないい顔で踊っている。自分が踊る姿を見てもらうのが楽しいようである。
この日だけは、自分が芸能人になっているような気分なのかもしれない。私も若ければやりたかった。
暑さの中を1時間くらい頑張って見たが、暑さに負けて家に帰った。

この衣装で34度の中を激しく踊るのだから、熱中症にならないかと心配になる。
(おまけの話)
今では昔話になってしまったが、「北海道と言えば、熊の木彫りか、ニシン」だった。
現在のように物流が完備されていなかったので、私の子供の頃は北海道から東京へ届くニシンは乾燥した「身欠きニシン」だった。
子供の頃に友達に「かっちゃん」という子がいて、「かっちゃん数の子、ニシンの子、おまえの母ちゃん出ベソ」とからかっていたので、その当時から「数の子はニシンの子」だと知っていた。

私は北海道には夏の間だけだが縁があったので、ニシンで大儲けした鰊御殿も見に行ったことがある。
当時は北海道から船で本州にニシンを運べば、莫大な利益が生まれたそうだ。
作詞家の「なかにし礼」の私小説「兄弟」にも、ニシンで破産した兄の話が出て来てとても面白い。
この兄がとんでもない人で、なかにし礼に迷惑ばかりかけていた。
なかにし礼は兄が亡くなった時に、「死んでくれて、ありがとうと言った」と書いている。

話がまた逸れてしまった。
「YOSAKOIソーラン」は夏の北海道の風物詩となっていて、かなり小さな村でも小規模だが「YOSAKOIソーラン」を踊る。そして必ず、終るとビールで「ジンギスカン」を食べる。
ジンギスカンというのは人の名前なのに、北海道ではジンギスカン料理とは言わず、ジンギスカンと言う。
そして驚くことに、町の肉屋がジンギスカンのセット(ラム肉、野菜、コンロ、タレ、皿、箸」などを公園や広場に出前してくれて、更に後片付けまでしてくれるのを知った時は、東京との文化の違いを感じた。

北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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08/25(水) あなたの住まいの夢を叶えたい♡暮らしをマッチング ハウスドゥ伊達 〜専務取締役 木谷明実さんを尋ねて〜
今回は、創業53年の (株)伊達クリーニング様の進化に注目し、専務取締役 木谷明実さんにお話を伺いました。 商談コーナーに座る明実さん。 後ろにあるのは可動式のベビーベッド。 赤ちゃん連れでも安心です。 スタッフさん紹介です。 それぞれドゥー君を抱いた写真入りで自己紹介をしています。親しみが持てます。 なんと、8月24日に「ハウスドゥ伊達」として、不動産業への異業種参入が始まりました。 今回の新規部門は5年前からの構想だったのだそうです。 刻々と変わりゆく世の中の情勢、そして消費者ニーズ。 どの業界も苦心しているように、「クリーニング業界も変革の時を迎えていた」と木谷明実さんは言います。 明実さんは、「若い頃から家が好きで、引っ越しが好き。物件探しが好きで、よく見に行っていましたし、関連の情報誌を読むのも好きでした。」と話してくださいました。 庭造りの本などもあります。 イメージ作りのコーナーです。 住宅雑誌や物件紹介コーナー。 なるほど…。 元々の素地はお持ちだったようです。 そんな明実さんは、会社の方向性が決まった時に「宅地建物取引士」という難しい国家試験を目指すことになりました。 そして、2020年に見事合格を果たされました。 そう。 コロナ禍で色々なことが停滞しそうになっていたとき、着実に地に足を着け、未来を見つめながら前進していらっしゃったのです。 本当に素晴らしいです! 「好き」が与えるモチベーションは強いです。 息子さんとのツーショット。 現在息子さんも宅建の資格取得に向けて猛勉強中です。 ちなみに、「ハウスドゥ」は古田敦也氏がメインキャラクターのフランチャイズです。 コンセプトは「住まいのすべてをスマートに」。 そのマインドを大切にしながらも、明実さんの想いは、さらに上をいく温度の高さを感じました。 「私の最大の想いは、お客様の夢を叶えるお手伝いがしたいということです。そのために、お客様の暮らし方に寄り添いながら、新鮮で有益で必要な情報を的確にお届けしたいと考えています。そして、仲介だけではなくリフォームやリノベーションあるいは新築などのご相談にも応じて参ります。お住まいに関することでしたら、どんな些細なことでもお気軽に足をお運びいただきたいです。 もちろんご購入のご相談だけでなく、手放す場合のご相談もお受けいたします。」 買いたい! という時の人はポジティブ。 でも、売りたい。 という時の人はネガティブな事情を抱えている場合が多いと言います。 そんな時に相談者の立場で考え、適切なアドバイスをいただけるとしたら、こんなに心強いことはありません。 お話しをすればするほど誠実なお人柄を感じ、お話しに決して脚色がないことがわかります。 何かあったら相談に来よう! 明実さんは、筆者自身をそんな気にさせてくれました。 最後にOPENに向けてのさらなる構想をお伺いしました。 相談に来られたお客様にはドリンクサービスもご用意されています。 「こちらが売りたいもの=お客様が求めるものではないということを肝に銘じながら仕事をすることを信条にしています。 お客様には緊張感のない雰囲気の中で、ゆっくりとじっくりとお考えいただきたいですし、多くの選択肢をご提供したいので、店内の環境整備を急いでいるところです。例えば、“お家関連の本を貸し出せるような図書室”を作ったり、キッズコーナーを作ったり、授乳やおむつ替えを周りに気兼ねすることなく出来る部屋を作ったり、建設屋さんの紹介ブースを作ったりetc. くつろぎ環境をご提案する仕事なので、店舗もそうありたいと考えているのです。」 赤ちゃんのオムツ替えや授乳に使えるお部屋。 赤ちゃん用可動式ベビーベッド キッズコーナー なんとも女性らしい配慮が行き届いていて、聞いているだけで安心してしまいます。 そして、さらに構想は膨らんでいました。 「将来的には、関係各所と連携をしながら、伊達の空き家対策や移住促進にも関わっていきたいと考えています。」もう筆者までワクワクが止まらなくなりました。 店舗OPENは8月24日ですが、9月11日・12日にオープニングイベントが開催されます(新型コロナ感染状況によって変わる可能性があります)。 その時には、どうぞお子様連れで足を運んでみてくださいね。 場所は道の駅前の元au様があったところ。幟もあがります。 店舗情報 ハウスドゥ伊達 株式会社伊達クリーニング 営業時間 10:00~18:00 定休日 水曜日 北海道知事 胆振(1)第1047号 〒052-0014 北海道伊達市舟岡町175番地4号 電話 0142-82-8830 / FAX 0142-82-8835 携帯電話 080-6097-8444 E.mail. housedo-date@leaf.ocn.ne.jp むしゃなび内ハウスドゥ伊達のページ ※記事の内容は取材時の情報に基づいています(取材2021年8月)
Rietty
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12/28(水) 影の主役を選んだ人 『dj_hatass=畑吉晃』にプロ魂を見た
12月28日はディスクジョッキー(DJ)の日 皆様、12月28日は「ディスクジョッキー(DJ)の日」だということをご存知でしょうか? ラジオでのDJ活動の第一人者であり、ラジオ人気長寿番組「オールナイトニッポン」の最初のパーソナリティである糸居五郎さんの命日にちなみ、日本では12月28日は「ディスクジョッキーの日」として制定されています。 日本でDJという言葉がメジャーになったのは、ラジオでMC+曲をかけるというスタイルからだと言われています。 ということで、今回の主人公はDJ歴30年、MC無しの音だけでフロアを盛り上げてきた『dj_hatass』こと畑吉晃さんです。 畑さんは1969年生まれの53歳。 DJの世界との出会いは20歳くらいの頃だそうです。 年代的にはちょうどディスコブーム後半の頃になります。 黒服の人に誘われてこの世界に 畑さんの将来を決定づける出会いでした。 その中には、今でも一緒に活動をしている先輩DJの中居さんや、室蘭唯一のクラブ『Red Hill』の竹内さんもいました。 そしてもう一つ、衝撃的な出会いとなった音楽が “ハウスミュージック”と"テクノミュージック"。 それは、これまでに感じたことのないほどの興奮と感動を与えてくれたと言います。 ところで〜 そもそもDJって?と調べてみました。 DJの歴史 第二次世界大戦中から脈々と水面下で培われていた「曲をかけて踊る」という文化。 1960年、ニューヨークにLe ClubというナイトクラブがオープンしたところからDJ文化の原型が誕生していきました。 ただその頃は、曲を繋げるのではなく、1曲が終わったら次の曲をかけるというスタイルでした。 そして1969年、アメリカのニューヨークで、2台のレコードプレーヤーを使って途切れることなく曲を流すというスタイルが生み出されます。 そして1970年代、世間ではディスコが大流行しました。 また、1980年代後半から1990年台にかけてアメリカやヨーロッパなどでレコードプレイヤーを使って音楽を提供するディスコやダンスホール(以後クラブ)が人気となりました。 その空間で選曲し、切れ目のない音楽でフロアを盛り上げていたプレイヤーがいつしかDJと呼ばれる様になります。 そしてDJの演奏スキルやテクニックの向上とともに、DJが使用するレコードプレイヤー、ミキサーなどが進化していくのでした。 現在のDJスタイルとしては、アナログDJ・CDJ・PCDJなどが一般的だそうです。 ・ アナログ(レコード)DJとは、昔からの定番スタイルで、曲の繋ぎを考えながらレコード選びをし、音の厚みで勝負するスタイルです。 ・ CDJとは、多くを持ち運べないというレコードのデメリットをCDの普及により解消し、PCやCDレコーダー、メモリースティックなどの駆使によって音源の呼び出しも容易にプレイが出来るスタイルです。 ・ PCDJとは、より効率的であることを優先した先に生まれた技術です。持ち運びの出来る楽曲量の多さと、音源入手の手軽さにより、現在は主流のスタイルになっています。 「持ち運び」の利便性がKeyで進化していったスタイルの違いですが、結果、利便性だけではないメリットとデメリットが生じたようです。 音楽のジャンルによっては、アナログに勝るスタイルはなかったり、PCDJをやるにはPCや機材の知識が必要になったりとそれぞれに高度な知識とスキルを必要とされます。 怠らぬキャリア積み上げ このような歴史を持つDJですが、畑さんはこれらどのタイプでも対応できる実力をお持ちです。 素敵! フロアに出ていなくても勉強を続けるとは、まさにプロ魂です。 この時は室蘭のチーム対苫小牧のチーム。 お隣にいらっしゃるのが先輩DJの中居さんです。 チームの入場曲や得点が決まった時の『ゴールホーン』も畑さんたち、DJチームのオリジナルMIXだそうです。 その甲斐もあり、この日は見事に勝利! 「ところで、他にはどんなところでDJをされているのですか?」 楽しそうに話す畑さんでしたが、少し神妙な面持ちにも…。 ブログの最後に畑さんのSNSアカウントを掲載しています。 「DJに関するご相談はそちらからどうぞお気軽に!」とのことです♪ 意外な本業とは さてところで。 実は畑さんの本業は、ジオパーク推進協議会の職員さんです。 そして、筆者もとてもお世話になっている『洞爺湖有珠火山マイスター制度』の担当者でもあります。 とても優しく、みんなに頼られる兄貴的存在です。 そして事務所にいらっしゃる時の畑さんはDJとは全く別のお顔です。 なんと! それは意外! 畑さんが言うには、火山マイスターの皆さんが一生懸命に勉強したり、講師活動をしたりしている姿にとても感動して触発されたのだそう。 そうか…。 共通項はそこなんだ! 正直に書けば、取材をさせていただく前、事務所にいらっしゃる畑さんとDJをされている畑さんは全くの別人だと思っていました。 どちらかが裏で、どちららかが表。 でも、裏も表もどちらも素敵だなあと。 ところが違いました。 畑さんはどちらも表でした。 舞台に立つ人たちを裏方で盛り上げることに喜びを感じる人だったのです。 なるほど…。 確かに思い当たります。 畑さんは本当に話すのが苦手でいらっしゃいます。 何かを発表される時、「原稿なしでは話せません」と恥ずかしそうにします。 そして超棒読み…^^; ところが、一旦機材の前に立つと活き活きとした表情で、機材を自由自在に操り、音で意気揚々と皆様に語りかけ、フロアを盛り上げていきます。 ジオパーク推進協議会の職員さんのときとのギャップがスゴい! 人生の終わりまで『影の主役』を 「ところで、畑さんにとってのDJの魅力ってどんなところでしょうか?」 『影の主役』に喜びを感じるところ。 言い換えると、決して出しゃばらず表現して、場を支え盛り上げるところ。 とても畑さんらしいなあと思います。 「それでは最後に。” dj_hatass “として、将来どうありたいと考えていますか?」 ” dj_hatass =畑 吉晃 ”は、人生の終わりまで『影の主役』を望み、大好きな曲で送って欲しいと願う、DJのプロでした。 ディスコ全盛期を生きながら一度もディスコのドアを開いたことがない筆者ですが、人生初のディスコは” dj_hatass “に踊らせていただこうと思います。 [Instagram] https://instagram.com/dj_hatass?igshid=YmMyMTA2M2Y= [Facebook] https://www.facebook.com/profile.php?id=100005068364809
Rietty
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07/31(水) 『心の中の小さな夢』に辿り着く 〜おにぎり屋 『tanto』 店主 加藤 朋香氏の新たなみち
「ぜんぶ一個ずつください!」 思わずそう言いたくなる優しい三角のフォルム。 おにぎりほど心を温めてくれる食べ物はないと思うのです。 長年、看護師として旭川・札幌で勤務し、旦那様の転勤により室蘭に移住されました。 室蘭に来られてからは、看護学校の教員免許を取得、8年間教鞭を執っていらっしゃったそうです。 「私、気持ちのON/OFFが下手なんです。強制的に環境を変えないとスイッチの切り替えがうまくできない。それは夫も同じだったので、年に2回くらいは旅行に行き、大好きな洞爺にもよく来ていました」。 そんな平穏な暮らしが続いていたある日、世界的に訪れたコロナ禍。 「大好きな旅行も外出もままならなくなる中、授業の準備のための自己研鑽に励んだり、仕事を家に持ち帰ったりしているうちに、心身のバランスを崩してしまいました。心も閉ざしがちになってきた時、生き方・働き方の見直しもしたくなり、40歳を機に看護学校の教員の仕事を辞めてしまったのです。本当は夫婦共に変化を好まない性格なのですが、この時ばかりは何だか仕事にも燃え尽きてしまっていました」。 以前の記事にも書きましたが、コロナ禍を経験して、生き方の方向転換をされる方を多く見てきましたが、加藤さんご夫婦もまた同じでした。 「おにぎり屋さんを始めたくてお仕事を辞めたのではないのですか?」 「それが違うんです。洞爺へはよく来ていたので、財田米が美味しいことはよく知っていました。 “ このお米でおにぎり屋さんをやってみたい “ それは、看護師時代から漠然とした夢として心の中であたためていました。 ところが仕事を辞めることを決断したある日、” おにぎり屋さん、本当にやったら? ” って急に夫に言われたのです。 ビックリしました」。 旦那様に背中を押され、なんとなくその気になってしまった朋香さん。 でも、この時点ではまだなんとなくでした。 それが大きく動いたのは、「このお米でおにぎり屋さんをやりたいな」。と心密かに思うきっかけとなった大好きな財田米の生産者である塩田さんのお宅のお隣の土地と出会った時でした。 「退職後、洞爺への移住を考えて物件探しをしていたところまでは、おにぎり屋さんになる決断をしていたわけではありませんでした。洞爺湖の穏やかな景色が好きで、のんびり過ごしたいと思っていたのです。夫もまた仕事が忙しいため、洞爺でOFFになる時間を持ちたいと思っていました。ところが、塩田さんのお隣の土地に出会ってしまったのです。しかも、そのタイミングでNHKの番組に映る塩田さんの仕事風景を拝見しました。そこには地元の子どもたちと田植えをし、学校給食にそのお米を提供し、食育に関わっていらっしゃる様子が映し出されていました。財田米の生産者さんのお隣の土地に家を建てると決めたところで、 " もうやるしかない!! " と本気モードにスイッチが入りました。もしかしたら今の場所に移住を決めなければ、おにぎり屋さんはやっていなかったかもしれません。ここならば始める条件は揃っている!と思い、本気でチャレンジする気になったのです。そのくらい、何ていうかその時の出会いには運命を感じました。心が決まったあとは、各種準備をどんどん進めていきました」。 「お隣さんになった塩田さんご一家には、それ以来本当にお世話になっています」。 と朋香さん。 というわけで、朋香さんの心の中で温めていた小さな夢は、旦那様に背中を押されたことで実現への道を歩き出しました。 そして2024年4月18日、テイクアウト専門店のおにぎり屋『tanto』はOPENしました。 「物件が決まったところで、全く畑違いのお仕事をされていたわけですから、OPENまでの準備は色々大変だったのではありませんか?」 「はい。商工会主催の創業セミナーに参加して、起業の基本を学んだり、おにぎり食べ歩きの旅に出たりもしました。東京では、浅草の「宿六」さん、大塚の「ぼんご」さん、米どころ新潟へも出かけました。何軒かのおにぎり屋さんで食べ歩きながら、ワンオペで営業をする自分が無理なくできるためにはどうしたら良いかを研究し、安心安全で、心身がよろこぶ味の研究も重ねました」。 実は、加藤さんご夫婦は室蘭と洞爺湖の2拠点生活をされています。 最初に書いたように、ON/OFFの切り替えが苦手だというご夫婦なので、tantoの営業は木〜土として、他の平日は朋香さんも室蘭で旦那様と一緒に生活をし、週末は旦那様が洞爺で生活をするというスタイルをとりながら、スイッチの切り替えをされているそうです。 けれども、旦那様は朋香さんの背中を押しただけではありませんでした。 「美術部部長と呼んでいる夫は手先が器用で、デザインセンスもあるのです。ですから、看板から名刺・ショップカードまで色々作ってくれているんです。私にはそういう才能がないので、とても助かっています」。 「それはとても心強くありがたいですね!ところで、前職の経験が今に生きていることはありますか?」 「はい。あります。健康と食の関係についてですが、食べることを大切にしている人は元気になる!ということは看護師時代から患者様を通して感じていました。 ですから、お客様にたくさん食べてほしいという想いから、店名は「たんと召し上がれ」という意味を込めてtantoと名付けました。ちなみにイタリア語のtantoも「たくさん」という意味なのだそうです」。 「食材へのこだわりと具の種類を教えていただけますか?」 「お塩は洞爺湖町の事業者さんが作られているミネラル豊富な釜焚自然塩を使用しています。梅干しも洞爺湖町産のもの、豚汁で使用する野菜は近郊で採れたものを使用しています。海苔は今は瀬戸内海産を使用しています。具の材料はできるだけ近隣のもの、あるいは道産のもの、なければ国産のものを使用します。具の種類はその時々で変わりますが、平日はだいたい5~6種類を30個くらい、土曜日は7~8種類を60~80個くらいご用意しています。フードロスを避けるため追加をしない売り切りのスタイルをとっていますので、早い時間になくなってしまうこともあります。その時はごめんなさい」。 「では、最後に伺います。おにぎりと共にお客様に伝えたいメッセージはありますか?また、これからどんなお店に育てていきたいですか?」 「お店は細く長く、一人でできる範囲で続けていきたいです。看護師からの転身ですが、とても充実感がある毎日を過ごしています。思い切って始めて本当に良かったと思っています」。 「tantoはテイクアウト専門店ですので、お客様にはおにぎりと共に穏やかな気持ちを持ち帰って欲しいと考えています。私自身がここの景色と人と美味しいお米に救われたように、お客様にも、この風景とともに楽しんで癒されていただきたいと思っています。徒歩1分のところに洞爺湖小公園もあります。敷物の貸し出しも行っておりますので、ぜひ美しい洞爺湖畔でおにぎりを頬張ってください」。 心の中であたためていた小さな夢。 「このお米でおにぎり屋さんをやってみたいな♪」 朋香さんの中の小さな夢が、何気なく口をついて出て、その想いが現実となり、大好きな洞爺湖で叶うまでのみちのりには、最大の理解者であり美術部部長でもある旦那様の後押しと、周囲の人たちの協力がありました。 おにぎり屋 tanto は、これからも美しい洞爺湖とともにここにあり続けることと思います。 ―おにぎり屋 tanto 情報― 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺町 150-3 営業日:木・金・土 営業時間:11時~売り切れまで *変更の場合はInstagramにてお知らせします Instagram :https://www.instagram.com/tanto.toya?igsh=cm80dnFsb2U1dnk4
Rietty
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02/20(火) クールに攻める両立への道 〜味と時間で勝負!地域にファーストフード文化を育てたい!『GOTHAM DRIVE IN』オーナー成田大海氏の戦略とは〜
取材に伺ったのはグランドオープン1週間前でした。 かっこよくコーヒーを落としてくれたので、さっそく聞いてみました。 「珈琲はどこで修行されたのですか?」 「YouTube先生です。いまどき修行なんて流行りませんよ。」 「え……。」 こんな会話から始まった今回の主人公は成田大海(Hiromi)さん。 3シーズンは俱多楽湖で「Paddle Street Outdoor Service」として カヤック・カヌー・サップガイド事業をされています。 入店いきなりの会話で「意外と軽い人?」と思いきや、 実は真逆なタイプであることが段々と分かってきました。 バックボーン(学生時代)のこと 改めて、成田大海さんは苫小牧市ご出身の35歳。 小さい頃から大学までアイスホッケーに勤しんでいました。 御祖父様からお父様、大海さんまで三代続くアイスホッケー一家だったと言います。 「大学にはスポーツ推薦で入学しました。 16歳の時に日本代表にもなりました。 でも、それほどアイスホッケーが好きだったのか?と問われると実は微妙です。練習が終わるのはいつも夜中の2:00頃でした。 競技場があまりないので、小さい子どもから順番に予約を入れていくと、大学生は夜中の割り当てになるんです。 これは結構キツかった…。 それに、本当は美術部に入りたかったし・・・(笑)絵を描くのが好きでしたから」。 「美術部ですか?また随分かけ離れていますが…。 それにしても練習終了が夜中の2:00とは驚きです。寝る間もなければ、学校へも行けなくなりますよね」。 「そうですね。大学では法律を学んでいましたが、授業はほとんど出ていませんでした。だから結局、退学して働くことにしました」。 「辞めてしまわれたのですね。授業はほとんど出ていなかったとのことですが、アイスホッケーは続けていらしたのですよね? 続けてやっていたことで今に繋がっていること、やっていて良かったと思えることはありますか?」 「上下関係の厳しさを知ったことでしょうか? ね?」 なるほど。 このことについては、また後ほど触れるとして〜。 バックボーン(料理)のこと 「大学を辞め、勤めはじめたのは西麻布のバーでした。 そこは六本木や恵比寿にも店を持っていたので、その3店舗を昼夜行き来して働き、飲食店の辛さや面白さを4年ほど学ばせていただきました」。 「ほ〜!GOTHAM DRIVE INのルーツはそこにあるわけですね! その時、今の大海さんのその後を決定づけた方はいましたか?」 「はい、いました。かなりぶっ飛んだ人でしたが、メキシコ料理がすごく上手で美味しくて、いっつもテキーラを飲んでいる恵比寿店の店長でした 笑 でも、この店長のおかげで本物上質なテキーラを知り、メキシコ料理を学ぶことができました」。 なるほど! 繋がりました! バックボーン(パドル アクティビティー)のこと 「ありがとうございます。料理の背景は分かりました。では、パドルアクティビティーの世界へのきっかけを教えていただけますか?」 「趣味は釣りなんですが、その延長線上にあったのがカヤックでした。 カヤックに乗って釣りをしたいなあ〜と。 僕、基本、人見知りなんです。釣りなら一人でできますし。 学生時代からアイスホッケーにも釣りに行かないときは引きこもって調べ物ばかりしていました。 で、カヤックを色々調べていたら、小樽の塩谷でガイドをしている『ブルーホリック』に行きつきました。そのときは、へ〜!こんな仕事があるんだ…。と思った程度でした」。 「なるほど。飲食店で働き出す前から興味はあったのですね」。 「はい。北海道に帰って仕事をしたいと考え始めたとき、ブルーホリックを思い出して履歴書を送りました。 そうしたら、わざわざ代表の嘉藤さんが上京して会いにきてくれました。 事実上の出張面接となったのです」。 面接をパスして25歳で帰京。 ブルーホリックで働くことになった大海さんは、カヤック修行への道に入りました。 入店時、「修行なんていまどき流行りませんよ」 と言っていた大海さんでしたが、アイスホッケーにしても、カヤックにしてもその道をきちんと歩いたからこその台詞だったというわけです。 「上下関係の厳しさが身についているというのは私生活にも役立っていると思っていますが、特に仕事には必要なことだと思っています。 例えばブルーホリックの嘉藤さんは仕事には物凄く厳しいんです。 一歩間違えば大変危険な環境の海で行うカヤックというアクティビティーですが、どんな時でも、お客様の命を絶対に守らないといけないわけです。 だからどうしても指導は厳しくなる。 当然だと思います。 でも、そのような嘉藤さんの姿勢をなかなか理解できない人もいる。 そう言う意味で、僕はアイスホッケーにしても料理にしても上下関係が厳しい世界にいたので、耐えられたしそういうものだと捉えることができました。打たれ強さも育っていたかもしれません」。 先ほど、「アイスホッケーをやっていたことが今に生きていることは? の質問に「上下関係の厳しさを知ったことでしょうか? ね?」 と答えてくれましたが、なるほど〜と思えたお話しでした。 大海さんはブルーホリックで2シーズンを修行した後、嘉藤さんの紹介を受け、沖縄座間味島でさらに2シーズン修行しました。 のちに独立を考えだした大海さんの背中を押してくれたのも嘉藤さんだったと言います。 「でも、強く押されたと言うよりも、『いいんじゃない?』と言った軽いかんじで・・・(笑) これ、嘉藤さんらしさです。 人の繋がりを大切にする本当に懐が広く深い方でとても尊敬しています。テキーラ好きな六本木の店長ともなんとなく似ているかも」。 二つの道を極めようとした背景には、二人の師匠がいらっしゃったわけですね。 それぞれのバックボーンを活かしたい! 独立を決めた時、飲食業とアウトドア業の両方をやりたい! と考えていた大海さんは、北海道に戻り活動フィールド探しを始めました。 2019年のことです。 本当は前職で貯めたお金で南米へ料理修行に行きたいと思っていたそうですが、それよりそのお金で早く事業を始めようと考え直し、南米行きを諦めたと言います。 支笏湖や洞爺湖も視野に入れつつフィールドを探し回り、倶多楽湖に出会った瞬間「ここだ!」と即決したそうです。 「俱多楽湖がなかったらここには来ませんでした。 とにかく水が綺麗で感動しました。 すぐに元々あった施設で当時休止中だったレイクリゾートのオーナーさんに交渉し、施設管理を条件に使わせていただけることになりました。 パドルアクティビティーの拠点は確保しましたが、飲食店の店舗探しには苦労しました。 予算の関係もあってなかなか決まらなかった。でも粘り強く探し、待ち、いまの場所を購入することができました」。 決断と行動の速さを感じるエピソードに、アイスホッケーでゴールキーパーを務めていた大海さんの判断の速さがリンクして聞こえた筆者です。 店舗は、以前『ケニア』というレストランだったところです。 登別駅から登別温泉方面に向かうメインストリートに位置するとても目立つ場所にあります。 ドア枠は大好きな緑に塗り変えました。 店内の内装は電気工事(資格も持っています)に至るまで、 ほとんど自分でリノベーションされています。 「ところで、GOTHAM DRIVE INという店名の由来を教えていただけますか?」 「映画のバットマンに出てくる地名です。 映画の中のGOTHAMはNEW YORKのことなのですが、劇中では薄暗いイメージに描かれています。 それが登別という晴天率の低い街と重なりました。 まあ、単純にバットマンが好きというのもあるんですけどね。 それと、うちは『CAFÉ』ではないんです。 あくまでも『DRIVE IN』として存在したいと考えています。つまりファーストフード店でありたい。 そういう意味で、クオリティーの高さと提供の早さを売りにしたい。 観光のお客様って結構時間に追われています。 レストランやカフェは14:00くらいで一旦閉めてしまうところが多いですよね? だから14:00を過ぎても開いていて、その時間に食べても夕食に影響が少なくて、車の中で片手でも食べられるものと考えたらこのようなメニュー構成になりました。 何より、大好きなメキシコ料理が提供できますし」。 「カルニタスの肉は牛肉と豚肉を別々に煮込み、合わせて作っています。 牛肉は肉の食感を残したいので歯応えを感じるように。 豚肉は柔らかく煮込んであります。 それと、メキシコ料理は辛いイメージがあると思いますが、お子様でも食べられるように、ベースの味付けには辛みスパイスは使用していません。辛いのが好きな方には別添えのスパイスで調整していただいています」。 味への拘りも相当なものでした。 時間を作っては、東京や大阪などの珈琲店や飲食店などを巡り、知識やアイディアの入手に努めているというお話しも伺いました。 日々の研究にも余念がありません。 「GOTHAM DRIVE INは、『おいしいね!』と言ってもらえるもの、手軽に直ぐに食べられるものを提供する親しみやすいファーストフード店を目指します」。 最後にそう語った大海さん。 日本マクドナルド創業者の藤田田さんを尊敬していると伺い、全てに合点がいった筆者です。 目指す師匠がもう一人いらっしゃいました。 もしかしたらいつの日か、西胆振にGOTHAM DRIVE INがチェーン店展開する日が来るかも? 大海さんがクールに目指すパドルアクティビティーとファーストフード店の両立。 心から応援したいと思いながらタコスを頬張りました。 次はナチョスをいただきます!! ―GOTHAM DRIVE IN 情報― https://www.instagram.com/gotham_drivein?igsh=MWx2eGk3dTI1bjJidg== 住所 〒059-0463 登別市中登別町174-9 電話 090-6937-7540 営業 10:00~18:00(水曜日11:00~22:00) 休み 木曜日 *2024.2月現在求人中 ―Paddle Street Outdoor Service情報― https://www.instagram.com/paddlestreet?igsh=enh5eGY3c3BuaDB1
Rietty
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